猿島は,横須賀新港からおよそ1.7km,周囲約1.6kmの南北に長い無人島で,年間8万人もの人が訪れるレジャー島である.しかし,猿島とは言え,猿がいるわけではない.詐欺みたいなものだが,訪れた人々を何となく合点させてしまうような魅力が,この島にはある.東京湾に浮かぶ唯一の自然島という,ちょっと不意を衝くような地理的条件も確かに魅力的だが,加えて大きな役割を演じているのが,今回紹介する砲台の遺構である.この猿島には,三笠公園脇から船に乗って行く.ほぼ15分の船旅は,日常とは異なる場所へと私たちを誘う格好の序章となる.
そもそも猿島の由来は中世以来の信仰伝承にある.しかし,そうした信仰の場としての性格を近世末期には一変させる.近海での外国船の往来が頻繁になった江戸末期,江戸湾防備の一要点として,1846(弘化3)年に砲3門が設置された.ペリー来航の7年前である.以降,信仰から軍事,そしてレジャーへと進む歴史の遠近法は急激な展開を見せる.
明治政府による沿岸防備は,1873(明治6)年に仏軍陸軍中佐マルクリーが図上で要塞位置を選定したのを皮切りに,種々の検討がなされた.1878(明治11)年に海岸防禦取調委員会が設置され,要塞設置の順序として,「第一東京湾海門,第二大阪湾,紀淡海峡,第三下関海峡」とし,「うち東京湾海門を最先とし,各部の順序は観音崎・猿島・富津」とする意見を上申した.また,『明治工業史』に詳しく紹介されている東京湾要塞の海堡も,同委員会の常任委員西田明則陸軍工兵大尉の発案である.
1880(明治13)年,観音崎第2砲台が起工され,これが東京湾要塞のみならず我が国の近代要塞建設の嚆矢となる.東京湾要塞には24の砲台・堡塁があり,横須賀軍港の防備,湾口への侵入阻止,それらの背面防御の3種によって構成される.猿島砲台は,軍港守備と侵入阻止,両者の要を成す.起工は1881(明治14)年11月5日,竣工は1884(明治17)年6月30日.戦備完了は1895(明治28)年4月1日であった.設計・施工は,陸軍臨時建築署(当時)が担当し,そこで技術主任であった上原勇作陸軍工兵大尉(後元帥)がフランスで築城学を学んできた経緯から,フランス式築城方式が採用された.その後,日清戦争までに由良・下関・対馬の主要海峡へ,日露戦争までに函館・舞鶴・広島湾・佐世保・長崎の主要港湾および鳴門・芸予の海峡へと要塞建設は展開していく.日露戦争に勝利した明治政府は,1909(明治42)年以降,要塞整理を検討する.関東大震災によって被害を受けた猿島砲台は,一度も使用されることなく1925(大正14)年に除籍.その後,海軍に移管されて高角砲陣地となり,終戦を迎える.戦後は,いち早く観光拠点として注目され,1947(昭和22)年に横須賀市が大蔵省から有償で転用許可を得,1949(昭和24)年には海上公園として開園した.
さて,島の南側にある唯一の波止場(西側に陸軍の隠し波止場があるが)に着くと,まず,こぢんまりとした砂浜が私たちを迎えてくれる.近年作られた木製デッキなどを左に見ながら,煉瓦造りの旧発電所を回り込むように坂道を上っていくと徐々に森の中に入っていく.突き当たりを右折すると,深い切り通しだ.やや上り坂になった一直線の切り通しは,いくつかの迂回を経由してきた私たちの目に,強い遠近法として映る.ここから煉瓦造りのトンネルに至る経路は,猿島体験のクライマックスであり,外部からは全く窺い知れないその空間は,来訪者にとって軽い驚きとなる.昨年度行われた発掘調査によると,切り通しの東側からトンネルの上部までは人工的に造成されたものらしい.起伏に富んだ自然地形をならし,20~30cmのローム土を入れ固め,その上に砂を敷くという工程を繰り返したもので,厚いところでは1.4mにも達している.造成後,東側山頂に24センチカノン砲4門,トンネルを出たところに27センチカノン砲2門が設置された.この切り通しを形作る石垣は,横浜や横須賀で見られるブラフ積みであり,ところどころ煉瓦造りの兵舎や弾薬庫が組み込まれている.煉瓦はフランス積みで,愛知県西尾市の東洋組西尾分局士族就産所のものが使用された.木漏れ日の中,石積みと煉瓦壁は美しいコントラストをつくっている.2階建ての地下室が併設された長いトンネルを下り抜けると,さらに,正面に1本,右側を回り込むように1本,2つのトンネルが口を開けている.共に昭和期の高角砲陣地へと通じているが,正面のトンネルを抜け,高角砲陣地を横切り,崖につくられた階段を下ると,江戸時代の台場の1つ,卯ノ崎台場に出る.明るい光の中に広がる東京湾のパノラマは,深い森の中を巡ってきた私たちに新鮮な展望を与えてくれる.
現在,横須賀市は猿島公園整備を計画中である.平成11年度には,「(仮称)猿島公園に関する提言」がまとめられ,平成12年度には発掘調査が行われている.この計画には,固有の文化を有している地域や環境全体を博物館として考えるエコミュージアムという新しいコンセプトが掲げられている.複雑な「歴史」,多様な「自然」,レジャーとしての「(無人)島」生活,それらがうまく折り合わされれば,この小さな無人島に埋め込まれた遠近法が奥行きを増し,これからの私たちに何らかの展望を与えてくれるのではないだろうか.
(出典:埋め込まれた遠近法 東京湾猿島砲台(土木紀行),星野 裕司,土木学会誌86-8,2001-8,pp.99-100)
神奈川県横浜市横須賀