関東大震災後の帝都復興,隅田川には数々の橋が架けられた.浜離宮から水上バスに乗り,永代橋,清洲橋,蔵前橋と,一つ一つデザインの異なる橋をくぐってゆく.終点,吾妻橋のたもとで降り,脳裏に橋を反芻する.そして,つくづく思う.都市を代表する橋として,特にその風格と存在感において,国内にこれらの橋梁群を上回るものは見いだせない,と.
隅田川の橋梁群は,帝都復興一環として実現した.帝都復興事業とは,大正12年9月1日の大地震で壊滅した東京と横浜の都市復興プロジェクトである.その目指すところは,単なる原状回復ではなく,震災を機に,帝都たるに相応しい理想的な都市デザインを行うことにあった.当初の壮大な計画は,紆余曲折の末に大幅な縮小の憂き目にあうのだが,隅田川の一連の橋梁群が帝都の面目を賭けた近代都市デザインの一環として実現したという事実は,念頭においておく必要がある.
復興計画の推進役であった内務省復興局は,東京だけで130余りに及ぶ橋の設計を行うが,そのうち隅田川に架かる橋は,下流から相生,永代,清洲,蔵前,駒形,言問の六橋である.復興局は,大部分の橋に標準デザインを定めて設計作業の効率化を図る一方,この六橋に対しては全橋梁予算の三分の一を充て,デザイン検討に全力を注ぐ.隅田川の六橋は,新しい帝都東京を象徴するメルクマールとして位置付けられたのである.
これらの橋をいかにデザインするべきか,当時かなりの議論があった.特に若い建築系の技術者の間には,橋梁は実用物であるから美術品を扱うがごとき造形意図を持ち込むべきではない,六橋は同じ形式に統一すべきであるという意見が根強く存在していた).それに対して,復興局土木部長としてデザイン選定の任にあたった太田圓三と,橋梁課長の職にあった田中豊の二人は,六橋すべてに異なる構造形式を適用するのである.
当時永久橋と呼ばれた鉄の橋は,細かいメンバーが鳥籠のように組まれた無骨なトラス構造が主で,目障りで不快な橋,とあまり評判が芳しくなかった.おそらく,太田と田中の意図は,そのような明治時代の橋のイメージを払拭し,帝都を飾るにふさわしい近代的な橋,新しい橋を実現することにあったのだろう.そのために,文学的素養に恵まれ芸術家肌と呼ばれた太田は,画家にデザイン案を求めるなど新しい橋の形の可能性を模索し,一方堅実なエンジニアリングセンスの持ち主であった田中は,橋梁技術の新しい方向を見極めて,近代的な構造形式を見い出そうとする.
二人の個性の融合は,六個の異なる橋の形に結実する.相生橋は7径間ゲルバー桁橋,永代橋は下路式タイドアーチとゲルバー桁の組み合わせ,清洲橋は自碇式の吊橋.さらに,上路式三連アーチの蔵前橋,主径間に中路アーチを用いた駒形橋,3径間ゲルバー桁の言問橋が続く.さながら橋の見本市である.それぞれの形の決定にあたっては,地質の状況,架設上の要件,周辺環境や隣接する橋との調和等が考慮されたが,六橋すべてに共通するデザイン上の原則も定められていた.主構(アーチリブ),主桁,補剛桁に,一貫して鈑桁構造が用いられたのである.
当時は,桁の形式としてトラスと鈑桁のどちらが優れているかが,技術上重要な論点であった.トラスは材料の節約や運搬架設の容易さに利点があるが,接合部の多さに起因する諸問題が発生する.一方の鈑桁は,自重が大きく架設やコストの面で不利となるが,剛性や耐久性ではトラスを凌駕する.田中は,以前ドイツのケルンを訪れた際に,補剛桁に鈑桁を用いた吊橋を実見し,これからは鈑桁による長径間構造が主流になるというエンジニアとしての直感を抱いていた.そして,すべての橋に鈑桁構造を用いることを原則として,六橋のデザイン案をまとめるのである.それらの案は,新しい橋の形を求める太田の美意識にも合致するものであった.一貫した鈑桁の採用には,これこそが帝都に架すべき近代橋梁の形である,という彼らの主張が込められていたと見て間違いない.
なかでも,ケルンの吊橋に倣って補剛桁に鈑桁を用いた吊形式の清洲橋と,当時一般的な形であったブレーストリブアーチ(トラスで組まれたアーチ)を嫌ってソリッドリブアーチに挑戦した永代橋の二橋については,特に入念にデザインが検討された.ニューマチックケーソン基礎や,当時海軍が試作研究していたデュコール鋼(高張力鋼)の使用など,最先端技術も惜しみなく投入され,復興橋梁中の白眉ともいうべき力作となっている.また,路上に一切架構を露出することなく鈑桁のみで軽々と川を跨いだ言問橋は,最も上流側にあるためにあまり目立たないものの,太田と田中が自信をもって示した近代橋梁のプロトタイプであったといえるだろう.
東京を近代都市に改造しようと目論んだ帝都復興事業のうち,多くの計画が挫折に終わる.東京は,近代都市に生まれ変わる千載一遇の機会を逸し,江戸以来の前近代的な都市構造を抱え込んだまま肥大してゆく.その中にあって,永代橋や清洲橋をはじめとする復興橋梁群は,当時のエンジニアたちが夢見た近代都市東京の姿の断片を,堂々と今に語り継いでいる.
諸元・形式:
永代橋
構造形式:橋長 185.2m/幅員 22.0m/構造 3径間バランスド・タイドアーチ
竣工:1925(大正15)年
清洲橋
構造形式:橋長 186.2m/幅員 22.0m/構造 3径間自碇式吊橋
竣工:1928(昭和3)年
(出典:隅田川に架けられた帝都復興の夢 永代橋・清洲橋と隅田川橋梁群(土木紀行),中井 祐,土木学会誌86-2,2001-2,pp.34-35)
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453)
永代橋
東京都中央区新川一丁目,江東区永代一丁目
清洲橋
東京都中央区日本橋中州,江東区清澄一丁目