産業革命を経て近代化に邁進する欧米列強に、後発ながら加わる覚悟を決めた日本。その船出間もない明治政府を牽引した人物に、内務卿・大久保利通がいた。彼は、明治初頭の殖産興業のための国家プロジェクトの主軸に東北地方の開発を掲げ、その物流拠点の港に野蒜を選ぶ。
野蒜は仙台から約30kmの東北に位置し、仙台湾に面する、幕末までは鳴瀬川河口右岸の一小村に過ぎなかった。仙北平野の西を流れる鳴瀬川。その東には、岩手から南流する北上川があった。現在、追波(おっぱ)湾に注ぐ北上川河口は、明治末から昭和初頭に行われた内務省の分水事業で変更されたものであり(詳細は学会誌平成11年2月号の『土木紀行』を参照されたい)、それ以前は旧北上川の河口・石巻にあった。江戸末期の石巻湊は上流からの流砂によって閉塞し、川船と海船との荷の積替えに苦慮していた。この石巻の代替湊として野蒜が注目されるのは、一説によれば明治9年の明治天皇の東北御巡幸の下見で大久保が野蒜を通過した時からと言われている。)
築港決定のための調査と設計は、オランダ人工師ファン・ドールンに委ねられた。明治政府は、河川と港湾の技術者として5年からオランダ人を雇用し、ドールンはその長工師にあった。彼は、調査のため9年9月と10年1月から50日ほど石巻に出向いて候補地を調査し、野蒜が妥当として築港計画を立案した。
11年5月には大久保が凶刃に倒れながらも、工事は翌月から始まった。計画内容は、北上川から西へ約12kmの野蒜まで北上運河を開鑿(13年開通)、野蒜から西へは松島湾を経て塩釜から貞山(ていざん)運河(一部は近世に開通、17年から県の工事で23年完成)に入り,阿武隈川河口までを接続する。また、野蒜の後背地の交通のために、秋田や山形への道路整備や河川改修を宮城県が推進した。
付帯施設として、まず、北上川から北上運河への入口に日本初の近代閘門である石井閘門(現存)が設置された。本体は煉瓦と石から成り、門扉は木製合掌式で、13年に竣工。港湾施設は、鳴瀬川河口の内陸側を船溜とした内港にする。内港への常水の流入を低減するために直上流に越流堰を建設、その左岸から南東方向に新鳴瀬川が開鑿された。その末端と内港出口には突堤が築かれた。それら2つの川に挟まれた地域に新市街地が計画され、岸壁に桟橋が建設された。新鳴瀬川には3本の架橋(煉瓦橋台のみ現存)、北上運河と太平洋の間の砂丘上に防潮堤が建設された。港と運河の開鑿と浚渫では機械式、手動式浚渫機械が輸入され、かつ、従来の鋤簾による浚渫方法も併用された。ドールンは河口の外で南西に広がる潜ケ浦(かつぎがうら)を大型船舶停泊用の外港とすることも指摘していたが将来的なものとされた。
工事資金は、初の国内市場向け国債として11年5月に発行された起業公債によっている。政府は、その出資者へ「起業公債并起業景況報告」を数回発行し、事業内容と状況について詳細なアカウンタビリティーをみせた。それによると、工事で特に苦心したのは内港出口の東西突堤とされている。これは粗朶(そだ)沈床(ちんしょう)で枠が組まれ、その上に重石が充填されるものであった。粗朶沈床は蘭人工師が河川の低水工事で積極的に導入したものである。しかし、こうした突堤は建設途中から波浪による揺動に耐えられず完成が遅れていた。そして、設計変更を経て15年10月に突堤落成式が挙行され、築港の一応の完成をみた。この頃、野蒜と松島湾を連絡する椿湾海峡が堆砂で閉塞し始め、また、内港出口も漂砂が堆積し問題となっていた。その解決策として、翌年から内港と松島湾を連絡する東名(とうな)運河が着工され、17年に開通した。
その年9月粗朶沈床による突堤が台風によって大規模な破損を受け、港の維持が疑問視され始める。設計者ドールンは13年に帰国しており、築港継続の審議は12年に来日していた蘭人工師・ルーエンホルスト・ムルデルや他の人々から提出された報告書を基に行われた。ムルデルは、継続の限界を示唆し女川築港を薦める。その後、明治政府は野蒜以外の港を模索し始め、野蒜築港の中止は決定的となっていく。
野蒜築港破綻の原因は、適地選定の誤り、工法の不備、後背地の資本蓄積の未熟、松方デフレ政策課の金融閉塞など数多く指摘されている。また、上野~仙台~塩釜間の鉄道が開通し、さらに鉄道や道路網が整備されてくると、舟運は衰退していく運命でもあった。
ドールンの設計では完遂しなかった野蒜築港。しかし、彼は同時に安積疏水事業にも関わっており、その成功によって、地元、福島県郡山市では功績が顕彰されている。
そして2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震が発生し、仙台湾に大津波が襲来した。津波は防波堤を越え、水田地帯にまで侵入した。「野蒜気築港関連事業」においても大きな被害を受け、国の重要文化財である北上運河北端の石井閘門も地盤沈下と石積みやレンガ積みが一部損壊した。震災時に津波で冠水した地域の海水は、ポンプ車により運河へと放水された。この運河群がなければ、水田地帯の除塩作業や復旧作業は大幅に遅れたであろう。
野蒜では、平成10年の「土木の日」を機に結成された野蒜築港120年委員会(土木学会東北支部)によってシンポジウムが度々開催され、地元の人々の積極的な参加の下、野蒜築港を再考する機運が高まっている。最近では野蒜築港ファンクラブまでが結成され、近隣の小・中・高校では築港を教材に、種々の活動が積極的に展開されるようになった(学会誌2000年6月号、pp.20~22を参照されたい)。こうして、野蒜築港が語りかけているものを探り出そうとする動きは世代を問わず、幅広く浸透しつつある。そこでは蘭人工師達が手掛けた築港三兄弟の三国(みくに)(福井県)、三角(みすみ)(熊本県)との連携も築かれつつある。これまで、ひっそりとたたずんできた野蒜築港跡地や関連施設は、120年を経た今日、本来の機能ではなく、文化や歴史を探究する場として、かつ、近代公共事業の勃興と中止、土木技術者のあり方を省みる場として復活しようとしている。
(出典:復活の時 野蒜築港(土木紀行), 知野 泰明,土木学会誌86-1,2001-1,pp.66-67)
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453)
宮城県仙台市、東松島市、石巻市