万世大路のあらまし
明治7 年(1874)、福島の飯坂村 3 区立岩一郎区長は、米沢街道による往来の不便を憂へ、旧米沢藩が通行を禁止した中野越え(明神峠)の秘線があることを知り、明神峠越えの山道開削を福島県に陳情した。福島県は明治 8 年に現地調査 を行い、中野・明神峠・赤浜を結ぶ路線案を作成した。 当時、置賜県庁でも同様の計画があった。 明治8年、伊藤博文工務卿により、福島・ 置賜両県に対し、福島から山形への電信線(電報線)架設について便宜を計るようとの達しがあり、両県が協力して電線路の選定 と、道路の予定線の調査を行った。
さらに三島通庸は 、明治9 年(1876)年8月 に、新山形県令に就任すると、山形県の振興にはまず東京に出る幹線道路の整備が急務と考え、山形県南部・米沢から福島に抜ける最短路として刈安新道(後に、福島県側の中野新道と合わせ万世大路と命名)の建設を計画した。
山形・福島県境に位置する栗子山(標高 1、216m)を越えた我が国初の近代的幹線道路である万世大路の建設経緯については 、数多くの著書・報文があり、ここに改めて詳もなく、栗子ル‐トに新道を開削する気運が 福島県の間に起き 、三島が山形県令に就任する以前から、福島県飯坂村付近の住民が中心となり、計6回もの路線調査を実施していたことは特筆すべきだろう。
三島は、幕末の頃米沢藩で もこの方面に新道を開く計 画があったことや、福島県を中心とし既に路線調査が行われた経緯を知っていたのであ る。明治9年11月、山形・福島両県の協議が整い 、「刈安新道開削二関スル山形 、福島 両県ノ結約書」が締結 され、山形県は同年1 2月、『米津ヨリ福嶋二通スル刈安新道開撃 之儀ニ付伺」を政府に提出するとともに、福島県も同じく12月に、新道路開設の書類を 政府(内務卿大久保利通宛 )Iこ上申し新道建 設が開始された。
山形から東京に出る直達路として計画さ れた万世大路の路線位置は 、伊達氏が軍略的な道路として開削した赤浜道(旧米沢街道)をほぼ踏襲しながら、栗子山に延長876mの栗子山隆道を穿った。
工事はトンネル掘削に、最新鋭の米国製 ・エアコンプクッサ削岩機を導入し、東海道の宇津之谷隆道(224m)と並び本格的な近代土木工事であったものの、トンネル構造は依然として素堀りのままであった。
この米沢から福島に至る新道は、完成した後の明治15年2月に、明治天皇から「万世大路」 と命名いただいた 。これは「永久にいつまでも頼りにすることができる道j という意味である。この「万世大路」の命名は 、四書五経の ひとつ、「尚書』からとられたもので、詳しくは「帝日諭地平天成六府三事充地世永頼 時之功」の一節である。「災害などが起こらないように、山や川のありょうを整え、大地を平にして天の運航を規則正しくして、六府(生活に必要な水、火、金、木、土、穀)と三事(徳を正し、用を利し、 生を厚くすること)を本当によく整えて、永久にいつまでも信頼が置けるようなものにさせた、これはすべてお前の功績である。」 というお褒めの意味という。
なお、最後の「地平天成」は 、現在の元号、平成の出典の句である。
後に万世大路と呼ばれたこの新道(計48.2Km )は、米沢市内から栗子隠道の福島側坑口までの山形側を「苅安新道」(18.4Km) として山形県が担当し、福島市内(現置賜 町)から栗子隠道福島側坑 口までの二ツ小屋隠道を含む 29.8Kmを『中野新道」と呼んで福島県が事業を担当した。道路構造は、幅員が4間(7. 2m)、隧道の幅員3間(5. 4m)を基本とした
出典:万世大路調査研究実行委員会、『万世大路を歩く-福島・米沢を結ぶ歴史的幹線道路に関する調査報告-』