東急田園都市線「桜新町駅」から徒歩10分
緒言
設計顧問:中島鋭治
駒沢給水所
完成年:1924(大正13)年
配水塔
完成年:1923(大正12)年
構造RC 造、天蓋にSRC 造、内部に
鉄板、モルタル塗り
内径:12.12 ~ 14.55m
高さ:約30m
容量:一基あたり2,750㎥
配水ポンプ所(第一配水ポンプ所)
完成年:1933(昭和8)年
構造:RC 造
ポンプタービンポンプ4台
渋谷町水道東京・世田谷の閑静な住宅街にまるで西洋のお城のような構造物がある。初めて見る人はそう驚くが、近所の住民には長年親しまれてきたものである。
大正時代初め、東京の人口増加にともない渋谷町では井戸水枯渇や水質悪化のため、衛生と防火の面から町営水道の創設が望まれた。東京府北多摩郡砧きぬた村字鎌田地先(現東京都世田谷区鎌田)の多摩川本流から取水し、河畔の砧浄水場でろ過後、ポンプにより東京府荏原郡駒澤村字新町(現駒沢給水所)へ送水する。駒沢給水場内の配水塔に溜め、そこからは渋谷町へ自然流下させる経路である。
設計顧問に衛生工学の権威中島鋭治博士を迎え、1921(大正10)年5月に起工し3年後の3月に全工事が完了した。いうまでもなく日本の近代水道に尽力した博士であるが、渋谷町水道は最晩年のものにあたる。
関東大震災にも耐えた双子の配水塔配水塔は2基ありその間をトラスの管理橋が結んでいる。鉄筋コンクリート造で打放し仕上げ、しかも装飾がなされており当時としては大変珍しかった。
第二配水塔が1923(大正12)年3月に、第一配水塔は同年11月に完成したのだが、同年9月に発生した関東大震災による大きな被害はなかった。
天蓋中央には半球状の屋根をもつ四あずまや阿が備えられ、側壁面には「工学博士:中島鋭治、主任技師仲田聰治郎、技手:吉田篤三」と刻まれた銘板のほか、建設時の内務大臣水野錬太郎の筆により「清セイレツカガミノゴトシ冽如鑑」、「滾コンコントシテツキズゝ不盡」の各銘文が埋め込まれている。
現在は災害時に飲料水を供給する応急給水施設として備えられている。2002(平成14)年には長年親しんできた地元住民らによって「駒沢給水塔風景資産保存会」が結成された。東
出典:小野 吉彦,『駒沢給水所(配水塔・配水ポンプ所)─住民に親しまれた街のシンボル─』、土木学会誌、Vol.98,no.4
所在地:東京都世田谷区弦巻2丁目41番
アールデコ装飾のポンプ所渋谷町水道の第一期拡張工事で配水ポンプ所(第一配水ポンプ所)が1933(昭和8)年に建設された。鉄筋コンクリート造で外壁には黄褐色のスクラッチタイルが貼られている。縦長の窓が並び、入口まわりにはアールデコ調の装飾が施され、昭和初期の特徴がよく表れた建築物である。敷地内にはほかにも歴史的な構造物がいくつか残っている。渋谷町への流出水量を計測したベンチュリーメーター室、配水池、中央に亀の像のある方円池、渋谷町長藤田信二郎の碑文を刻んだ水道敷設記念碑などである。住民に親しまれ保存会結成1965(昭和40)年には第2ポンプ所が増設されたが、やがて日常の水道供給は他の拠点へと移り1999(平成11)年に給水所としての機能が停止した。
出典:小野 吉彦,『駒沢給水所(配水塔・配水ポンプ所)─住民に親しまれた街のシンボル─』、土木学会誌、Vol.98,no.4
外壁面には12本の付柱があり、その頂上部には薄紫色装飾球が取り付けられている。竣工時には毎晩点灯され障害物もなく遠くからその光は見えたという。のちに破損していたガラス製からポリカーボネート製へと修復され、現在は地元桜新町のさくらまつりが行われる4月、水道週間の6月1~7日、都民の日10月1日の夜に点灯されるのでぜひ見ていただきたい。
東京都水道局協力のもと、都民の日(10月1日)には年一回の敷地内一般見学会が行われており、その募集は保存会が行っている。近代化遺産としてはもちろんのこと、豊かな草木の生い茂る駒沢給水所の環境を含め次世代へと残していってほしい。
出典:小野 吉彦,『駒沢給水所(配水塔・配水ポンプ所)─住民に親しまれた街のシンボル─』、土木学会誌、Vol.98,no.4