二ヶ領用水の歴史 「ニヶ領用水」 の受益地区は,多摩川下流右岸に位置 し,江戸時代の川崎領と稲毛領の「二つの領」に跨っていることから名付けられた。徳川家康は,江戸への移封後,江戸 ・武蔵野の開発に力を注いだが,「ニヶ領用水」開削もその一環であった。
家康に命 じられた小泉次太夫吉次(1539~1623,駿河国出身)が指導者 となって,1597 年から測量,開削工事が行われ,14年の歳月を要し1611年に延長32kmに及ぶ農業用水路が関削された。
多摩川下流右岸の低地から川崎海辺の干拓新田にかけて灌漑用水と沿線の村々の生活用水を供給するもので、関削時の灌漑受益面積は1,876町歩であったと言われている。100年後の1717年にはその受益は60カ村 (2 領),2,007町歩までに増加し,その石高は25, 964石余に達した。ニヶ領用水の多摩川からの取入 口は,「中野島 (上河原)」 (川崎市多摩区布田)と「宿河原」(多摩区宿河原)の2か所があり、現在に及んでいる 。この取入口の創設時期等については諸説 があるが,一般には中野島取入口は二ヶ領用水路が開削された直後の1611年に造られ,宿河原取入口は1629年に造られたと言われている。
享保の頃 (18世紀初期)には,田中丘限 (休愚) (1662~1729) が荒廃していた用水路を大改修した。開削の祖・小泉次太夫 と中興の祖 ・田中丘隅を,水恩の人「泉田二君」 として,地元では今日までその偉業を顕彰している。中野島・宿河原の2 カ所から取入れられた用水は、久地で合流し、その合流点から下流 1.3 kmの地点に分量樋が設置され,それぞれの灌漑面積に比例 した水量比率により4方面に分水された。昭和16年(1941)に,その下流200mに神奈川県農業土木技師 ・平賀栄治の設計施工による「円筒分水施設」が設置された。明治時代に入り,用水の一部が横浜水道水源となる時期もあったが,明治42 年(1909)には受益面積2, 850町歩に達した。
しかし,その後都市化,工業化が進展し,受益面積は昭和16 年には1,591町歩,昭和33年(1958)には546町歩,平成4年(1992)には26町歩と急減した。農業用水の水利権は,江戸時代から多摩川から取水していた慣行が尊重され,昭和9年(1934)に上河原:5,175㎥/s,(宿河原は消滅),別に河川管理用水(環境用水)と して1.4 ㎥/s が認め られ今日に至っている。
二ヶ領用水の完成に伴って,用水の公平な配分や水紛争の処理,施設の維持管理(普請を含む)のために,「稲毛領川崎領ニヶ領用水六拾ヶ村組合」が組織され「稲毛領川崎領ニヶ領用水六拾ヶ村組合」が組織されこの村単位の用水組合 と共に,大水路(堀)を中心とした7つの用水組合,そして大水路から引き入れた堰ごとの15 の用水組合が組織化され,実際の用水管理に当たった。
多摩川は,頻繁に洪水と渇水を繰り返したが,その影響は直ちに多摩川沿岸の各上水・用水に及んだ。ニヶ領用水もその例外ではなく,洪水被害をしばしば受け,その復旧工事(普請)には用水組合を挙げて取り組んできた。一方で,渇水も頻繁に発生し,このため番水や上流の取水制限取り決めがなされてきた。それでも,水紛争・水争いはしばしば発生した。中でも 1821年の「溝之口村水騒動」は記録も残されている。それによると,下流の川崎領の村々では,稲が枯れ,飲み水にも困り,幕府の用水支配の役人に願い出た。その結果,役人の指示に従い ,川崎領へ特別に水を流すことが約束されたが,実際にはなかなか履行されなかっ た。そこで,川崎領の農民は管轄の代官へ訴えたが, 玲が明かない。業を煮やした川崎領の農民は,7月6日に実力行使に出た。およそ1万 2,3 千人(古文書による) 浩司官毛領溝 口村へ押しかけ,名主の家等を 打壊した。
この騒動の後の8月には雨が続いたという。川崎領の騒動の首謀者は次々に入牢 (拘留)させられ,10月には軽い罰金刑で釈放されたが,大師河原村の粂七は川崎宿久根崎(川崎区旭町)の医王寺の鐙をつき,多くの人を集めた首謀者である として,「江戸十里四方追放」 となった。
明治時代に入って,明治23年(1890)に水利組合条例が公布され,ニヶ領用水においても普通水利組合の設立が準備されたが,長年の流域町村の利害対立もあって容易には合意に達せず,ようやく7 年後に「稲田村ほか十こか町村用水普通水利組合」(その後「稲毛川崎ニヶ領用水普通水利組合」と名称変更)と「大師河原村ほか四か町村普通水利組合」の2つの組合の設立が決まった。
しかし,組合員の資格要件を巡って県当局と対立し,組合員は土地所有者であることで決着し,翌年に組合が認可された。昭和7年(1932)に,東京市が帝都の水を確保するために小河内貯水池計画を発表 した。
これに強く異を唱 えたのは,ニヶ領普通水利組合であった。多摩川の水利関係者に何の相談もなく計画を進めてきたことに抗議したものであった。このため,ダム計画は予定より遅れ,昭和11年(1936)に調停が成立し,神奈川県は二ケ領用水改修費を補償金として150万円を東京府から受け取った。その2 年後に小河内ダム工事は着工されたが,太平洋戦争の勃発により中断され,戦後に再開され昭和 32 年(1957)にようやく完成 した。
二ケ領用水の受益地区においては,特に大正,昭和時代に入って,都市化,工業化の波が一挙に及び,農地が転用され,普通水利組合は財政的に窮地に追い込まれ た。一方で,川崎市(大正13年(1924)に市制に移行)は都市用水の需要増に対処するため,二ヶ領用水沿線 の町村を次々に合併し,市域を拡大していった。昭和16年(1941)には,農業用水団体としての普通水利組合は一切の権限を川崎市に移管 し,3年後に解散した。
戦後,多摩川対岸の「六郷用水」は完全に姿を消 したが,「二ヶ領用水」は僅かに残った農地への灌漑用水,そして都市用水,環境用水の多目的用水として生き残っている。
昭和49年(1974)の台風16号によって,多摩川流域は大洪水に見舞われた。特に,下流の宿河原堰付近で,9月1~2日にかけて,多摩川左岸の東京都狛江市側の本堤が決壊し,19棟が濁流に呑込まれた。決壊口から宿河原堰に沿う濁流を切 り替えるために,堰堤の一部が爆破 された。これらの一部始終がテレビで流され,人々の注目を浴ぴた。マスコミは,宿河原堰がなければこのような災害は起きなかったとし,災害の元凶のように報道した。被災者は,堰管理者川崎市と多摩川管理者建設省を相手に「人災」として訴訟を起し,勝訴した。しかし,その後,二ヶ領宿河原堰 を巡って,堰不要論まで含む両都県関係者の話し合いが持たれ,旧堰堤のやや下流に改築することが決定さ れ,平成11年(1999)に完成し,堰は再建された。また,取入口地点に「せせらぎ館」(多摩川エコミュージアム)が建設された。
出典:大橋 欣治,『水利遺産探訪 江戸・東京の水利探訪』