緒言
規模:計画給水人口数:10万人
最大給水量:46万ft3
竣工:1922(大正11、中華民国11)年
日本による台湾領有と都市開発1895(明治28)年、台湾は日本によって領有され、その後半世紀にわたり台湾全域の開発が進められた。領有当初の台湾ではマラリアなどの亜熱帯地域の風土病、感染症に悩まされた。
内務省衛生局長の後藤新平は、台湾の衛生状況を改善するため、当時東京帝大で水道工学を講じていた英国人バルトン(William. K. Burton, 1856~1899年)と、若き浜野弥四郎(1869~1932年)に現地での調査と水道事業の計画を依頼する。バルトンと浜野は翌1896(明治29)年夏台湾に赴任し、北部より調査を始め、1898(明治31)年に「台北市区改正計画」に沿った「台北近代水道計画」を策定する。
台中、台南地域の調査ののちバルトンは台湾を離れ、故国英国に帰ることなく日本で逝去した。浜野の水道調査、計画は北部基隆から台中、さらに南部高雄まで台湾東海岸都市のほぼ全域に及ぶ。途中欧米視察を挟み、1908(明治41)年基隆、1909年高雄、1911年嘉義と各水道が着工、1909年台北上水道が竣工した。1910(明治43)年、八田與一(1886~1942年)が台湾総督府土木課に着任した。約2年間浜野の部下として上下水道の計画を推進する。
台湾南部のインフラとしては、ほかに高雄県の竹子門水力発電所が1909(明治38)年に竣工し、現在もなお稼働している。バルトン、浜野の台南水道と、八田の嘉南大圳浜野によって「台南水道計画」が策定され、1912(大正元)年に着工される。台南水道は当時の人口6~7万人を配水対象としたが、計画規模は10万人であった。曾渓水から取水し、当時最新の急速濾過方式が採用された。
八田は、1916(大正5)年頃から浜野のもとを離れ嘉南平野の開発計画を策定し、大圳農業用水工事に専念することになる。嘉南大圳は、台湾最大の嘉南平原農業地帯をつくり出した。
出典:横松 宗治,陳 正哲,『台南水道-台南地域発展の基盤をつくる-』土木学会誌,Vol.97. No.1, pp.10-11
所在地:台湾台南市山上区
バルトン、浜野弥四郎、八田與一の三人の土木家は、その功績を称えた現地の日本人や台湾人によって銅像を建立された。そしてバルトンは、台北市自来水博物館内に「台湾水道の父」として顕彰されている。台南水道史跡周辺の整備を嘉南大圳水源の烏頭ダム周辺は広域の烏頭ダム風景区として整備されている。ホテルなどを併設したリゾート地となり、また建設にあたった人びとの居住地跡は、博物館、復元住居などを備えたミュージアムパークとなっている。台南水道の、曾渓水取水地区の取水施設、濾過装置、配水設備はすでに修復整備されている。また技術者たちの住居跡なども残されている。
台南平野を見下ろす台地にある浄水池区の建築は古跡として現在修復工事が進行中である。上水道は「自然河川からの取水」、「濾過」、「貯留」、「配水」そして「都市域での利用」と、まさに「系」としての技術であり、近代都市発展の基盤である。現在進んでいる個別施設の修復整備の次の段階として、この「系」としての整備を願うものである。とりわけ取水地域の自然景観、浄水地域の嘉南平野、都市台南を見渡す立地は、この「系」を視覚的に説明するなによりの舞台でもある。
出典:横松 宗治,陳 正哲,『台南水道-台南地域発展の基盤をつくる-』土木学会誌,Vol.97. No.1, pp.10-11