銀座に我が国で初めての電灯がともされたのは明治15(1882)年。そして20年には東京電燈が日本橋茅場町に石炭を燃料とする火力発電所(出力25kw)を建設している。これからもわかるように出力も少なく送電技術も未熟な当時にあっては、需要地に近いところに火力発電所を建設するのがふつうであり、水力発電は補助的な手段と思われていた。しかし、石炭の高騰などにより水力発電が次第に注目され、24年には琵琶湖疏水を利用した蹴上発電所が運用を開始し、我が国初の営業用水力発電所として周辺の工場に電力を供給している。その後、電力需要の増大に伴って、次第に山間部に大規模的な水力発電所が計画されるようになっていった。
琵琶湖から流れ出す唯一の河川である瀬田川は、瀬田の唐橋から鹿跳橋付近の急流を経て曽束を過ぎたあたりから宇治川と名を変えるが、琵琶湖から宇治までの間の落差は70m。その豊富な水量と水位差を利用して電力を得ようとする動きは早くからあった。27年に京都の有志が発起人となって発電用水路の掘削を出願、翌年には大阪、滋賀、東京の有力者からそれぞれ同様の出願があり、競願が処理しきれなかった内務省はこれらをすべて却下して、出願者に合同を勧めた。出願者の協議が成立して一本化した計画が提出されたのは35年、許可が下りたのは39年だった。これに基づいて宇治川電気が創立され宇治発電所の工事が始められた。それは、瀬田川洗堰のやや上流の大津市南郷で最大61m3/秒の水を取り、そこから延長約11kmの水路でもって仏徳山の裏まで導いて、落差62mの水管で宇治発電所に送水するというものであった。
宇治発電所の水路工事は明治41(1908)年に12月に着手した。トンネルの掘削方法はいわゆる「日本式」と呼ばれる在来のもので、初めに予定断面の頂部に高さ2m、幅2,5mほどの小さなトンネルを掘って、地山の様子を見ながら丸型・中背・大背・土平と順次切り広げていくというものである。掘削面の上部と側部は板で覆い、これを梁や柱で支えた。この措置は崩落や落石の防止を期したものであることはもちろんだが、変形やきしみ音などから地山の変状を察知するにも有効で、異常が予感されたときには支保工の補強が臨機に行われた。導坑の掘進に当たっては、切羽に直径2cm、深さ30~60mほどの穴をいくつか穿ってこれにダイナマイトを装填して岩石を破砕した。ダイナマイトの装填孔は第1号隧道と第7号隧道には削岩機を導入したが、当初に用いた機会は中古品であったこともあって故障が続出し、急遽技術者をヨーロッパに派遣して最新式の削岩機を選定・購入させたというエピソードも残っている。なお、工事は昼夜兼行で進められ、導坑は1昼夜3交代、その他は2交代で作業員を投入した。
明治も終わりに近い当時では、施工機械が少し用いられているが、電力事業が未開拓で、大津や宇治にすら電気が通じていない時代にあっては、機械は蒸気機関または石油発動機で駆動させるしかなかった。坑内の照明も主に種油のカンテラを用いた。なお、工事に並行して仮設の水力発電所を建設し(一部は京都電燈から供 給)、43年11月からは坑内の照明は電灯に変わり、工事用電話も敷設された。掘削が終われば畳築である。側壁部の一番下に当たる部分に扶座石を置き、その上に側壁を積み上げていった。道路が未整備であったので、掘削した岩屑やレンガ・セメントなどの工事材料の運搬は工事用の人力トロッコ(当時は「トロリー」と呼んだ)によった。4年にわたる水路工事においては不慮の事故もあった。こうしてできあがった水路トンネルは2.2万kwの発電を可能にした。
いま、その「工事竣工記念碑」が観流橋のたもとに建つ。表面には工事概要が、裏面には工事関係者の名が刻まれている。最盛期で199人にのぼった宇治川電気の工事関係者は、技師長石黒五十二、主席技師千種基はじめ多くが工事の完了とともに社を離れたが、発電所の電力は宇治市内に電灯をともし、京阪電車を動かし、ユニチカなど多くの工場を誘致して、宇治市の近代化と発展に寄与し続けた。
出典:坂下泰幸,『見て歩いて考える 関西の公共事業・土木遺産探訪』 北斗書房、2013年
京都府/宇治市