緒言
竣工年:1929(昭和4)年3月
構造形式:塔:鉄筋コンクリート造
基礎: 鉄筋コンクリート井筒鋼製ストーニーゲート
有効長:83.0m
閘室長:73.0m
扉室幅:8.0m
閘室幅:11.0m
塔高さ:16.6m、長さ3.0m、幅:3.0m
利水と防水の実現1917(大正6)年10月1日、台風豪雨により淀川大洪水が発生、三栖の堤防が決壊し、中書島一帯より伏見町の西南部は全部浸水する有様で、伏見町の浸水家屋は3500戸を超えた(全戸数約5800戸の6割超)。伏見はその5月にも水禍に見舞われていた。当時の伏見は近世以来の高瀬川の舟運と琵琶湖疏水(鴨川運河)の舟運により、京都‐大阪間の重要な河港として発展していた。その半面、水理が複雑になり、淀川改良工事(1910年完成)においても抜本的な治水対策は行われていなかった。しかし大洪水を契機に、伏見防水工事が淀川改修増補工事に加えられ、1918(大正7)年度より宇治川右岸(観月橋‐三栖間)において新堤の築造が進んだ。
伏見防水工事には課題があった。伏見の北方から毎秒22㎥超の水量で流下する疏水と、その西を流れる高瀬川の水を、宇治川の洪水時にどう処理するか、であった。疏水は京都‐伏見間唯一の舟路でもあり、その水は広範な用途で用いられていた。これに対して坂本助太郎、谷口三郎の両内務技師が入念な調査と比較案の検討を行い、谷口と山下輝夫内務技師が工事を担った。そして、伏見西郊に放水路(新高瀬川)を新設し、洪水時に疏水の水を直接宇治川へ放流することとし、疏水(濠川)の流末に洗堰と閘門を設けることで、伏見港を堤内に引き入れ、宇治川に連絡し、水の利用を続けられるようにした。
三栖閘門の建設は、淀川改修増補工事の中で最も大規模な工事であり、その費用は30万円超を要し、約3年の工期を経て1929(昭和4)年3月に竣工した。山下主任技師は増補工事の竣工式において、伏見防水工事を難工事の一つとして挙げ、随分骨を折りましたと振り返った。閘門機能の衰退と蘇生当時の閘門は合掌扉が一般的であったが、宇治川側の洪水を考慮し、より確実な操作や維持修理の行いやすさを求めて、三栖閘門では引上扉を採用した。高さ約16・7mの塔は、マンサード屋根にアール・デコ調の意匠が瀟洒で、明るく軽快な印象を与える。
その後も、淀川航行業者たちの働きもあって伏見港は港湾法上の指定港湾となり(1934年)、京都の工業振興を目的とする伏見修築により船溜(長さ約230m、幅約60m)がつくられる(1947年)など、さらなる発展の動きもあった。しかし、昭和30年代には舟運の需要が急速に低下し、天ヶ瀬ダムの完成(1964年)による宇治川の水位の大幅な低下もあって、1968(昭和43)年に船溜は埋め立てられ、港の機能は失われた。三栖閘門は閘門としての役目を終えた。
出典:山口 敬太,『三栖閘門-舟運のまち 伏見を守った防水工事-』,土木学会誌,Vol.96,no.11,pp.14-15
所在地:京都府京都市伏見区葭島金井戸町
完成から70 年余りを経た2000(平成12)年、国交省近畿地方整備局淀川河川事務所は、三栖閘門の維持管理計画を立て、閘門を修復保全し、周囲一帯を公園として整備した。水が抜かれていた閘室には水が引き込まれて船着場が設置され、今では住民が運営する観光船(十石船など)の発着場として利用されて賑わう。閘門の後扉室は展望塔および展望台として、復元された旧操作室は三栖閘門資料館として、保全活用されている。かくして、三栖閘門は近代期の伏見の発展と防水の歴史を伝える使命を得て、公園のシンボルとして生まれ変わった。その瀟洒な意匠も市民に愛されるゆえんであろう。
出典:山口 敬太,『三栖閘門-舟運のまち 伏見を守った防水工事-』,土木学会誌,Vol.96,no.11,pp.14-15