緒言
建設年:1930(昭和5)年
構造様式:規模:ストーニー式鋼製扉使用、有効長90.9m×有効幅9.09m
通行船舶:最大60t級・標準40t級、閘室収容量:10隻、通行時間最大30分
閘 塔:鉄骨コンクリート製4基、高さ21.61m(堀川側)、20.18m(中川側)
備考:1986(昭和61)年名古屋市指定有形文化財、1993(平成5)年都市景観重要建造物、2010(平成22)年度選奨土木遺産に指定。
名古屋運河網計画と中川運河「握手する運河 名古屋新風景の閘門」│これは完成直前の松重閘門を紹介する新聞記事の見出し文である。松重閘門がもたらした二つの運河の接続は、名古屋の将来発展を人びとに予感させたのであろう。名古屋都市計画においては、港湾と鉄道との連絡および南部工業地域の内部連絡を目的として、運河網が計画された。既存の農業排水路であった中川、荒子川、大江川、山崎川を改修し、江戸時代より物流の中心となっていた堀川運河と合わせ、港湾を中心とした放射型の五大幹線運河とする。さらに支線で幹線を互いに連結し、運河「網」を形成するという壮大な計画であった。
1926(大正15)年、この運河網の最も主要な幹線である中川運河が着工された。松重閘門は、この中川運河と堀川を結ぶ東支線上に、水位差のある両運河をつなぎ船舶の行き来を可能にするための施設として計画された。竣工は中川運河と同じ1930(昭和5)年であるが、近隣の鉄道高架橋工事の影響により2年後に供用開始となった。最終的に運河網計画は未完に終わったが、松重閘門によって堀川と連結された中川運河は、堀川のバイパス線として大いに利用された。堀川は水深が浅く、船舶の通航が満潮時に限られたため、港湾から市内への物流には数日を要していた。しかし河口に中川閘門を擁する中川運河は潮の干満の影響を受けなかったため、従来の輸送時間・経費の非効率を解消することができた。このように名古屋の物流に大きく貢献した中川運河であったが、昭和30年代以降、貨物輸送の自動車化によりその利用は衰退し、1968(昭和43)年には松重閘門も使用されなくなった。
建築的意匠の施された閘塔松重閘門にはストーニー式鋼製扉が採用された。
2対計4基の閘塔には洋風の意匠が施されており、洗練されたデザインとなっている。その設計には名古屋市建築課技師の藤井信武が関わったという説もある。
出典:林 倫子,『松重閘門-優美な閘塔に往時の運河網計画を想う-』,土木学会誌,Vol.97,No.2,pp10-11
所在地:愛知県名古屋市中川区
美しい閘塔の存在により、松重閘門は中川運河のシンボルとなった。たとえば1937(昭和12)年に開催された名古屋汎太平洋平和博覧会のパビリオン「運河館」のデザインも、松重閘門を模したものだ。保存決定、公園としての活用役目を終えた松重閘門は、扉部分がコンクリートで固められ、閘室も埋められた。1977(昭和52)年に保存が決定された後、漸次工事が行われ、1986(昭和61)年には周囲を含めた一帯が松重閘門公園として開園した。ただし閘室に架かる南北橋は拡幅され、さらにその上空に高速道路も開通したため、公園は完全に分断されており、2対の閘塔に挟まれた閘門施設の全体像を把握することは難しい。とはいえ、そのシンボリックな閘塔は現在も市民に愛されており、2008(平成20)年より行われていた修復工事も今月には終了する予定である。東海道新幹線で名古屋以東を利用する際には、東の車窓にご注目いただきたい。灰色のビル群の合間に、中川運河とその奥に佇む松重閘門がご覧いただけるはずだ。
出典:林 倫子,『松重閘門-優美な閘塔に往時の運河網計画を想う-』,土木学会誌,Vol.97,No.2,pp10-11