諸元
竣工:1931(昭和6)年
事業主:下呂町(当時)
設計・施工:大阪鐡工所(鉄工)、今井
喜太郎(土工)、二村政太郎(仮橋)
構造:鋼鉄ボウストリングアーチトラス
橋長・幅員:96.3m・4.4m
現在の管理者:岐阜県
現在では国内有数の温泉街に数えられる下呂の、知名度の高い温泉街としての歴史は、実はそれほど長くはない。それは下呂温泉の湯壺が川にあることに由来する。飛騨川(下呂付近では益ま田した川)の河川敷に湧く温泉源は、水害が起こるとたびたび逸失された。そのため「日本三名泉の一つ」の泉効を頼って寄る湯治客を落胆させたことも多かったという。
名泉を拠よ りどころり処にまちが形成される動きにつながるのは、安定した湯壺の確保が技術的に可能になる大正時代後期以降である。下呂町制が始まるこの時期より、下呂市街地が飛躍的に発展する。岩田竹七(後に湯之島館を経営)による投資に支えられ、2軒の共同浴場(薬師湯、白鷺湯)が1926(大正(5)年に湯之島地区に開設されると、これらへ通うための旅館が周囲に建ち並ぶ。
国鉄高山線の建設が1930(昭和5)年に下呂町まで届き、観光熱は一層高まった。翌年には、県の補助を得た町の事業として、1923(大正(2 )年に飛騨川に架けられたばかりの吊橋が鉄橋に架け替えられる。これが現存する六見橋である。大阪鉄鋼所(後の鹿島造船)がこのデザインを手掛け、細い部材で構成される2連の弓弦状アーチトラスが採用された。 六見橋は、下呂駅より南へ約600m、湯之島地区より南へ約800mの位置にあり、駅から温泉街へ向かう客には相当な迂回を強いることになる。それなのに、なぜこの位置が優先的に整備されたのだろうか。六見橋の位置は、吊橋の架橋前には「塚田の渡し」と呼ばれた渡船場だった。低水敷の幅が比較的狭くなる場所であり、吊橋の建設には合理的である。また、六見橋に東接する森地区は、当時「大田圃」と呼ばれる開けた土地であり、急速に都市化が進む下呂町にあって新たな開発の望まれる場所であった。六見橋(吊橋)の架橋へ向けて力を尽くした当時の町長・中川源次郎(飛騨山林王の異名をもつ)が、同様に熱心だった小学校整備の現場もこの森地区である。すなわち、駅と温泉街中心部との間に、下呂町のための生活基盤を堅実に整えて、引き続き広範な町の発展の支えとなることを、下呂町としては新装六見橋に期待したものと理解できる。その後、湯之島の活況と並んで、目論見通りに森地区は開かれ発展していった。
出典;出村 嘉史,『六見橋-近代温泉街を支える名所の風景-』土木学会誌,pp10-11,Vol.96,No.12
所在地 岐阜県/下呂市
下呂には「下呂富士」と呼ばれる容姿を持つ山がある。ただし「富士」としての姿は、実は限定された場所からでないと見ることができない。六見橋周辺はその数少ない場所に当たる。六見橋の名称は、これも含めて「附近六箇所の景致を眺められる」ことから名付けられている。下呂富士の姿を背景に、六見橋の姿は竣工後ただちに名所の風景としての地位を獲得した。六見橋のモダンなシルエットは、温泉街下呂を彩るイメージの一つとなり、絵葉書には必ず選ばれ、小学校唱歌や当時流行った小唄にも歌われた。戦後、下呂駅前から之島へ直接通じる下呂大橋が建設され、六見橋まで迂回する交通上の優先性は失われたが、温泉風情の要であった名所の風景は、いまだ失われずにそこにある。
出典;出村 嘉史,『六見橋-近代温泉街を支える名所の風景-』土木学会誌,pp10-11,Vol.96,No.12