諸元 ,竣工年:1910(明治43)年,形式;連続煉瓦アーチ式高架橋(架動橋は3径間ゲルバー鉄桁橋),延長:2.800m
新銭座(現在の東新橋付近)と永楽町(現在の大手町付近)を結ぶことからこの名がつけられた新永間市街線高架橋は、建設後一世紀を経てなお,当時の姿のまま現役の高架橋として活用されており,その歴史的価値が高く評価され,平成22年度の選奨土木遺産に選ばれた。
市街地高架橋は,1890(明治23)年に決定した東京市区改正設計において,中央停車場(東京駅)とともに計画された。この計画は,新橋駅と上野席の間に市街を縦貫するため高架鉄道を建設し,東海道線と東北本線を直結するとともに,その中間に中央停車場を設置するという一大鉄道計画であった。
この市街地高架橋の計画を依頼されたのは,1887(明治20)年に来日し,九州鉄道や日本鉄道の顧問を歴任したヘルマン・ルムシュッテルであった。ルムシュッテルは,ベルリンの高架鉄道をモデルとして,煉瓦造のアーチ形式高架橋を提案した。この当時,日本にはまだ,本格的な高架鉄道の設計・施工のノウハウがなかったことから,これを実現するため招聘されたのが,ベルリンの高架鉄道を担当したドイツ人技師フランツ・バルツァ-である。バルツァーは,1898(明治31)年に来日すると,日本人鉄道技術者とともに市街線高架橋の具体的な設計に取り掛かった。建設時の図面には,バルツァーのほかに,市街線高架橋建設の現業期間である新永間建築事務所(1896(明治29)年開設)に所属した山中新太郎をはじめとする,複数の日本鉄道技術者のサインが記されている。1903年にバルツァーは帰国するが,バルッツァーの案により,市街線高架橋の具体的な計画が定まった。なお,バルツァーの最終案は,帰国後にドイツで発表された論文「東京の高架鉄道」で知ることができる。バルツァーはこの論文で,路線の設定や,高架橋設計の基本的考え方,詳細設計,基礎や耐震設計への留意点,さらに煉瓦アーチ高架橋のデザインにも言及している。
市街線高架橋の煉瓦アーチ橋は,径間12mと径間8mのアーチを標準設計とし,内部空間の有効利用や起訴への負担軽減などの理由から,欠円アーチが用いられた。また、縦断面方向の通行を確保するため,橋脚の中心線の位置に幅2mの通路,外側軌道の中心線の位置に幅1.2mの通路が設けられた。橋脚には,ベルリンの高架橋もみられるメダリアオンと呼ばれる円盤形の装飾や,小アーチを組み合わせた透かし模様の装飾が施されている。アーチ橋の煉瓦は,日本煉瓦製造で製造されたものでされたもので,使用された煉瓦のの総数は約5400万個であった。高架橋の基礎杭には,当時最も一般的であった松丸太が用いられた。支持地盤の深さに応じて長さ3間または6間を基本としたが,地盤の悪い場所では最長9間のものが用いられたb。1本では長さが足りない場合には,金具を用いて2本継として使用された。市街線高架橋に使用された松丸太はすべて国産で,抗として用いられた総本数は1万9140本に上った。
道路を横断する架道橋には、3径間ゲルバー鉄桁橋が採用された。3径間のうち、中央径間は車道として、両側の径間は人道として使用された。また、市街地における鉄道騒音を軽減するため、鉄桁の底部には鉄板が張られ、そこに砕石が充填されたうえで枕木とレールが敷かれた。なお、高架橋の高さは、馬に乗った儀ぎじょうへい仗兵の持つ槍が通過できる高さを基準としたとされる
市街線高架橋の建設は1900(明治33)年に始まり、まず、1909(明治42)年に浜松町─烏森(現在の新橋)が開業し、続いて翌年6月に烏森─有楽町、さらに同9月に有楽町─呉服橋仮停車場が開業し、一応の完成を見た。なお、浜松町から東京駅までの全通は、東京駅開業の1914(大正3)年まで待たなければならない。華々しく復原された東京駅に比べ、新永間市街線高架橋は、これまで通り、淡々と、その役割を果たしているように見える。
出典:阿部 貴弘,『新永間市街線高架橋-帝都の玄関に続く赤煉瓦の高架橋-』,土木学会誌 vol.97 no.12 pp8-9,2012,12
所在地:東京都千代田区~港区