諸元 所在地:北海道留萌市,着工年:1910年,建設年:1929年,形式:重量式ケーソン(主に4室式:長さ10.1m,幅10.6m,高さ7.9m),延長:939m
道北地域の開拓は明治中期以降に本格化し,船を安全に破泊,避難できる港を必要とした。留萌港の計画は,1887年のC.S.メークによる河口利用案に始まり,翌年には広井勇実が引き継いで調査を実施し,その後も廣井の複数の門下生が調査や計画にあたった。
港の適地に乏しい小樽以北の日本海の中で、留萌は背後の地域や炭田とのアクセス面で優位だった。つくりやすさで選ばれたみなとではなく,つくらねばならない港だった。
留萌港南防波堤は,1910年からの事業の中で最初に着手した重力式ケーソン構造の外洋防波堤である。ケーソン構造では,わが国最初の小樽港南防波堤と同時期で,小樽港と同様の斜路式ケーソン製作ヤードも建設した。ケーソンの導入には,廣井門下生の初代留萌築港事務所長の伊藤長右衛門が小樽の所長を兼ねていたことが大きい。しかし、留萌では投機の工事が7カ月もできず,工事再開時にはケーソン製作ヤードに蓄積した留萌川からの土砂の除去も必要で,作業期間は僅少だった。設置後のケーソンも激浪を受け,1920年秋の被災状況は土木学会誌にも報告された。工事の効率向上を図るため,ケーソンを小樽で製作し,留萌までの約100kmを船で30時間かけて曵航するという前代未聞の方法を採用した。そして,1922年から1928年の7カ年にわたり,南防波堤と北防波堤の計43函(ほか2函は沈没)を運搬して完成に至った。
出典:石川 成昭,『留萌港南防波堤‐新旧鰭渾然一体,港とまちを守り続ける‐』土木学会誌,Vol96,no.5,pp26-27 2011
南防波堤の基部から600m程度先の港内側には,過去の激浪で押し込まれた複数のケーソンが鎮座している。1950年代後半から本格化した復旧や改良では,移動したケーソンも基礎の一部としており,現在の凹凸の状況はその当時の状況はその当時の状況と一致している。この区間では,嵩上げによる改良が予定されているが,移動したブロックは現在の位置で残るという。
出典:石川 成昭,『留萌港南防波堤‐新旧鰭渾然一体,港とまちを守り続ける‐』土木学会誌,Vol96,no.5,pp26-27 2011
市街の南3kmの「千望台」からは,外海に延びる南防波堤と掘り込み式の内港を含む留萌港の全景が一望できる。修築当時に留萌の港や街,炭鉱の開発に尽力した五十嵐億太郎の像も港とまちを見守っている。黄金岬の「海のふるさと館」や付近の高台からは,南防波堤の屈曲及び移動したケーソン,わが国最大のテトラポッド(80t,高さ5m)を望むことができる。 また、修築事業の遺産として,二つの灯台が移設保存されている。一つは留萌川の河口の畔に立つ白い灯台で,元は青灯台(緑色)と呼ばれ,港内の東突堤に存在したが,現在は白タイルで補修されている。二つ目は内港を見下ろす望洋公園(湊神社)に立つ赤灯台で,青灯台向かいの西突堤に設置されていたままの外観を保っている。塔部には1915年から15年間,修築事業に最も長く携わり,第3代留萌築港事務所長を務めた林千秋の扁額「千紫萬紅」が埋め込まれている。留萌港が多くの船の光で賑わうよう願いをこめた内容は,「千辛万苦」をかけたものとされている。
出典:石川 成昭,『留萌港南防波堤‐新旧鰭渾然一体,港とまちを守り続ける‐』土木学会誌,Vol96,no.5,pp26-27 2011