大分市から国道10号を南へ30km。車で1時間ほど走ると、静かな山間に田園地帯が広がる臼杵市野津町に着く。童話「吉四六(きっちょむ)さんの里」として知られる町である。この町の中央部を流れる野津川に、明治橋が架かっている。
明治橋は、1902(明治35)年に架設された橋長32.6mの道路用鋼桁橋である。1961(昭和36)年に現在の新橋が完成するまで、道路橋としての役割を担ってきた。現在も、歩道および2輪車専用道として地元住民の生活の中に生き続けている。歩道橋とはいえ、建設当初のままで今も供用されている道路用鋼桁橋としては、本橋がわが国最古の橋といえる。
明治橋の橋桁や床版を支える底鋼板の損傷は著しく、腐食して断面欠損した部分も各所に散見されるが、橋面上に半ば土砂に埋まった鋳物製の手摺と束柱、側面から見ると波形状に敷設されたトラフ床版と呼ばれる鋼板、部材を接合する丸頭のリベットの列。これらがレトロな雰囲気を醸し出している。また、川中に整然と積み重ねられた高さ9mの石積みの橋脚と、両岸の橋台も美しい。下流側から眺める明治橋の全容は、桁下の空間から上流側に垣間見る石造アーチの仮屋橋(旧安政橋)の姿も取り込んで、大分らしい風景を演出している。
大分県といえば、石の国と言われるくらい日本屈指の石造文化の栄えた地である。臼杵の石仏は観光名所として有名であるが、1824(文政7)年に明治橋と同じ野津町内に架設された国指定重要文化財の虹橋や日本最長の8連アーチの耶馬溪橋をはじめ、現存する石造アーチ橋の数では日本一を誇る。明治橋建設当時の橋梁技術やさまざまな環境条件から考えて、日本国内でも稀少な鋼橋が、しかも大分の山間部になぜ建設されたのか、きわめて不思議な謎である。
その謎はいまだに解明されていない。しかし、大分の石橋研究家岡崎文雄氏の調査により興味深い事実が明らかになってきた。明治橋の設計は、当時大分県の土木技師を務めていた安田不二丸氏である。
一方、製作・架設は、大阪鉄工所(現在の日立造船(株))である。ただし、使用された鋼材は英国からの輸入材である。工費は1万7222円で、当時の石橋などと比較すると破格の高額である。同社の創業者は英国人E.H.ハンター氏であり、また、明治橋建設の2年前に同社が初めて架設した橋は、石川県七尾鉄道の鉄橋である。当時の七尾鉄道の社長は、「西の渋沢栄一」とも言われ、明治期に関西一の財界人として活躍した松本重太郎氏であった。松本氏は当時、現在の日豊本線の前進にあたる大分県の豊州鉄道の社長をも務めていたこと、また同社を九州鉄道に譲渡した後は宇佐~大分~竹田を結ぶ南豊鉄道の取締役として鉄道計画を考えていたとの記録もある。これらの事実と明治橋架設との間に何がしかの因果関係を見出すことは今のところ困難である。
2004年より土木学会の調査研究活動の一環として、明治橋の歴史と損傷度調査を基に補修対策の提言と文化財保存に向けての取り組みが進められている。同年3月に実施された現地調査において、床版底鋼板から英国の鋼材製造メーカー名を示す刻印が確認され、時の流れを超越した感動を呼んだ。明治橋は、わが国の鋼橋黎明期に架設され、現在まで100年以上の風雪に耐え、原形のまま今なお市民の生活基盤として生き続けている数少ない貴重な土木遺産である。永く後世に守り継ぐことは我々現代に生きる者の使命ではなかろうか。風雨に曝され、腐食劣化の進む明治橋の早急な応急補修が望まれる。
諸元・形式:
形式 単純鋼2主I桁橋
規模 橋長32.5 m(支間16.25 m)/総幅員 5.5 m
竣工 1902年2月
(出典:吉四六の里に残る古き鋼橋 明治橋,日野 伸一,土木学会誌91-4,2006,pp.56-57)
大分県臼杵市野津町大字野津市