布刈(めかり)瀬戸を望む因島(いんのしま)北端の山腹に、三つの塔屋を持つ一風変わった建物が建っている。これは航行する船舶に対して、ほかの船舶の状況を知らせる船舶通航信号所で、現存する木造の船舶通航信号所としては唯一のものである。
その構造は、1階部分に見張り所、事務室、物置などを備え、その上部には、高さ約2mの円錐を載せた角塔が3つ等間隔に並んでいる。角塔の東西側の外壁には、歯車によって回転する高さ1.8m、幅30㎝の木製の羽根板が取り付けられ、内部には夜間に信号灯を点すための円筒形のガス式灯籠が備え付けられている。
瀬戸内海の主要航路である来島海峡は、昔から「一に来島、二に鳴門、三と下って馬関(関門)瀬戸」といわれるほど潮の流れが速く、海の難所であった。それに比較すると、因島と向島間の布刈瀬戸を通り、三原市の沿岸を進んで、大三島と大崎上島の間を抜ける三原瀬戸航路は、距離は15kmほど長くなるが、流速が半分程度であるため、速力が遅い船舶でも潮流の最強時に航行できた。
そこで、来島海峡の迂回航路として、三原瀬戸航路には、1894(明治27)年に大浜埼灯台をはじめ、9つの航路標識が設置された。ところが、三原瀬戸は航路が狭く、屈曲していることに加え、明治後期になると年々通行量が増加し、海難事故が多発した。そこで、明治43(1910)年4月、船舶の動向と潮流の方向、緩急を予知し、狭水道での航行の安全を図る目的で大浜埼に船舶通航・潮流信号所が設けられた。これは、わが国最初に同様の信号所が設置された関門海峡の翌年のことである。
戦後、船舶の動力性能が向上したことから、小型船でも来島海峡を容易に航行できるようになり、三原瀬戸の通行量が減少したため、1954(昭和29)年に信号所は閉鎖された。1959年には灯台の無人化、1962年には大浜埼航路標識事務所が廃止されたため、吏員退息所は撤去されたが、幸いにも船舶通航信号所は取り壊しを免れた。その後、因島市(現・尾道市)に払い下げられ、1986(昭和61)年11月に大浜埼灯台資料館として開館した。ほかに腕木式の潮流信号、通信用の信号柱(旗竿)、少し離れた海辺に検潮所も現存している。
布刈瀬戸を西進、東進する船舶に対して、対向する船舶の位置を3つの海域に分けて知らせた。3つの海域は、塔の左右に取り付けられた3枚の羽根板によって、黒地に白色の○、△、□の記号を表示させてその位置を知らせた。1つの塔には1種類の記号か白しか表示できないため、3種類の信号を示すには3つの塔が必要となる。第一種信号は、海側の塔で○を表示し、残り2つの塔では羽根を裏返し、黒を表示しておく。第二種信号は、中央の塔で△を表示させる。第三種信号は、山側で□を表示させ、ほかの塔では黒を表示させておく。
羽根板の表示の切り替えは、信号所内の一室に設けられたシリンダーを回転させることによって、建物内に張り巡らされた鋼索を伝わり、歯車を介して羽根板を180°回転させて行われた。しかし、残念なことに現在は塔屋、羽根ともにすべて白く塗られており、往時の働きをうかがうことはできない。なお、夜間はそれぞれの塔の上部で灯り(第一種:白、第二種:赤の点滅、第三種:赤)を点していた。レーダーやGPSによって船舶の位置を把握できる今日からすれば、なんとも原始的なシステムであった。
因島大橋のたもとに位置する旧大浜埼船舶通航信号所は、キャンプ場や展望台などを備えた因島大橋記念公園の一角として整備されている。現在は大浜埼灯台記念館となった信号所の内部の見学には事前の予約が必要だが、窓越しに展示してある当時の信号所・灯台関連の機器をうかがうことができる。
布刈瀬戸を見守り続けて100年、今も変わらないその姿は、瀬戸内の風景に溶け込み、人びとの心の風景にも刻み込まれている。2011(平成23)年には、広島県の重要文化財に指定された。
諸元・形式:
形式 木造平屋建て切妻屋根(塔屋3基付き)
規模 幅3.74m/奥行16.38m(1階部分)/高さ8.75m
竣工 1910年
(出典:瀬戸内の安全を守り続けた大浜崎船舶通航潮流信号所,樋口 輝久,土木学会誌91-6,2006,pp.70-71)
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453)
広島県尾道市因島大浜町