島根半島の沖、約50kmに浮かぶ隠岐は、北前船の寄港地、風待ちの港として栄えた。最大の島である島後(どうご)では島の北西に位置する福浦港がその中心であったという。北方(きたがた)・南方(みなみがた)村にまたがる福浦集落では、日常的に村の中心部との往来が必要だった。天候がよければ舟が使えたが、陸路では海に面した急峻な崖の上に登るか、磯伝いに歩くしか方法がない。季節風の厳しい冬場には、地元で潮ボケと呼ぶ潮の飛沫で視界も足場も悪い。磯伝いの道で特に難所だったのがこの福浦トンネル付近である。隠岐は火山の島であり、柱状節理などの火山地形が多い。福浦トンネル直上の山塊も火口の1つであり、そこから発生した火砕流による堆積物が福浦トンネルの地山を形成する凝灰岩である。この付近では柔らかい凝灰岩を人力で削って道がつけられたが、特に険しい場所にはトンネルが掘られた。明治初期の開通という、長短2本からなる初代福浦トンネル(延長7.5+4.2m、通称細(こま)トンネル)である。
トンネルへの道の幅は30~40cmしかないうえ、明らかに海側に傾斜している。当時、トンネルは身の安全を確保するシェルターの役割もあったのだろう。重い荷物、子連れ、すれ違い、いずれも決死の覚悟が必要である。今日はベタ凪だが、冬場の風と波を考えると、道路整備を切望した福浦出身の県議会議員(後の五箇村長)、藤田辰次郎の気持ちは想像に難くない。
島根県における本格的な道路改修は1879(明治12)年より行われたが、松江と隣接県を結ぶ幹線道路(三大道路)の整備が優先され、離島の隠岐に予算を割くことは難しかった。地元穏地(おち)出身の県議会議員、中西荘太郎の尽力により、西郷と北方を結ぶ北方道が開通したのは1895(明治28)年のことであった。
1885(明治18)年、隠岐と本土を結ぶ汽船運行が始まる。島後の寄港地は島の反対側にある西郷港となり、福浦港は一線から退くことになる。こうした状況のなかで島後を縦断する北方道の建設は島の北側の村々にとって不可欠であったに違いない。
中西は北方道の開通を見ることなく1892(明治25)年にこの世を去り、次の選挙で県議会議員となったのが藤田辰次郎である。藤田は北方道福浦延伸の予算獲得に成功し、1898(明治31)年に二代目福浦トンネルが完成、翌々年に福浦までの道路が開通する。掘削を担当したのは、石工の高井甚三郎である。北方道建設の際、トンネル掘削のために広島県の山中から一族で呼び寄せられ、彼だけが島後に残っていたという。
二代目福浦トンネル(延長122m、通称窓トンネル)は初代と同様に覆工も照明もなく、2個所に窓と呼ばれる開口部がある。窓にはツルハシのあとが見られるが、1975(昭和50)年に近くのトンネル建設の際、工事車両通行を通すためトンネル断面が拡張され、残念ながらこれ以外の場所には石工の仕事の痕跡は見られない。
トンネル開通により、福浦と北方村中心部の間で荷車の往来が可能になった。住人にとっては、なによりも遭難の危険なしに行き来できるということが喜びであったに違いない。
90年にわたって人びとの命と生活を守ってきた二代目福浦トンネルは、1988(昭和63)年の新福浦トンネル開通によりすでに現役を引退している。今や福浦トンネルはガイドマップに載り、観光スポットの様相である。隠岐の美しい海や豊かな自然とともに、険しい地形の中に陸路を切り拓いてきた島の歴史と、郷土のために努力した先人たちのこともぜひ記憶に留めて帰ってもらいたいと思う。
(出典:見どころ土木遺産 福浦トンネル,福井 恒明,土木学会誌91-9,2006,pp.82-83)
島根県隠岐郡隠岐の島町