明石海峡大橋に近い、加古川・美嚢川・明石川に囲まれた印南野台地は、全国一の溜池密度を持つ地帯である。溜池群のなかには古代に開発されたものもあるが、多くは明治・大正期に建設された淡河川(おうごがわ)疏水・山田川疏水にともない建造された。これら疏水は、既存水利と競合しない非灌漑期の水を淡河川と山田川から引水し、多数の溜池に貯留して既存田畑と新田へ灌漑するものである。
事業費はすべて地元負担の計画であるが、1886(明治19)年、国からの土木費貸下45000円(3年据え置き、無利子、のちに返還免除)が決まり、関係21村により「水利土功会」を結成した。地元民は工事直轄を兵庫県に願い、これを受けて県は内務大臣に技師の派遣を稟請し、同年4月、内務技師田邊義三郎が実施調査に現地を訪れている。
田邊は、山田川からの導水案について、疏水路線の地盤不良による工事困難・工費高を予測し、水源を淡河川に変更することが適当とした。新しい案は北側台地から志染川を石造橋で渡り南側の台地へ水を渡すというもので、谷へ下りてまた上がるという標高差を克服するために、長大な噴水工(逆サイフォン)を利用するものだった。これはわが国最初の技術の導入であり、その設計には、わが国の近代水道の先駆けとなった横浜水道の計画・建設者であるイギリス人、ヘンリー・スペンサー・パーマーが関与している。パーマーは当時、内務省土木局名誉顧問工師であり、田邊に同行して実施調査をしている。噴水工は地名をとって「御坂(みさか)サイフォン」とよび、志染川に架かる石造橋をその姿から「眼鏡橋」と呼ぶ。
御坂サイフォンの施工には横浜水道職工長バクバードがあたり、眼鏡橋の設計・施工には兵庫県属の糟谷素直があたった。疏水は北側台地から標高差57mの麓まで落下し、そこから約180mをほぼ平行移動する。そして南側山麓から約54m上昇して、谷を渡りきる。サイフォンの送水管の全長は約760m、上下流の水位差2.7m。トマス・ピゴット社製の3種類の口径の錬鉄管を、上流側から口径の大きい順にリベットで止めた継ぎ目により連結した。眼鏡橋は全長173尺(約52.4m)、川床からの高さ約12m、2スパンの各支間長25.5mで、地元産の砂岩を用い表面をモルタル被覆としている。
当時、送水管には錬鉄管よりも鋳鉄管が使われることが多かった。それが3種類の錬鉄管になったのは、パーマーの助言によるものである。錬鉄は鋳鉄よりも相当高価であるが、強度がきわめて大きい、ひび割れに強い、補修が容易という特徴をもつ。内径各32、34、36インチの三種、長さ約20フィートの管を入れ子にして輸入したことにより輸送コストは大幅に減り、また鋳鉄管の1/5の重量となったことで陸上輸送と施工を容易にした。サイフォン工事にかかわる総費用も鋳鉄管採用の場合の6割程度となった。御坂サイフォンは日本初の大規模逆サイフォンというだけでなく、資材の輸送法、経費、施工の難易度などの全体を見通した、パーマーの優れたエンジニアセンスから生まれたものである。
この初代御坂サイフォンは1951~53(昭和26~28)年に行われた兵庫県の農業水利改良事業により鋼管に全面改築された。ただし、眼鏡橋は現位置に保存され、2m離して下流側にほぼ同じ形態の鉄筋コンクリート橋を建設し、両橋の上をつないで幅4.5mの生活道路としている。なお、コンクリート橋は1992(平成4)年に改修された3代目となっていて、現在、送水管はこちらを通っている。
御坂サイフォンを含む淡河川山田川疏水全体は、文化庁により2003(平成15)年「文化的景観を対象とした調査」で重要地域となり、2006(平成18)年には農林水産省の「疏水100選」、2008(平成20)年には経済産業省の「近代化産業遺産」に認定されている。それより先、1993(平成5)年、疏水完成100周年を記念し兵庫県淡河川山田川土地改良区事務所敷地内(稲美町)に資料館が建設され、多くの資料とともに創設時の御坂サイフォンの一部が展示されている。
諸元・形式:
形式 逆サイフォン(トマス・ピゴット社製錬鉄管)
規模 全長約760m/上下流水位差2.7m/最大水頭51.6m
竣工 1891年
(出典:御坂サイフォン,神吉 和夫,土木学会誌91-6,2006,pp.68-69)
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453)
兵庫県三木市志染町