大阪の都心を縦断する御堂筋(国道25号)は、幅員44mの大幹線一方通行路である。北御堂(西本願寺津村別院)と南御堂(東本願寺難波別院)の門前を通る道として、その名が付けられた。その御堂筋が、2005(平成17)年「土木学会土木遺産」として選奨されることとなった。なぜ、土木遺産なのか、疑問に思われる向きもあろう。
「御堂筋」は地下鉄や沿道のまち並みを包括した、大阪を代表するキーワードとして定着しており、いまさらの感も否めないかもしれない。しかし、その歴史を遡ることで、土木技術の粋を極めた御堂筋の建設が、近代都市大阪の礎として果たしてきた役割を知るとき、改めて現代社会における価値を再認識するに違いない。
市街地道路が狭隘(きょうあい)だった大阪市では、1899(明治32)年、「新設市街地設計書」に基づく都市整備の方針が示され、1920(大正9)年の都市計画法によって24路線の新設・拡幅を含む第一次都市計画事業が認可され、これが御堂筋誕生の第一歩となった。
1923(大正12)年に第7代市長に就任した関一(せきはじめ)は、「都市大改造計画」を打ち出し、幅6m、延長約1.3kmの狭く短い淀屋橋筋(淡路町~長堀)を、幅44m、南北約4kmの大幹線道路にするという大事業を発表した。これには、さすがの市民も「船場の真ん中に飛行場でもつくる気か」と肝をつぶし、莫大な費用を工面するために導入された『受益者負担金制度』や立ち退きへの反対など、数多くの問題を抱えることとなった。
市長の目指した大改革の目玉は、御堂筋建設にあわせて地下鉄を整備するというものであった。このため、1926(大正15(昭和元))年着工以来、工事は困難を極めた。特に軟弱地盤が大きな問題となり、鋼矢板打設のために導入されたドイツ製の最新型蒸気ハンマーによる騒音・振動で、付近の家屋は傾き、地下水も枯れ果てたといわれている。
交差する4つの川への対応も難問であった。長堀川は全面堰き止め、堂島川、土佐堀川、道頓堀川は半分ずつ堰き止めたうえで、川の真ん中でトンネルをつなぐ苦心の工法で克服された。しかし、事故も多く、土佐堀川が決壊した際には道が冠水し、市電は不通となった。
このような難関を克服し、1937(昭和12)年5月11日、新生大阪の骨組みとなる御堂筋が完成した。市長の熱意と市民の理解と土木技術が、まさに夢を現実のものとした瞬間であった。
御堂筋は、大幹線交通軸であり、新たな都市大阪の象徴でもあった。そのため、電線を地下に配し、イチョウ並木を創出し、建築物の高さの「百尺(約30m)制限」によってスカイラインが統一された。建物自体にも趣向が凝らされ、登録文化財のガスビルをはじめ、日銀大阪支店、大丸、日本生命ビル、南海ビル(高島屋)などの歴史的建築物が現存している。また、御堂筋に先駆けて完成した心斎橋などの駅舎群も、わが国初の東京の地下鉄を凌ぐ規模であり、近代土木遺産に認定されている。
加えて、当時の沿道は問屋街として繁栄し、道修町の薬種商、御堂界隈の人形問屋、船場の繊維問屋などが軒を連ね、御堂筋が果たした都市づくりの象徴ともなった。
都市軸御堂筋はまた、文化財の宝庫でもある。堂島川の大江橋は、2000(平成12)年「土木学会選奨土木遺産」の指定を受けている。土佐堀川の淀屋橋は、これに加えて「指定景観形成物」の認定を受け、さらにイチョウ並木ともども大阪市の「有形文化財」にも指定されている。
知らずに歩けば、イチョウ並木の美しい大通りというだけかもしれないが、これらの歴史的な建物や橋に目をやりつつ、80年前に思いを馳せてみると、ちょっと違ったものが見えるかもしれない。
御堂筋は地下鉄や街路樹とともに、奇跡的にも戦禍を免れ、戦災復興に懸ける市民たちの大きな心の支えとなった。1958(昭和33)年には建設大臣の直轄管理となり国道の指定を受け、1970(昭和45)年には類を見ない大規模な一方通行規制により現在の姿になった。そして今、これからの御堂筋の姿が模索されているが、そこには、都市計画の礎であり、土木技術の粋を極めて誕生した御堂筋の遺伝子が脈々と受け継がれることになるはずである。
諸元・形式:
形式 都市計画道路/地下鉄
規模 幅員44m/延長4㎞
竣工 1937年(地下鉄含む)
(出典:近代都市大阪の礎 御堂筋,日野 泰雄,土木学会誌91-7,2006,pp.48-49)
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453)
大阪市北区、中央区、浪速区(国道25号)