岐阜から長良川の堤防沿い、千本松原や治水神社を横目にひたすら南下する。ただただ進むと、いつの間にか川の中を走ることになる。右が揖斐川、左は長良川、それを分かつ背割り堤の上を道路がまっすぐに伸びている。このような土地を、先人たちはどうやって拓いたのか。正解は、川を除け堤で囲ったのだった。
導流堤とは、河川が他の河川や湖沼または海に注ぐ場合に、流路を一定にする目的で水流を導く堤防のことをいう。導水堤ともいい、特に河口部に用いられるものを突堤とも呼ぶ。河川の合流点や河口部では、川が土砂を運ぶ掃流力が小さくなり、漂砂によって河口部が土砂で埋まってしまう場合があり、これを防ぐために導流堤が設置されている。
木曽川、揖斐川のそれぞれ右岸に存在する2つの導流堤は、オランダ人御雇い技師ヨハネス・デ・レーケの指導のもと、1887(明治20)年から1912(明治45)年にかけて行われた木曽川・長良川・揖斐川の三川を分流する「木曽川改修工事(明治改修)」のなかで施工された。
これらの導流堤は河口部の掃流力を維持して、洪水をいち早く伊勢湾に流出させることを目的として、石造堤(一部は土堤)の構造物として築造された。木曽川導流堤、全長4680m(うち約1820mは土堤)が1890(明治23)年に竣工し、揖斐川導流堤、全長5480m(うち約2640mは土堤)が1909(明治42)年に竣工した。
両導流堤の土堤部分は、川裏が干拓され陸地となったため河川堤防に改築し、現在は石堤部分のみが導流堤としてその機能を発揮している。その後、広域的な地盤沈下により機能が減少したために昭和50年代にコンクリートを上置して機能を維持している。
木曽三川の河口部付近は、近世以前から洪水頻発地域であり、人びとは川を除け、堤防で自らが住まう地域を囲い「輪中」を築いてきた。明治初期には木曽三川流域においてその数約80個所とされ、木曽川導流堤はその最南端に位置する松蔭輪中の沖合に位置する。
明治改修は、第一期から第四期工事完了まで、実に25年を費やして完成した。この事業でつくられた施設は現在でも木曽三川において重要な役割を果たしている。
明治政府は河川や港湾の工事を行うため、当時世界で最も優れた水工技術をもっていたオランダから10人もの技師を招いた。その一人であったデ・レーケは、1978(明治11)年から木曽三川流域を源流から河口まで踏査し、その結果に基づいて改修計画を作成した。
1887(明治20)年から始まった明治改修は、三川分流工事を完成させ、木曽三川はほぼ現在の姿となった。この改修事業は、近代河川改修工事の幕開けとされており、木曽三川流域全体において「川を除ける」数々の改修事業からなる。
・木曽三川を完全分流する
・佐屋川を廃川にする
・立田輪中に木曽川新川を通す
・長良川の派川、大槫川、中村川、中須川を締切る
・高須輪中に長良川新川を通す
・油島洗堰を完全に締切る
・船頭平に閘門を設ける
・木曽川、揖斐川の河口に導流堤を設ける
木曽川と揖斐川の河口に挟まれた長島町浦安の地は、先人たちが木曽三川の流れに抗してつくり上げた「松蔭輪中」である。この地は木曽川や長良川、揖斐川が遠く飛騨の山々から削った土砂を運んできてできた、川がつくったまちなのだ。
(出典:木曽川・揖斐川導流提川がまちをつくる,田中 直人,土木学会誌91-5,2006,pp.72-73)
三重県桑名市(木曽川・揖斐川)