稲生(いのう)港の石積みの防波堤は端正である。しかも高さがある。
三河湾の真ん中に突き出る西浦半島の東岸に、稲生港(愛知県蒲郡市西浦町稲生地区・三河港形原漁港区)がある。ここに長さ171m、高さ6mの石積みの防波堤が残っている。外港側の一部がコンクリートで補修されているほかは、ほぼ築造当時の姿をとどめていると考えられている。
防波堤の天端には、船を係留するための石造の繋船柱が9mほどの間隔で建っている。
これは現存しているものとしては全国的にも珍しいと思われる。内港側に船からの上陸のため、小段(犬走り)があるが、その高さは満潮位にあわせていたものだという。しかし、1945(昭和20)年の三河地震において、土地が1mほど隆起したため、犬走りの位置も現在の潮位よりも高くなっている。防波堤が高く感じられるのもこのためである。
稲生港の歴史は古く、1501~1503年(文亀年間)に突堤が築かれ、1895(明治28)年に船囲堤が修築された。このときの防波堤は、半円形に水面を囲む小規模なものであった。同じ位置に、1920(大正9)年、長さ171mの石積みの防波堤が築造された。船主仲間で建造したという碑が残っており、工事は地元漁民が手伝ったという。
防波堤には、幡豆(はず)石と呼ばれる花崗岩が使われている。「幡豆」とは西浦町の西隣の町名である。しかし、西浦の地元では、幡豆石と西浦石(西浦で産出する幡豆石)は異なるという。西浦石は幡豆石に比べれば雲母が小さく、ピントがあっており、豆腐のように割れやすいことが特徴だという。また、斑が入ることもある。地元の言い伝えでは、この西浦石は大坂城、名古屋城築城に使われたという。地元の郷土史家の壁谷善吉氏が、西浦の海岸で福島正則の刻印が入った石を発見している。そもそも江戸時代には、西浦半島の先端の山は、藩の御林であり、下草を刈ること以外は禁止されていた。明治以降、半島先端の山は西浦町の町有となり、石を切り出すことが始まった。採石は公営の事業となった。山を発破で崩し、平らにした丁場と呼ばれる場所から、海岸に石材を落とし、そこから石船で各地に運んだという。西浦石は、遠く名古屋の鍋田干拓から半田、常滑、三谷、蒲郡の修築港、伊勢湾台風の災害復旧など、伊勢湾、三河湾一帯で使われた。もちろん、地元の多くの家屋敷の基礎石垣にも西浦石が用いられている。
なお、市営の採石事業は、1975(昭和50)年に終了しており、地元の小学校に西浦石の大石が記念に置かれているばかりである。今では、地元の吉見数男氏をはじめとする石工の技術を伝える人も残り少なくなっている。
建築物の高さや色の操作もさることながら、風景づくりの基盤は、地元の材料、地元の技術の使用と伝承にこそあると思われる。そのためには、地域の風景をメンテナンスしてゆくことを可能にする新たな仕組みが必要ではないだろうかと考えている。
(出典:稲生港石積み防波堤,上島 顕司,土木学会誌91-4,2006,pp.58-59)
愛知県蒲郡市西浦町稲生地区