「…私は山越えをして近道を取って白浜海岸へ出て貰った。(中略)途中、中国風な石造りの眼鏡橋を架けた、川沿いの鄙びた部落があったが、むつかしい世の中になったら、こんなところへ逃げて来ようと思った。昔、中国から戻って来た人でもいて、こんな支那風な眼鏡橋を架けたのではないかと、景色にみとれているうちに…」
1951(昭和26)年1月、三千代と里子、対照的な生き方をする二人の女性を描いた小説『めし』の取材でこの地を訪れた林芙美子は、紀行文『房州白濱海岸』にこう記している。
「中国風な石づくりの眼鏡橋」と描写されたこの橋こそ、房総半島の最南端、白浜町のほぼ中央を流れる長尾川に架かる、橋長28.340m、幅員3.940m、関東唯一の石造3連上路アーチ橋、めがね橋である。
館山市街から山あいを縫って白浜町へと抜ける県道、山裾を海岸線に沿って走る国道、さらに渓谷を刻みながら蛇行して流れる長尾川、それらが出会うまさに交通の要衝にめがね橋は架橋されている。『長尾村誌』には、めがね橋の架橋以前、人びとは長尾川のこの地点を徒歩で渡河していたと記されている。確かに、めがね橋の架かる地点は、上下流に比べて川幅が広がり、流れの穏やかな浅瀬となっている。
大雨が降れば水嵩さが増して徒渉できなくなる長尾川に、地域住民の念願であっためがね橋が架橋されたのは、1888(明治21)年3月のことである。工事費の399円40銭(当時)が地域住民の寄付により賄われたことからも、架橋がいかに待ち望まれていたかをうかがい知ることができる。
めがね橋は、地元の石工と大工のコラボレーションにより建設された。石工と大工は、角切りにした大根を石材に見立てて模型をつくるなど、試行錯誤を繰り返しながら、精巧な石組みを見出したという逸話も伝えられている。
めがね橋の3連アーチは同寸法の欠円アーチで、迫石は台形断面石の布積である。両端のアーチ脚部は袖石垣により保護され、中央2橋脚の上流側には水切りが設置されている。橋壁面および袖石垣は、切石の布積みにより組まれており、主な石材は、塩風にも強い岩であろうということで、白浜町の海岸端にある「みずるめ」と呼ばれる石切場(現在は採石されていない)で採石された「みずるめ石」である。青銅製の高欄は、「○」と「+」を組み合わせた幾何学的デザインに仕上げられている。これは、1993(平成5)年から1995(平成7)年にかけて行われためがね橋保存整備工事の一環で、古写真を基に復元設計(当初は鉄製)されたものである。両岸の橋詰には、笠石を載せた4本の立派な親柱が設置され、さらにその側には袖柱も4本設置されている。
堅牢なめがね橋は、1917(大正6)年の長尾川大洪水や1923(大正12)年の関東大震災にも耐え、第二次世界大戦中には戦車が通ってもビクともしなかったと言われている。
架橋当初、めがね橋は長尾橋と呼ばれていた。その歴史を物語るように東岸上流の袖柱の胴石には、「ながをばし」と刻銘されている。
1959(昭和34)年3月、下流に鉄筋コンクリート造の新しい長尾橋が架橋され(現在の国道410号線)、旧長尾橋には愛称のめがね橋がそのまま橋名として使われた。なお、現在めがね橋における自動車等の通行は禁止されている。
めがね橋は、1978(昭和53)年に白浜町文化財に指定され、1989(平成元)年には千葉県有形文化財に指定された。そして、関東唯一の石造3連上路アーチ橋として、竣工当時の規模および形式がよく維持保存されていることから、2005(平成17)年度の土木学会選奨土木遺産に選ばれた。
緒元・形式:
形式 石造3 連上路アーチ橋(欠円アーチ/切石布積)
規模 橋長28.340m/幅員3.940m/総高5.430m/径間6.950m
竣工 1888(明治21)年3 月
管理 白浜町
工事費: 399 円40 銭(当時)
(出典:めがね橋,阿部 貴弘,土木学会誌91-2,2006,pp.46-47)
千葉県安房郡白浜町滝口(2 級河川 長尾川)