尾去沢鉱山の発端は最も早いもので飛鳥時代(708年)と言い伝えられ、発見の言い伝えは新旧(708年、748年、1481年)3つほどある。はじめは金山として、その後銅山として採掘された。江戸時代は南部藩のもとで経営され、明治政府によって没収された後は個人経営者を転々としたが、明治26年以後は三菱系会社で操業されている。明治中頃には、栃木の足尾、愛媛の別子に次ぐ銅の生産量を誇ったというが、開発にかかわるドラマチックな歴史・言い伝えはあまりなく、その後も社会のニーズに応え徐々に規模が拡大したようである。昭和10年代末の最盛期には4,500人の従業員がいるほど栄えたが、製錬所は経営戦略性から昭和41年に廃止され、鉱山は銅価の下落低迷等に大きく影響され昭和53年に閉山した。
昭和40年代ころまで鉱山はその地域のなかで生活環境面、文化面でも進んでいた。尾去沢地域でも映画館、体育施設、娯楽用施設などが整っており、周辺の町からも人が盛んに集まった。そのため、閉山は地元の文化・経済に与える影響も大きかった。今は、設備の多くが撤去され、過去の栄華の跡は坑内採掘跡、選鉱場跡、製錬所跡に残るのみである。
選鉱工程に重力を利用するため、選鉱場は斜面に建設されている。明治につくられた設備は徐々に拡大され、太平洋戦争末期には軍需省から超非常時大増産の命を受け月産10万トン処理体制を確立した。この時期の設備の土台が現在山腹斜面に残っている。閉山後朽ち果てるままであった建屋は、平成2年、安全のために解体、撤去された。
製錬所は選鉱場から直接鉱石を受け入れるため、すぐ隣にあった。製錬工程では煙が出るのは必然で、ふるい写真には、至るところから立ち上る煙がいかにもその繁栄を映し出している。煙は山肌の煙道を通し空高く排出されたが、長期にわたりこの状態が続いたため、近隣の山の緑は消失していった。環境よりも生産が重視された時代であった。超非常時増産体制時の昭和19年に建設された煙突(頂径3m、高さ60m)とそれ以前に使われた山肌を這う煙道、そして溶鉱炉建屋の骨組みが現在に残る。
鉱山では、明治初めまでは製錬用に木材を使用していたが、木材の不足とともに電力がそれに取って代わるようになった。当鉱山における電力利用は明治26年に始まり、明治31年以降水力発電所が相次いで建設された。碇発電所は明治40年に建設され、その発電量は当初500kVA、大正6年には1500kVAとなった。建屋はレンガを使った切妻づくりで、側面に縦長長方形の窓、アーチ窓、横長窓を組み合わせ、妻壁には丸窓も配しており、当時のままである。明治のセンスある建物である。
尾去沢鉱山は、現在、マインランド尾去沢として公開されている。坑内採掘跡、鉱石運搬設備、坑内の現場事務所などが当時のまま再現されており、採掘跡に入ればその大胆さ繊細さに圧倒される。選鉱場跡および製錬所跡はマインランドに隣接し、その配置の妙、そしてその威容は栄華を偲ぶに十分である。また、米代川に佇む碇発電所は建設当時のままで、遠望すれば古きよき時代に誘引される。これらすべては鉱山の操業について学ぶのに絶好な産業遺産である。
かつて鉱山に勤めた人は、訪れるたびに山肌の緑が広がっているのを感じるという。山肌は岩石が露出し土壌が発達しないため、実生が出ても簡単には生育しない。長い年月をかけての自然の回復力に感嘆するばかりである。
諸元・形式:
形式 :(選鉱場)建屋跡(高47m/奥行150m/正面幅120m/8階層)
(製錬所)溶鉱炉建屋跡、焼鉱鉱舎跡、排煙設備跡、煙突(高さ60m、頂部径3m)いずれもコンクリート製
(碇発電所)鉄骨トラスを掛けたレンガづくり
規模 :(選鉱・製錬所)最大鉱石処理量 月間10 万トン/(碇発電所)1,500kVA
竣工 :(選鉱・製錬所)大正5 年~昭和20 年(碇発電所)明治40 年~大正6 年
(出典:見どころ土木遺産 尾去沢坑残施設群,井上 和夫,土木学会誌91-12,2006,pp.56-57)
秋田県鹿角市