昭和の初期時代に、北海道において工業の振興を図り、一大発展を遂げるためには、低廉で豊富な電力が必要であった。そのため、不足する電力の供給を目的に、多くの技術者たちの知恵と工夫が駆使され、1943(昭和18)年10月に北海道の中央北西部に位置する石狩川水系雨竜川に雨竜ダムが完成した。その貯水池から延長約6.7kmの導水路により水を導き、流域変更し、天塩川へ放流することにより、出力5.1万kWのダム水路式発電所が雨竜ダムと同時に完成した。
昭和初期の雨竜川上流域は、北海道大学の演習林であり、未開の原始林であった。王子製紙(株)はこの地の膨大な森林資源と発電所建設に好適な条件を備えた地形に着目し、森林は製紙用原木として伐採するとともに、伐採跡を貯水池に利用し、大きな出力を得るため、流域変更による水力発電所を計画した。
この水力発電所の完成までには多くの人びとが活躍し、さまざまな障害を一つひとつ解決してきたが、なかでも本計画の発案者である溝口潔夫氏とその計画を実現させた王子製紙(株)社長藤原銀治郎氏のほか、北大総長であった佐藤昌介氏が演習林の譲渡に前向きであったこと、ダム予定地までの鉄道建設に理解を示した当時の鉄道次官八田義明氏などの努力があって完成したもので、この雨竜発電所を誕生させた中心人物として挙げられる。
当時、溝口氏は大学卒業後、水力発電事業に専念し、特殊地形を利用して大発電所を建設しようと考え、内務省にいた萩原俊一技師とともに北海道に渡り、各地を踏査した結果、最適の地として朱鞠内地点を発見した。
計画立案は大正末期から着手されたが、地形図などの基本的資料がほとんど整えられていない時代であり、また、原始林内での現地踏査には過酷なまでの苦労を余儀なくされた。
雨竜発電所の建設を実現するためには、国有鉄道予定線の変更、北海道大学演習林の払い下げなどの問題があり、この計画の実現には多額の資金投入が必要となる大事業であった。当時、財閥であった藤原氏の出馬を求めるより他なし、との決議が計画担当者の間でなされた。幸いなことに溝口氏はかねてより藤原氏と知り合いであったことから、この計画を説明し、その実現について協力願うべく懇願した。藤原氏はこの計画を受け入れ、雨竜発電所を建設するにあたり、王子製紙苫小牧工場へ電力を供給する子会社計画を立案し、雨竜電力(株)を卸売電気事業者として設立した。
1928(昭和3)年からの10年間は、降雨量、降雪量の基礎調査と大原始林地帯の測量に全力を挙げ、本格的にダム工事の着手を決定し、起工式を行ったのは1938(昭和13)年6月であった。
雨竜発電所の特徴としては、
①本道の不足する電力供給が急務であった
②雨竜ダムは1956(昭和31)年の佐久間ダムが完成するまでは国内最大級であった
③発電所の天井にアーチ式を採用するなど巧みであった
④わが国最初の地下発電所であったこと
などが挙げられる。
雨竜発電所は62年を経過した現在でも重要な電気施設として活躍している。発電所・ダムには、年間1,000人以上の施設見学者を受け入れているなど、周辺地域との交流の場として定着しており、特に雨竜ダムおよび発電設備は、小中学生から高校生までを中心とした理科(電気)教育の場としても公開されている。
雨竜第一ダム(通称:朱鞠内湖)は湛水面積で日本最大の人造湖であり、1974(昭和49)年に指定された朱鞠内道立自然公園内に位置している。朱鞠内湖は一般に解放され、イトウ、ワカサギなどが生息しており、釣りや湖水祭り・水上綱引きなどの地元行事に使用されている。また、地元幌加内町はそばの産地としても有名で、8月上旬にはそば畑に白い花が咲き誇り、9月には新そば祭りが開催されている。近隣には1978(昭和53)年2月、日本最寒-41.2℃を記録した母子里があり、寒さをテーマに整備された公園があるなど、朱鞠内湖を中心に大きな観光資源の1つとして親しまれている。
諸元・形式:
形式 貯水池・ダム水路式発電所(地下式発電所)
規模 出力51,000kW/最大使用水量/44.2㎥/s/導水路:延長6765.5m,内径4.1m
(第一ダム:コンクリート重力式/高さ45.5m/堤頂長216m/湛水面積23.7㎢)
(第二ダム:コンクリート重力式/高さ35.7m/堤頂長230m/湛水面積1.8㎢)
竣工 1943(昭和18)年10 月
(出典:雨竜発電所,古道 宣行,土木学会誌91-7,2006,pp.50-51)
北海道名寄市風連町(特例区),北海道雨竜郡幌加内町