JR博多駅から国道3号を北上していくと、両側に見慣れた国道沿いの風景が続く。都市高速道路の高架橋をくぐり、西鉄が真横に迫ってきたころに、左手の視界が開ける。何気なく運転をし、ここを通り過ぎるだけだと、ここが橋であることにさえ気づかないかもしれない。それほど、この橋の幅員は広い。それは時代の流れのなかで架け替えや拡幅されてきたものではなく、70年前に建設された当時の姿そのままである。自動車がまだ普及されない時代に、遠く東京へと続く幹線道路として100年の計でつくられた名島橋は、地域の人びとの強い思いが折り重なって実現した福岡発展のシンボルであった。
江戸時代から明治時代の初めまでは、住民は洪水のたびに流される木の仮橋が多々良川を渡る唯一の手段であった。そこで村が営業する有料の渡し舟が始まった。渡し守は名島側にいて、JR鹿児島本線と西鉄宮路岳線の橋の間には今も石積みの跡が残っている。1910(明治43)年、名島の人びとの大きな願いだった本格的な橋が、地元の有志の出資により、総ヒノキ造りの木橋として建設された。この橋の完成により活気をもった名島には、1920(大正9)年に東洋一の規模を誇る名島火力発電所が、1930(昭和5)年には水上飛行場が開設し、大阪、上海へと定期便が運航され、近代化の波が訪れることになる。
1920(大正9)年に歩車道の通行区分などを定めた道路取締法が公布され、第1次道路改良計画が実施された。今後の30年間を見通して、総額2億8280万円で始められた計画であったが、関東大震災で中座。1929(昭和4)年には、指定都道府県を対象に産業道路改良計画が立てられる。
さらに昭和の大恐慌で都市に溢れる失業者対策として、道路整備が推し進められる。福岡では、名島橋を含む第2号国道(現在の国道3号)の整備が推進されることとなった。
名島橋の着工は、1930(昭和5)年。これからの時代に合った、福岡を代表するような橋がほしい。地域の人びとの思いを胸に、設計者の後藤龍雄(当時福岡県第2国道改築事務所長)や七俵仙太郎(当時名島大橋建設事務所・公務課長)らを中心とした工事関係者が当時多々良村長だった河辺氏の自宅に集まり、歴史あるヨーロッパの橋や建物を参考に、議論を交わしていた。地域の人びとも基礎に使われる松材探しに協力し、地元と設計者、工事主任、大工、石屋、作業員の一丸となった工事の結果、着工から2年3ヶ月の1933(昭和8)年に、名島橋は無事竣工した。名島橋の完成後も、橋以外の道路部分は2車線であり、戦後まで未舗装であった。名島橋は、地域の人びとが遠い将来を見通した思いの結晶であった。
竣工から60周年の1994(平成6)年、市民から提供された情報をもとに親柱や高欄、照明灯などを架橋当時のものに復元する名島橋修繕事業が行われた。また,地域住民による名島橋清掃活動も行われている。地域の人びとの思いによる架橋から70年が過ぎた名島橋は、多々良川の両岸を物理的につなぐだけでなく、地域の人と人をつなぎ、人が集う場所になっている。
諸元・形式:
形式 鉄筋コンクリートアーチ橋
規模 全長204.1m/全幅24.0m
竣工 1933年
設計者 後藤龍雄
総工費 416,883 円(1933 年当時)
(出典:見どころ土木遺産 名島橋,高尾 忠志,土木学会誌90-11,2005,pp.68-69)
福岡県福岡市