土木史的価値の高い構造物は、しばしばとんでもない場所に存在する。過酷な自然条件を克服するために技術の粋が凝らされ、より規模が大きく、特殊な構造が採用されるためであろう。こうした構造物に接するたびに「よくぞこんなところに…」という感慨にとらわれるが、同時に先人達がどのような意図で、どのような工夫を凝らしながらこの構造物を完成させたのかという知的好奇心を刺激される。高知県須崎市に存在する第二領地橋梁は、まさにそうした構造物の典型的な例である。
第二領地橋梁への道のりは、決して容易ではない。高知から普通列車に乗換えておよそ1時間半、安和駅という無人駅から徒歩で国道56号線沿いに30分ほど高知方へ戻った,須崎市領地地区にある。太平洋に面した斜面に架かるこの橋梁は、蜜柑畑をかきわけ、線路の下をくぐってようやくたどり着くことができる。地元の人以外に訪れることのないこの浜辺は、まさに第二領地橋梁を見るためのプライベートビーチである。あとは、潮騒をBGMに、この雄大な橋梁を心ゆくまで鑑賞するだけである。
第二領地橋梁は、1938(昭和13)年、鉄道省岡山改良事務所によって完成した橋長107.7mの鉄道橋で、設計者は明らかではないが、当時の工事報告は、岡山建設事務所技手・森田紀元が行った。設計にあたっては、プレートガーダとの比較が詳細に行われ、鋼材が2割近く節約できること、潮風に対する耐蝕性に優れていることなどから、開腹式の鉄筋コンクリートアーチ構造が採用された。
径間構成は、基礎となる岩盤が約25mおきに露出していたことから支間25.0mのアーチを3径連続させ、窪川方の第4径間のみは支間23.2mの方杖ラーメンとした。第4径間を方杖ラーメンとしたのは、アーチ構造にすると大量の崖錐層を掘削しなければならず、斜面崩壊を誘発する危険性があったためである。また、アーチの拱軸線には、珍しい二次放物線を用い(一般には半円または欠円、変垂曲線が用いられる)、ライズは材料の節約と外観を考慮して7.0mとした。
架橋地点は陸上部であったため、木製セントルを地上から組んで型枠とし、1径間ごとに転用した。コンクリートはコンクリートの収縮とセントルに加わる荷重を考慮して約2.0~2.5mのブロックに分割して打設し、最後に各ブロックの間を充填したが、注意して観察すると、今もその痕跡を確認することができる。また、第4径間には鉄筋の代用材として古レールが用いられた。
工事は、1936(昭和11)年1月に開始され、1938(昭和13)年に完成、翌年11月15日に窪川線(土讃線須崎~窪川間の建設線名称)須崎~土佐久礼間が開業した。
第二領地橋梁が建設された時代は、鋼材不足を背景として大径間のコンクリートアーチ橋があちこちに建設された時代であった。その意味で、この時期のアーチ橋は戦争という困難な時代がもたらした遺産という見方もできる。しかし、波打ち際に弧を描いて架かるアーチ橋の造形は、そうした暗い過去を忘れさせ、自然の景観とみごとに調和して美しい。
諸元・形式:
形式 開腹式鉄筋コンクリートアーチ(第4 径間は軌条コンクリート方杖ラーメン)
規模 支間25.0m×3+支間23.2m/橋長107.7m
竣工 1938(昭和13)年
設計・監理 鉄道省岡山建設事務所
所有 四国旅客鉄道
(出典:黒潮に架かるアーチ―第二領地橋梁―,小野田 滋,土木学会誌90-7,2005,pp.70-71)
高知県須崎市領地(土讃線土佐新荘~安和間)