瀬戸内海というと、ほとんどコンクリート護岸で固められているというイメージがある。それでも、瀬戸内海の海岸線を辿っていると、「瀬戸内は石でできていたのか」と思えるほど、美しい石積みの護岸や波止に次々と出会うことがある。山口県光市室積の沖8.4kmに浮かぶ牛島(うしま)もそのような場所の1つである。牛島は、面積1.96k㎡、人口152名、1日3便の定期船で本州と結ばれており,漁業が主な生業としている。
藤田・西崎の波止は、集落の中央にある見事な石積みの防波堤である。藤田・西崎は、主たる波止の所有者の名前。西崎の波止は、現在、定期船の船着き場の一部となっている。藤田の波止は、船着き場近くの藤田家のちょうど前面にある。瀬戸内の歴史的防波堤でよく見られるような整形された花崗岩の切石ではなく、一辺20~30cmの不整形な変成岩が主に使われている。波上の法線(平面形状)は、水面を囲むように、陸から十数m程度のところで、岸に並行に曲がっている。2つの波止で1つの水域を囲んでおり、その大きさは、小舟が数隻入れば、一杯となるような規模である。
牛島では、以前、海に面するおのおのの家の前にこのような波戸が14もある特異な景観を呈していた。それぞれの波止には「こうらの波戸」、「東の波止」などという名前が付いていた。ところが、昭和40~50年代にかけて、ほとんどの波止は埋め立てられ、築造当時の姿をほぼ残すと考えられているのは、藤田・西崎の波止のみとなっている。
これらの波止は、それぞれ島内の数人が株主となって、出資金を出し合って築造したものである。維持管理は出資者が波止組合を形成し行ってきた、いわば協同波止とでもいえるようなものであった。現在、藤田の波止については藤田崇氏が草取りをしたり、簡単な補修をしたりといった維持管理を行っている。
なお、これらの波止についての記録は散逸し、1894(明治27)年の西郷波止帳(藤田の波止)、1920(大正9)年の盛郷の株主規約などが残るのみであるという。
これらの文献および藤田氏の話によれば、現在の西崎の波止は、西崎新左衛門が中心となり、1887(明治20)年に築造したもの、藤田の波止は、藤田新次郎が主となり、1892~3年頃に築造したものらしい。実際の工事にあたっては、村人を雇って海中の石を用い、波止を築いたとのことである。石積みを指導する石工は集落の外から来たというが、残念ながら石工の名前も出身もわからないとのことである。
中島の波止は、切石の花崗岩からなる広島の鞆や御手洗などの著名な歴史的防波堤とも異なった手法でつくられていると思われる。しかし、どのような技術の系譜に位置づけられるのか。今のところまったくわかってはいない。
そもそもなぜ、この島にこのように特異な個人もちの波止が発達したのであろうか。諸文献でも明らかにはなっていないようであるが、瀬戸内海の入口に位置するという立地特性を活かし、中国、朝鮮まで遠洋漁業や商売に行っていたという豊かさによるものであろうか。その背景に迫るには瀬戸内海の生活圏が文化圏まで遡る必要があるかもしれない。
牛島の石積みから見えてくるものは、それだけではない。現在、港湾や海岸整備で、自然石を積むような計画や設計を立案しても、きちんと石を組める職人がいない。しかし、実は現在も歴史的防波堤と見紛うばかりの美しい石積みを積む職人もいる。しかし現在では、このような技術や技術者の多くは、散在し孤立している。このような技術や技術者に光を当てることは、地域の風景をメンテナンスしながら育てていくような新しい公共事業のあり方につながっていく可能性はないだろうか。
(出典:見どころ土木遺産 牛島・藤田・西崎の波止,上島 顕司,土木学会誌90-11,2005,pp.66-67)
山口県光市