「山紫水明の小都 美観を添ふ若桜橋」
こんな見出しが鳥取新報の紙面右上を飾ったのは,昭和9年(1934)8月1日のことだった。そう,若桜橋(わかさばし)の竣工式は,7月31日午前11:20より盛大に挙行されたのである。参列したのは,中谷鳥取県知事をはじめ,三宅鳥取県土木課長,錫木若桜町長のほか地元小学校児童など500余名で,式のあと,渡り初めがおこなわれた。
若桜橋のある若桜町は鳥取県の東南端に位置し,兵庫県と岡山県に接する現人口5000人足らずの町である。東に国定公園・氷ノ山(ひょうのせん)を仰ぎ,また南には中国山地の脊梁部が控え,それらの山々から集まった水流は,やがて八東川(はっとうがわ)となり清冽な流れをつくって日本海へ向かう。
町中心部の南方にある鬼ヶ城は,鎌倉時代以来,矢部氏の居城として続いた山城で,16世紀末に本格的な城郭に生まれ変わるとともに,麓には城下町が築かれた。元和3年(1617)の一国一城令で廃城になると,町は若桜街道(播州街道)の宿場として発展し,交通の要衝,地方物資の集散地の役割を果たしてきた。現在の若桜町中心部は,旧街道沿いにカリヤとよばれる庇が家ごとに造られて一部でアーケード状に連なり,また裏通りには白壁の土蔵が連続して,現在でも「山紫水明の小都」にふさわしい自然と調和した町をつくっている。
街道(竣工当時の国道20号)がそんな若桜町を南に抜けた位置で,八東川をまたぐのが若桜橋である。鉄筋コンクリート造・3連のアーチ橋で,充腹ヴォールトに隔壁を立てて床スラブを支え,縦格子を小アーチでつないだ高欄を備えている。見た目にはわかりづらいが,ヴォールトは橋脚に近い端部でその成を増しており,安定感を与えている。親柱もコンクリート製で,方形の台の上に頭部を若干丸めた柱を立て,切石形の目地を刻む。現在はこの親柱頂部に燈籠形の照明灯が設けられているが,竣工時は親柱の両側面に取り付き,親柱頂部はやや尖っていたらしい。親柱からは高欄の高さで連続するよう,切石の目地をつけた側壁がのびている。南端西側の親柱には「若櫻橋」,南端東側には「昭和九年七月架」の文字が大理石に陰刻されている。
鳥取県公文書館には,平面・立面などの設計図のほか,詳細図や構造計算書などが残されている。設計図によれば両端の側壁を除いた全長は83.3m,有効幅員は5.5mである。立面図を現状と比べると,70年を経て高欄外側のアルミパイプなど,余分な“ぜい肉”もついたが,構造体は竣工当時とまったく変わっていない。また断面図には鉄筋の配筋が詳細に描かれており,構造計算書とあわせて,当時の技術を知るうえで貴重な資料となるだろう。
設計応力計算書には「設計者道路技手重田」とある。
若桜橋の架橋は,ニューヨークを源として世界をのみこんだ“濁流”と無関係ではない。折からの不況のさなか,昭和4年(1929)にニューヨークの株価大暴落に端を発した世界恐慌の波は,やがて日本にも達した。昭和7年,五・一五事件で倒れた犬養首相に次いで斎藤内閣が発足すると,その蔵相に留任した高橋是清は,農村不況および失業者対策として,土木事業中心の時局匡救(きょうきゅう)事業を発動した。満州事変(昭和6年)後の軍事費増強ととともに高橋財政の2本柱とされたこの事業は,軍事費の圧迫で昭和9年度で打ち切られるまでの3か年に,総額8億円(中央6億,地方2億)におよぶ土木事業費を計上したのである。鳥取新報・昭和7年8月23日の記事によれば,鳥取県でも昭和7年度に300万円,昭和8・9年度に各400万円の事業費が計画され,「未曾有の土木事業」を予告している。
若桜橋の架橋もこの事業による。これも鳥取新報の記事によると,事業は昭和8・9年度にわたり,総工費は4万5千円。施工者は八頭郡(やずぐん)賀茂村(かもむら)門尾(かどお)の井口吉蔵であった。施工業者は初回の入札では決定せず,昭和8年9月に行われた第2回目の入札によって,井口が3万5千円で落札している。起工は同年10月で,当初は翌年5月の完成予定であったが,工期も2か月オーバーした。なお,当時の若桜宿は城下町以来の屈折道路による街割りだったが,道路を直線に変更し,その南端に前身の木造橋と位置を変えて若桜橋は建て替えられた。
鳥取県における時局匡救事業の全容は明らかでないが,昭和8年度にこの事業によって建設された橋梁は県内14か所におよび,昭和9年6月~8月にかけては,その竣工記事が鳥取新報紙上に次つぎと報じられている。そのうち,県西部,大山(だいせん)の登山口に架けられた登山橋(大山町,現存)は,並行リブと細長柱による単連のRC開腹アーチ橋で,RCのT型ゲルバー桁で造られたその他の橋とは,その構造・意匠において,若桜橋とともに特異な存在といえる。また県東部の河原町に架けられた河原橋は,当年度の事業のなかで最長となる196.5mの全長を有していたが,近年,橋脚を残して解体された。時局匡救事業で造られた橋は,いずれも有効幅員が6m前後と,現在の主要幹線の自動車交通にはやや小さいのである。
現在の若桜橋は,すぐ上流に歩道橋が新設され(昭和49年),また,約100mほど下流には昭和41年に架設された鶴尾(つるのお)橋が,国道29号の若桜町中心部のバイパスとして機能しているため,トラックなどの通過交通で使われることはない。それでも,町中心部への自家用車による出入りのために現役で活躍中である。
先に述べたような観点から,若桜橋が当時の日本の時勢を象徴する近代化遺産に値することは明白だろう。現在の使用法によるかぎり,このまま使い続けることは十分可能と思われ,竣工当時の優美な姿のまま,山紫水明の小都に美観を添える橋として,これからも愛され,また使い守られ続けることを願ってやまない。
諸元・形式:
形式 鉄筋コンクリートアーチ橋(3連ヴォールト・アーチ)
規模 全長83.3m/有効幅員5.5m
竣工 1934年
(出典:若桜橋(土木紀行),箱崎 和久,土木学会誌90-1,2005-1,pp.64-65)
鳥取県八頭郡若桜町