三国港は福井県を貫流する九頭竜川が日本海に注ぐところに位置することから、古来より物資集散の拠点、港町として発達してきた。江戸後期から明治10年代にかけては、北前船交易の中継地として、三国港は繁栄を極めていた。
その三国港の弱点は、河口港ゆえの土砂の堆積であった。これに対処する方法として福井藩は、寛永年間(1624~1643)、対岸の新保浦字灌頂寺(かんじょうじ)に長さ百間(約180m)の水刎(みずはね)を突き出した。この水刎で流れを変え、川幅を狭くし流れを強めて三国港の河岸を抉り、船舶が着岸できる水深を保つ工夫を行った。
1868(明治元)年に大洪水があり、三国湊の河口の手前で九頭竜川に合流している竹田川の流水が九頭竜川に吐けず、合流点付近の多くの村は水害を被った。その元凶が灌頂寺水刎と決め付けられて、水刎は取り払われてしまった。このため、河口にはたちまち土砂が堆積し、船舶の出入に支障をきたした。慌てた港民は解決策を求め、県に惨状を訴えた。当時の三国港は地域経済の最重要地であったことから、県も対応を図り、これに応じて大阪の土木局から招かれたのがオランダ人工師エッセルである。1876(明治9)年5月のことであった。港民は水刎の再来を考えていた節もあったが、エッセルが九頭竜川の上流から三国海岸一帯を調査して導き出した結論は、河口右岸の宿浦側に弧形の突堤と左岸の新保浦側に水制を築造することだった。
エッセルの計画では、突堤の(当時の文書では主に波止堤と称される)の長さは450間(約810m)。その骨子は2つである。
①西北の強い季節風によって起こる波を防ぐよう、河口へ弧形の防波堤を築造すれば、常に西風に順になるから開帆航行が容易になる。
②粗朶(そだ)沈床によるT字型水制を左岸に設置すると銚子口が狭くなり、ジェット噴射機能で土砂を日本海へ吐き出し、水深を確保、航路を維持できる。
粗朶とは里山から伐採した木の枝のことで、粗朶沈床工法とは粗朶をマット状に編んで川底に沈め、上から岩石を投入して固定する工法である。突堤の基礎にも粗朶沈床が使われ、基礎の上に岩石を詰め上層を被覆した。なお、エッセルは9月に再来町し、突堤の長さを250間(約450m)に変更した。
1878(明治11)年4月1日工事許可が下り、5月24日工事着工。エッセルは6月に帰国したため、監督指導はその部下の技師デ・レーケに託された。デ・レーケは三国の工事について、オランダのエッセルと往復書簡で相談しながら進捗を図った。
粗朶沈床工法はオランダで発達したものだが、日本で行われた最初の工事が三国港のものである。築造の巨岩は東尋坊付近から採石。延べ6万人が働いたという大掛かりな工事は順調だったわけではない。日本海の荒波は、沈床の破壊や機材の流出など、損害を受けること実に28回、工費は大幅に膨れ上がった。
1880(明治13)12月24日、突堤の上層工と新保浦側の粗朶沈床工が未完成のまま、ようやく開港式が挙行された。
工費の償却のため、入港する船舶から港銭を取ることになった。これは1881(明治14)年から取り立て開始となるが、以後も頻繁に激しい風浪による被害が起き、修繕料が嵩んだ。最終的に約30万円の工費となり、地元で約8万円を負担している。その翌年4月国の直轄事業となり、11月に工事は完成した。
突堤工事の苦労は年月の過ぎるうちに忘れ去られていたが、市民による近代化遺産の見直し運動のなかでスポットがあたり、エッセルとデ・レーケの工学的な功績のみならず、工事の推進のために財を投じた地元民の艱難辛苦にも改めて高い評価が与えられた。現在に至るまで、防波堤と導流堤の両方の役割を果たし続けるオランダの工法の優秀性も認められ、突堤は2003(平成15)年12月、国の重要文化財に指定された。三国ロータリークラブが翌年9月、河口の芝生広場にエッセルとデ・レーケのレリーフを配した顕彰碑を建てている。
今後、さまざまな人たちの知恵を借りて、突堤周辺の環境整備やより詳しい学術調査が行われることを願ってやまない。
諸元・形式:
形式 粗朶沈床を基礎工とし、上部に安山岩を積む
規模 堤長511m
竣工 1882年
(出典:オランダ人工師の英知が活きる三国港突提,上出 純宏,土木学会誌90-8,2005,pp.62-63)
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453)
福井県坂井市三国町宿(九頭竜川河口)