標高2702mの白山における弥陀ヶ原を源頭とする渓流が、甚之助谷(じんのすけだに)である。甚之助谷では、1891(明治24)年の濃尾地震により大崩壊が発生し、1896(明治29)年7月の豪雨でこの崩壊がさらに拡大した。このため、降雨ごとに多量の土石を下流手取川本流に流下して、手取平野(加賀平野)に生活する人びとにとっての脅威となっていた。
手取川の治水において根本的な問題だったのは、水源地である白山が荒廃していたことであった。1910(明治43)年には、当時の石川県知事である李家隆介が、手取川の治水のために白山の治山について実地調査を命じている。1927(昭和2)年発行の「白山砂防工事計画説明書」には、「明治四十三年九月時ノ知事李家隆介ハ手取川改修ノ前提トシテ水源タル白山荒廃地ノ治山策ヲ樹立セン為実地ヲ踏査シ砂防設備区域ヲ設定シ工事施工調査ヲナサシメタリ」と書かれている。石川県知事のこのような行動はまさに慧眼だった。
調査を経て、まずは石川県営での工事が始まった。1912(明治45)年度には、まず県費のみで護岸工事および山腹工事(山の斜面を杭などで土留めして植林する工事)を施工している。その翌年度より国庫補助を受けて、練積堰堤(えんてい)を施工し、1915(大正4)年度からは主として山腹工事を実施した。しかし、1919(大正8)年の豪雨によりこれらの施設は甚大な被害を受けてしまった。
これにこりた石川県は1921(大正10)年に内務省の指導のもとで直接土砂の生産を防止するための階段式砂防堰堤群を計画した。これはわが国初の工法であり、画期的なアイディアであった。ちなみに、当時の内務省の砂防管轄技師は池田圓男であった。池田が設計した長野県牛伏川のフランス式階段工の手本であるサニエル渓流には、まさに甚之助谷とそっくりな階段式砂防堰堤群がある。
1924(大正13)年の砂防法改正に伴い、1927(昭和2)年度に本事業は国営化された。開設された白山砂防事務所の初代所長に就任した赤木正雄博士は、水源崩壊地の調査を直ちに開始した。その結果、基本的には石川県で立案した計画を踏襲しつつ、ヨーロッパでの経験をもとに詳細部分を改良しながら階段式砂防堰堤群を構築していった。
甚之助谷における階段式砂防堰堤群は1938(昭和13)年度までに第26号までが築造された。当時の施工風景を物語る写真が何枚かあるが、いずれも筋骨隆々とした男たちが自信をもって作業している表情がうかがえる。
堰堤群のなかでも、特徴的なのが第13堰堤工本体である。これは空石積の技法が伝承された堅固な谷積構造となっている。すなわち、比較的大型の石がさほど加工されることなく、1つの石のまわりに6個ほどの石がかみ合い、谷積形式を基本としたしっかりとした構造が見られる。一方、袖小口はきれいな布積(布積)である。そして何より精緻なのは水通し部の突き出した張石である。
これらの砂防堰堤群を具体的に設計・施工した伊吹正紀は名著『砂防特論』(1955年)のなかで、「昭和初期の白山砂防時代、赤木所長の指導のもとで、堤冠張石の下流端を0.3~0.5m突出させる工法を甚之助谷堰堤に用いた」と書いている。この技法こそ、赤木博士がヨーロッパで学んできた堰堤下流の摩耗対策である。このような構造は堰堤のデザインにも好ましい影響を与えており、堰堤直下から見た落水の表情は日の光を受けてきらきらととても美しい。
甚之助谷の堰堤群はたび重なる土石流により堤体を磨り減らされ、側方からの地すべりによる圧力によって傷つきながらも、70年以上経った今も立派に朝日に輝いている。これまで波乱万丈な生涯を送ってきた堰堤群も流域の治水安全度が高まった今、再び土砂生産源対策として脚光を浴びて、山腹工事等も含めた対応がなされる時が来るであろう。
諸元・形式:
形式 練石積み階段式砂防堰堤群
規模 高さ4~8m/長さ21~46m
竣工 1931~1939年
(出典:甚之助谷砂防堰堤群,小河 紀一郎,土木学会誌90-9,2005,pp.66-67)
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453)
石川県白山市白峰