「鶴舞う形の群馬県」のほぼ中央に上毛三山(赤城・榛名・妙義)が聳(そび)えており、その要となるのが榛名山である。
関越自動車道を群馬県に向かって走ると、噴煙上げる浅間山の右に榛名富士を中心として、火山噴出物で形成された裾野を広げた榛名山が目に入る。
榛名山麓は、かつてのわが国の経済を支えた生糸や絹織物の原料であるまゆの生産地で、養蚕の盛んな土地であった。群馬出身のアララギ派の歌人、土屋文明が「農民たちは、死火山のなだらかなふもとの村に、先祖代々の山畑を耕し、麦と陸稲を作り、桑を植え蚕を飼って貧しく生きてきた。養蚕は遠い奈良朝の時代から上毛野といわれていたその地方の百姓の大切な副業であり、貢調のためのはてない労働でもあった。米は貴重な穀物であった。」と歌ったとおり、わが国の経済を支えた養蚕の土地であるが、火山噴出物でできた脆弱な土地であったために、豪雨による土砂災害によって大きな被害を被った。また、物資の輸送は利根川の舟運によって行われておりその航路の確保が望まれていた。
1880(明治13)年4月3日のデ・レーケからエイシャーへの書簡によると、大阪で松方内務卿と石井土木局長とデ・レーケとの会談の際に、石井局長が「砂防の課題は、淀川流域や木曽川だけでなく、利根川流域の山地もまた保護し始めなければならない」と語ったことから、デ・レーケは「砂防の課題は、ここだけでないことが分かり、利根川流域もまた“山林”を保護しなければならないのです」と言っている。このようなことから砂防堰堤の設置が始まった。
1903(明治36)年に内務省から群馬県に移譲された引継書「榛名山砂防工事ヶ所明細書」(県立文書館収蔵)によれば、榛名山東南山麓の榛名白川など9ヶ所の沢を対象に1882(明治15)年から内務省第一土木監督署による直轄で着手され1902(明治35)年まで継続的に建設された。大阪でデ・レーケの指導を受けた宇佐美房耀および米倉直司の両技師を中心に進められたようである。
石堰堤・土堰堤などは併せて350ヶ所に及んだと記されている。現存しているものは、箕郷町他三町村の榛名白川ほか9ヶ所の沢に巨石積堰堤28基である。その構造的特徴は、以下の5つである。
①現地産の石を利用
②天端は縄たるみ形式
③下流面はアーチ形状
④袖が岩着していない場合は袖石積
⑤水は一部は天端をオーバーフローしているが、浄化されて湧出している
これらの砂防堰堤は、現在もその使命を果たしており、山麓一帯の安定を図り、陸上自衛隊の駐屯地や養蚕から梅・梨・葡萄の果樹園芸に替わり、群馬用水等の整備により水田に替わっている。
(出典:養蚕を支えた榛名山麓砂防堰堤群巨石積堰堤,武井 上巳,土木学会誌90-6,2005,pp.66-67)
群馬県渋川市伊香保町、北群馬郡榛東村・吉岡町、群馬郡箕郷町