北海道東部に位置する日本有数の大豆,小豆等の穀倉地帯、十勝平野。そのほぼ中心に、人口20万人弱の中核都市、帯広市がある。この付近では厳冬期の気温は氷点下20度以下までしばれる。帯広市の十勝川対岸北隣の音更(おとふけ)町から,焦げ茶色の泉質が特徴の植物性モール温泉で有名な十勝川温泉を通り,十勝ワインを産する池田町へ通じる道道73号線を十勝川に沿って下っていくと,ほぼ中間地点(十勝川の河口からほぼ43km付近)に千代田堰堤がある。
千代田堰堤の歴史は、十勝平野の開拓の歴史でもある。明治維新以降,北海道開拓が本格的に始まるが,明治の初期には十勝川はほとんど手つかず状態であった。昭和初期には十勝川は左岸の山よりに流下しており,主要支川である利別川とは池田町の市街地付近で合流していた。現在は広大な耕作地帯である十勝川中流統内(とうない)地区は水はけの悪い泥炭層が広がり,その中央部にはキムントー沼があって,一大湿地帯を形成していた。開拓計画ではこのキムントー沼を貫流する新水路(統内新水路)を建設し,利別川との合流点を下流に移設して池田町市街地を洪水から守るとともに,統内地区の排水を良くして,農耕地を増やすことが計画された。河口から約20km付近の豊頃(とよころ)町茂岩(もいわ)地区から上流の千代田地区まで延長十数kmの新水路を掘削することになるが,当然,通水後には河床低下の懸念が生じる。また,河床低下に伴い,池田町千代田地区の灌漑水の取水に困難が生じると予想されることから,河床低下抑制のための床止め工と灌漑利水のための頭首工として、千代田堰堤が建設されることとなった。千代田堰堤は帯広治水事務所(1928(昭和3)年に十勝川,釧路川,常呂(ところ)川治水事務所を併合,初代所長斎藤静脩(さいとうせいしゅう)氏)によって1932(昭和7)年9月に建設に着手し,1935(昭和10)年に竣工した。その費用は当時の額で土功組合費186000円,治水費157000円で総額343000円(現在価格に換算すると約7億円程度)となった。
斎藤静脩氏は,大正から昭和にかけて当時の釧路川・常呂川・十勝川治水事務所長を歴任し,釧路川・十勝川治水の父と称された人物である。斎藤静脩氏は1884(明治17)年に北海道岩内町に生まれる。高校卒業後,東京帝国大学に入学し,そこで廣井勇(ひろいいさむ)教授に出会い,1911(明治44)年の卒業とともに北海道庁に送り込まれた。最初は石狩川治水の父と称される岡崎文吉(おかざきぶんきち)主任技師の助手を務めた後,主として河川畑を歩み,釧路川治水事務所長の後に1928(昭和3)年4月~1937(昭和12)年4月まで帯広治水事務所長を務めた。部下を愛し,信頼し,激励する人望のある人であり,師匠とも言うべき岡崎文吉氏,大学の大先輩である名井九介(みょういきゅうすけ)氏,大学の1年先輩の保原元二(ほばらもとじ)氏に続く功労者とされ,退官後も道内土木界の重鎮として活躍した。千代田堰堤は、統内新水路を生み出した斎藤氏の作品の一つとも言える。
1935(昭和10)年の竣工後,十勝川の大流を滔々と流してきた千代田堰堤であるが,1975(昭和50)年8月の洪水により、大きく被災する。1975年8月洪水では堰堤直下流の水叩きの下が大きく洗掘されて水叩きが浮いた状態になり,パイピングの危険性が高まった。そのため堰堤が構造的に不安定になったことから水叩き下流に副堰堤を増設し,さらにその下流に護床工(ごしょうこう)を設置した。竣工当初は一段の落差工であったが,現在の堰堤を見ると二段の落差工となっている。現堤体の上段側の落差工は建設当初のものであり,下段側の落差工は1975(昭和50)年8月洪水の災害復旧で新設された副堰堤である。
現在では、千代田堰堤はその壮大な流水の風情や秋にはサケ(北海道ではアキアジとも呼んでいる)の大量遡上が見られることから,近傍の池田町のワイン城などとともに十勝地方の観光名所の一つとなっており,最近は海外(主として台湾・香港等)からも観光客が訪れている。荒れた湿地帯であった統内地区を豊かな農耕地へと変貌させ,日本有数の穀倉地帯十勝平野の礎となった統内新水路は,現在ではほとんどの地元の人でも人工河川(新水路)であることを知らない。しかし,統内新水路は人工河川であることの片鱗も見せず,耕作地帯である周辺景観と調和した河川環境を創出している。今ではただ,千代田堰堤だけが十勝川治水の根幹となった事業の歴史の一端を静かに伝えている。
(出典:大湿地帯から穀倉地帯へ生まれ変わった十勝平野の生き証人 十勝川千代田堰堤(土木紀行),山下 彰司,土木学会誌90-2,2005-2,pp.58-59)
北海道帯広市池田町