愛媛県今治市北端の波止浜港から,定期船で15分.来島海峡のほぼ中央,潮流に洗われるようにして浮かぶ周囲約3kmの琵琶形をした小島.かつて「砲台の島」とよばれたこの島には,石造りの砲台をはじめとした明治時代の沿岸要塞の遺構が,わが国で唯一完全に近い姿で現存している.
明治初頭,欧州列強の艦船に備えるため,政府は沿岸要塞構築の検討を開始した.芸予要塞は,瀬戸内海に侵入した艦船から京阪地区を防御する目的で,構築が検討された.瀬戸内海侵入のためには,紀淡,鳴門,豊予,下関,これら4海峡のいずれかを通らなければならない.このうち,豊予海峡だけは海峡幅が広く,当時の要塞砲の射程では艦船の海峡通過を阻止することができなかった.したがって,瀬戸内海に侵入した艦船の自由航行を阻止するために,芸予海峡における要塞構築が必要となったのである.多島美を誇る芸予海峡には,大小さまざまな島が散在する.そのため,海峡のどこに防御線を張るべきか,数々の案が検討された.最終的に,1897(明治30)年6月,忠海海峡と来島海峡に防御線が決定され,それぞれ大久野島と小島に砲台が築かれることとなったのである.
小島には,後の陸軍元帥上原勇作(当時砲兵中佐)の指揮により,フランス式築城術に基づき,自然地形を巧みに活かしながら,南部,中部,北部の3砲台が築造された.1898(明治31)年3月に着工.工事は急ピッチで進められ,1902(明治35)年2月に総工費約28万円をかけて全ての工事が完了した.
こうして,巨費を投じて築造された小島砲台だが,一度も実戦に使われることなくその役目を終えることとなる.国防方針の変更や火砲等の兵器性能の向上,第一次世界大戦における航空機の出現といった要因から,要塞整理が検討され,豊予要塞の新設に伴い,1922(大正11)年の閣議で小島砲台の廃止が決定された.これを知った原真十郎波止浜町長(当時)は,公園地域として小島の砲台施設を保存,活用し,その史的価値を後世に伝えようと,同年7月,陸軍大臣に砲台の町への払い下げを請願した.その後の熱心な請願が実り,1926(大正15)年,払い下げが決定した.ただし,これには条件が付いた.払い下げ前に,小島砲台を標的とした陸海軍による爆破演習を実施するというのである.1926(大正15)年8月15日から,陸海軍の飛行機による爆破演習が行われ,さらに8月21日には陸軍工兵隊による静止爆破演習が行われた.しかし,一週間にわたる爆破演習にもかかわらず,破壊されたのは北部砲台の一角にすぎなかった.
払い下げ以降,波止浜町や伊予商運会社の斎藤為助らにより,砲台跡を活用した公園整備が行われた.ところが,第二次大戦末期になると,食糧不足のため島内各所で開墾が行われ,砲台跡は年々荒廃していくこととなる.
1955(昭和30)年,波止浜町は今治市に合併し,小島の砲台跡は人々の記憶から消えてしまったかに見えた.しかし,1968(昭和43)年に大阪の民間人が砲台跡の保存を呼びかけたのをきっかけに,保存の機運が再び高まりを見せる.まず,1970(昭和45)年12月に今治市が島内の道路整備,砲台跡の補修を行った.1973(昭和48)年6月からは,今治史談会と今治市による保存活動が開始され,草刈,清掃,椿の種まき,百合苗の植え込み,眺望を阻害する樹木の伐採などが実施されている.さらに,1977(昭和52)年には,椿の遊歩道として今治市が2500本の椿の苗木を植樹し,砲台跡を巡る遊歩道の延長は,1979(昭和54)年までに1887mに達している.
その遊歩道を進み,船着場から道なりに緩やかな坂を登ると,南部砲台の火力発電所跡が現われる.発電所は煉瓦造りの平屋建てで,他の煉瓦造りの建物にも共通することだが,煉瓦の積み方は長手と小口を一段ずつ交互に積むイギリス積みである.発電所跡の先には,12センチカノン砲二門が配置されていた南部砲台跡がある.砲台は花崗岩の石造りで,砲座は一段高いところに二門並んで設けられ,海上からは砲身が見えない構造になっている.
発電所跡から遊歩道をさらに進むと,弾薬庫跡に至った.山腹を削り周囲を崖で囲むようにして建てられた弾薬庫は,屋根が落ち内部はすっかり草生していたが,さすがに危険な弾薬を扱う建物である.分厚い煉瓦壁は健在で,壁だけがそり立つその姿はかえって頑強さを印象づけた.
弾薬庫跡から椿のトンネルを登っていくと,28センチ榴弾砲)六門が配置されていた中部砲台跡に着いた.中部砲台の砲座は二門ずつ一列に並ぶように構成されている.ちなみに南部砲台と中部砲台に配置されていた砲身は,日露戦争の際旅順に運ばれ,203高地の攻撃に使用されたといわれている.砲座の先には,山腹に横穴を掘るようにして地下兵舎が設けられている.地下兵舎の壁は美しい煉瓦造りで,天井はコンクリートヴォールト(曲面天井)である.築造から一世紀を経ているにもかかわらず,地下兵舎の天井からは一滴の雨漏りもない.砲座と地下兵舎の間の狭く急な階段を登り詰めると,島の最も高い位置にある司令塔跡に至る.司令塔はコンクリートの土台を残すのみだが,晴れた日にはここから来島海峡が一望できる.
中部砲台をあとにしばらく進むと,24センチカノン砲と9センチカノン砲がそれぞれ四門ずつ配置されていた北部砲台跡に行き着く.北部砲台は,南部砲台同様花崗岩の石造りであり,砲台の一部には,爆撃演習による傷跡が今も残っている.その脇を抜け,突き当りの急な階段を登ると,もう一つの司令塔跡がある.しかし,こちらの司令塔の周囲はすっかり竹藪と化し,往時の展望を臨むことはできない.
時代の移り変わりとともに,小島を取り巻く環境は大きく変化した.それにもかかわらず小島は,そこにかける人々のさまざまな思いを受け止めながら,一世紀にわたり変わらぬ姿でひっそりと佇む砲台を見守ってきた.そんな小島の懐の深さが,訪れる人々を優しく包み込むのかもしれない.現在,小島が「砲台の島」とよばれていたことを知る人は少ない.しかし,平成12年度には今治市を中心とした小島砲台百周年顕彰事業が行われ,さらに,平成13年度には,土木学会により小島砲台が選奨土木遺産に選定された.郷土の歴史が詰め込まれたこの島が,砲台といういわば地域の宝を抱え,次の百年にどのような歴史を刻むのか,これからが楽しみである.
(出典:砲台の島 芸予要塞小島砲台跡(土木紀行), 阿部 貴弘,土木学会誌87-8,2002-8,pp.58-59)
愛媛県今治市小島