今日の京都を形成する主要な社会基盤は明治初期から大正初期にかけて新たに創造されたものである.その背景としては,類焼町数811町を出した蛤御門の変の大火(1864(元治元)年)とその5年後の東京遷都(1869(明治2)年)がある.東京遷都により,京都地域の人口は35万人から25万人に,戸数は7万戸から6万戸に激減した.これにインフレ不況が加わることにより京都経済は壊滅的な打撃を受けることとなる.1870(明治3)年に京都府から民部省に提出された請願には「数十万之人民渡世ニ差迫リ…産物売捌方無之,不得止職業相休ミ徒ラニ官府之救助ヲ費シ」とある.この窮地を打開するためにとられたのが,社会基盤整備による京都復興策である.田辺朔郎(1861-1944)らの米国アスペンにおける発電事業の着想により,世界初の実用レベルでの水力発電を実現させた琵琶湖疎水(1890(明治23)年3月完成)と,その後の電力需要増大に応えるために京都三大事業の中心として実施された第二琵琶湖疎水(1912(明治45)年4月完成)がその代表例といえる.その結果,1898(明治31)年には人口が35万人まで回復し,1932(昭和7)年には100万人を越えることとなる.
琵琶湖疎水による発電ネットワークにおいて,疎水完工当時の様相を今に残すのは,第二琵琶湖疎水事業における第二期蹴上発電所,夷川発電所,伏見発電所(後に墨染発電所に変更)であり,そのなかで代表的な形態を示すのがそれぞれの発電所建屋である.第二期蹴上発電所は京都市左京区,南禅寺西に位置する.1897(明治30)年5月に完成した第一期発電所(1760kW,1891(明治24)年6月に一部完成)に隣接し,竣工時(1912(明治45)年2月)4,800kWの出力を有していたが,1936(昭和11)年1月の第三期発電所(5700kW第一期発電所の場所に位置する)竣工と同時に発電機能を廃止されている.発電所建屋は要所に石材を用いた煉瓦造りで屋根を鉄骨で架構し石綿板でふいてある.高さは16.6m(55尺),地下4.2m(14尺),建築面積は付属水圧鉄管室を含めて1059㎡(321坪)である.
夷川発電所も京都市左京区に位置する.1914(大正3)年4月に竣工し,発電所建屋は煉瓦造り平屋建てであり,高さ10.1m(33.52尺),建築面積100.9㎡(30.6坪)である.
伏見発電所は京都市伏見区,疎水の最終地点に位置する.夷川発電所と同じ,1914(大正3)年5月に竣工し,発電所建屋は鉄筋コンクリート造り平屋建て一部2階建てであり,高さ9.3m(31尺),建築面積242.8㎡(73.6坪)である.
竣工時の各発電所建屋のデザインを比較すると,蹴上発電所と夷川発電所はともに煉瓦造りであり,蹴上発電所が外に開かれた窓によってそれ自体がオープンな印象を与えるのに対して,夷川発電所は箱形の建屋とそれを映す水面が一体となることによって独特の風情を出している.これに対して伏見発電所は,煉瓦を使わず,多くの外に開かれた窓によって当時としてはモダンでオープンな印象を与えている.
土木遺産保存という観点から,現在に至る蹴上発電所(第一期,第二期,第三期),夷川発電所,そして,伏見発電所の変遷を比較すれば,まさに五者五様の様相を呈している.第一期蹴上発電所は第二期蹴上発電所が完成した時点で取り壊されている.第二期蹴上発電所は現在の第三期蹴上発電所竣工後も建屋としては残っている.夷川発電所も竣工時の姿を維持している.これに対して伏見発電所は部分的に竣工当時の面影を残すにすぎない.これらの違いはどのような原因によるのであろうか.
まず,建屋そのものが発電としての機能をはたせなくなれば例外的な場合を除いて取り壊されたと考えてよい.第二期蹴上発電所完成時の第一期発電所の取り壊しがこれであり,第三期蹴上発電所完工時に第二期蹴上発電所が取り壊されなかったのは,建屋正面に久邇宮直筆の石額「亮天功」が掲げられていたという例外的な理由があったからである.第二期蹴上発電所は,その後,京都大学によるサイクロトロン研究(昭和30年代,現在は使われていない)という本来の機能とは異なる目的で用いられることとなる.夷川発電所と伏見発電所は発電機等の設備が交換されていても,機能としての発電は維持され,建屋そのものは残されている.ここで注意をしなければならないのは,われわれの土木遺産保存という考え方そのものが比較的新しいものであり,これら発電所群建屋の処遇が決定された段階では当然のように考慮されなかった点である.
次に,発電に伴う保守管理の観点からは,外に対して開かれている建屋はその開口部を塞がれる傾向にあった.伏見発電所がその代表例であり,夷川発電所が竣工時の姿を維持しているのはもともと伏見発電所のように開放的ではなかったからである.また,伏見発電所と同様に外に対して開放的であった第二期蹴上発電所が竣工当時の姿を維持しているのは前述の理由で発電の機能そのものが期待されない状態で残されたからである.
なお,これらの発電所群建屋については,現時点で設計者名が明らかになっているものはなく,竣工当時の図面も現存しないとされている.今後の近代土木遺産としての保存保全の必要性に加えて重要な課題であるといえる.
(出典:琵琶湖疎水の発電所群 蹴上発電所・夷川発電所・伏見発電所(土木紀行),逢澤 正行,土木学会誌87-6,2002-6,pp.56-57)
蹴上発電所:京都府京都市左京区南禅寺福地町
夷川発電所:京都府京都市左京区聖護院蓮華蔵町
墨染発電所:京都府京都市伏見区深草墨染町