ある地域に歴史的な土木構造物が群れをなして分布し,それらがその地域の風土的骨格の一翼を担っている場合がある.九州の石橋群,四万十川の沈下橋群,木曽川の発電所群などである.実は埼玉にもそのような構造物群がある.煉瓦樋管群である.埼玉には利根川,荒川流域を中心に二百強の煉瓦樋管等構造物が存在したが,そのうち三十余りが現存している.煉瓦樋管が多い理由は1888(明治21)年に操業を開始した深谷市の日本煉瓦製造㈱の存在に負うところが大きい.五ケ門樋は埼玉に現存する煉瓦樋管のうち,三番目に古いもので逆流氾濫防止を目的として1892(明治25)年に完成した.
1783(天明3)年浅間山の噴火による降灰は利根川の河床を驚くほど上昇させ,以後長い間流域は利根川からの逆流水によって洪水や内水に悩まされることになる.排水不良の水田では毎年のように遊水池のような様相を呈していたという.特に1890(明治23)年の洪水の被害は大きく,これがこの樋管改築の動機であろう.富多,南桜井村の水理組合が県に改築申請し地方税の補助と寄付金等により煉瓦造の五ケ門樋が建設される.
東武野田線藤の牛島駅を出て住宅地を東の方へと歩くと庄内古川(中川)へと出る.葦に縁取られた土手の上を野田線のトラス橋を背に下流へと向かう.宅地の広がる右岸側とは対照的に左岸側は昔の面影を残しており,代わり映えのしない茫漠とした田園風景に倦み始める.橋を渡って庄和町に入り左岸側を暫く歩くと東側から木々が一条の筋となって川へと向かっている.その道筋には水路があり,庄内古川とこの庄内領悪水路の二軸が交わる地点,そこに五ケ門樋がある.
樋管の下流側吐口側には本来両開きの扉(マイターゲート)があったがこれと支柱,上側の戸当たり(閉じた扉を受ける部材)は失われている.洪水時に逆流が始まると自然と扉がしまるようになっていた.
五ケ門樋は同じく埼玉県内に存在する赤煉瓦の千貫樋とは異なり,コーヒー色の煉瓦が使用されている.これは横黒焼,鼻黒焼等と呼ばれる煉瓦で,すでに操業を開始していた日本煉瓦製造㈱の工場ではなく,別の登窯の煉瓦工場で製造されたという.これらの煉瓦も耐水性の点等で優れていたが,やがて近代工場で量産され品質の安定した赤煉瓦が使用されるようになっていく.煉瓦の積み方はイギリス積みで,各所に立体感を醸し出すための装飾的工夫が見られる.面壁上端には煉瓦の小口を一つおきに突出させたデンティルがあり,梯子状に浮き出た煉瓦は上から下へと漸次低くなる.
翼壁は斜面の崩落を防止するためのもので勾配を有するが,この傾いた翼壁と面壁を呑吐口でそれぞれどう擦り付けているかも見所の一つである.上流呑口側は立面上そのまま斜めのラインが現われるが,吐口側は扉の支柱を収めるために面壁との境界は鉛直のラインとなり側面から見て三角形の面を収める必要が出てくる.対岸を歩きながら眺めると夕方にはこの面の楔形の陰影が樋門に彫りの深さを与え微妙な表情の変化を楽しむことができる.五ケ門樋では一つ一つの煉瓦を丁寧に加工しそれを積み合わせることで,呑口は凹に,吐口は凸に美しい斜めのラインが生み出されている.
門扉が失われているのは残念だが,却って支柱を収めるために曲面で削られた相州小松石がよく見え,面壁と翼壁の境界を面白く見せてくれる.この隅石を足がかりに四巻の重厚な欠円アーチリングが水路を跨いでいるが,その頂部には煉瓦の積み方が変則的な部分があり要石の装飾的表現を思わせる.
五ケ門樋のみならず埼玉の古煉瓦樋管は一般に豊かな装飾性を有している.ムルデルが設計に関与した備前渠樋管の他多くは県の技師・技手の設計によるものと思うが,それらには単に西欧式スタイルを踏襲するばかりでない,デザインアイデアの発露が随所に見受けられる.デンティルや笠石,小塔,角出し(煉瓦の角を山形に突出),石材との組合せ,煉瓦による曲面の表現などさまざまなアイデアが駆使されている.これらの装飾には一体どのような意味が込められているのだろうか.
明治初期から中期にかけては行政制度もまさに変革期にあった.明治初期,政府は窮乏する国庫財政を地方に負担させるために国庫財政と地方財政を明確に区分した.そのため県でも河川管理事業に対する地方税の支出をかなり限定した.その後県は町村土木補助費で樋管に補助できるようにしたが,頻発する水害のために補助を求める陳情は相次ぎ,また国からの補助も殆ど得られなかった.そのため県の補助なしで農民たちが自ら資金を調達して実施した事業も多かったという.しかし利根川・江戸川において政府の事業が進む一方,地方のレベルでも県直轄の備前渠樋管を皮切りに補助工事による煉瓦造樋管が着実に建設されていく.より身近な排水路において木製の圦樋(いりひ)に代わり,新型の煉瓦樋管が農民の目前に形となって現われたという意味で,これは地方レベルでの河川事業近代化の一つの原点であった.その反面,茨城県の反町閘門のように建設前後において,水門の恩恵を被れない下流側と上流側との間で深刻な紛争を抱えていたところもある.当時の農村では水害が頻発する状況に加えて水を巡る争いに見られるような前近代的な空気がまだ渦巻いていたことも事実である.
このような事情を考えると煉瓦樋管の西欧式装飾には,農村に近代化の到来を告げ近世以来の旧態を廃そうというシンボルとしての意味を付与できる気がする.日本人が近世を経て独自の土木文化を継承していたことを考えれば構造物を力学的・機能的意味合いで見る目が農民たちに全くなかったとは思えない.むしろ意味を看取しにくい何ものかの存在が,急速な変革の中で新しい種類の秩序の到来=近代的制度の整備を印象づける.その装置として西欧的装飾が役割を演じたとは考えられないだろうか.
五ケ門樋には,少し下流側にもう一つ樋管がある.1938(昭和13)年に竣工した中庄内樋管である.吐口上部に降りる小さな階段が目につくが飾り気のないモダンでシンプルな構造である.そのさらに下流には1907(明治40)年に建設された赤煉瓦造の排水機場の遺構がある.これら対照的で個性の異なる三つの構造物は陳列棚に展示されているかのように並んでいる.周辺の村では樋管が完成した後も,この排水機場を建設した後もしばらく内水の排水不良に悩まされ続けたという.
諸元・形式:
構造形式 頂部アーチ型樋管
規模 幅3.06m×高さ1.98m×長さ8.40m×1連
(出典:水田の中の原点 埼玉県煉瓦樋管群と五ケ門樋(土木紀行),深堀 清隆,土木学会誌87-2,2002-2,pp.78-79)
埼玉県北葛飾郡庄和町