2024年1月1日、誰もが新年を祝っていたであろうその時、石川県能登地方を中心にマグニチュード7.0の巨大地震が襲いました。
私たちにとって自然災害は非常に身近です。世界において日本の国土が占める割合はたったの0.3%。
それにも関わらず、全世界において、災害で死亡する人の1.5%がここ日本といわれています。それだけ外国に比べて自然災害が起こる割合が高いのです。
私は、正月の震災後、1月中旬に金沢へ行きました。
行く前はさぞかしひどい状況なのではと心配していました。たしかに道中、多くの自衛隊トラックやヘリコプターを見かけました。
ですが、金沢で見た光景は商店街の明るさや観光客が減ったことを嘆く飲食店の方などいつもと変わらない日常に心が少し救われました。
それから数日後、私はアフリカのケニアに飛びました。当時仕事でケニアに住んでいた姉に会うためです。
姉のアパートにステイさせてもらっていた時のこと。「隣の部屋にはお母さんと小さい子供たちが住んでいてね」とケニアでの生活を聞いていました。初めて訪れた異国での生活を興味深く聞いていたのですが、私が到着した翌日から、隣の部屋はとても静かでした。どうやら家族の親戚が不慮の交通事故で亡くなってしまっていたそうなのです。
その話を聞いた時、私はとてもショックを受けました。
それは、私自身がケニアの日常生活の中で「死に巻き込まれる恐怖」を感じていたからだと思います。
姉が住んでいた地域はケニアの中でもイスラム教徒が多い地域でした。
さぞかし、親戚を亡くしたご家族は悲しんでいるだろうと思っていた私に、姉が教えてくれます。
「近所の人が言ってたんだけど、神様が全て決めているからしょうがないって考えるんだって」
イスラム教では、人の人生はすべて神さまに決められていて、その通りに生きているから、生き死には私たちが関与できることではない、という考え方をするらしいのです。
ケニアで私が日常的に感じていた怖さを日本では感じません。それはもちろん国によって治安や文化が異なるために起こり得ることです。
ただ、ケニアでは、たった10分、船に乗って河を渡ることも私にとっては大変な事でした。
船に乗るまでには混雑するので2時間早めに家を出たり、船に乗っている間は貴重品をぎゅっと持って身を守らなければいけません。
それは橋が一つかかっていれば解決できることです。実際にケニアでは洪水が多く、河が渡れなくなることもあると聞きました。
もし、ケニアで日本のような地震や災害が起こったら。私が金沢で感じた日常はなくなり、混乱が訪れるでしょう。
日本では当たり前過ぎて、気付かなかった土木の存在。そのことを異国の地、ケニアで私は実感していました。それは、災害大国に住む私たちにとって、大きな安心材料となります。
ただ、土木の存在だけでは備えにも限界があります。私たちにとって必要なことは心への備えではないでしょうか。
日常の安心は私たちの生活の基盤に土木があるからです。ただ、もし明日にでも災害が起き、大切な誰かを失ったらと考えると、私自身どうなってしまうか想像がつきません。
この不安な気持ちを解決する糸口はケニアの日常が教えてくれました。
「神様が決めているからしょうがない」
その言葉を聞いた時、死は避けられないということを受け入れることで気持ちが少し落ち着いた気がしました。
いつか起きてしまうことを受け止めて、そのための準備を最大限にしたら、後は今を生きるということ。
私も心の備えを認識するようになってから、「死に巻き込まれる恐怖」自体がなくなったわけではありません。それでも、怖いと思っておびえながら過ごすのではなく、この瞬間を心から実感しながら生きようと少しだけ前向きに考えられるようになりました。
哲学者であるセネカの言った言葉にこんな言葉があります。「生きることにとっての最大の障害は、明日という時に依存し、今日という時を無にする期待である。ただちに生きよ。」と。
日本で生きていく以上、自然災害は容赦なく襲い掛かります。ですが私たちには過去を知り、未来に備え、今を生きることができます。
それは過去の偉人とケニアの日常が教えてくれました。「ただちに生きよ」と。
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