2011年東日本大震災。その時、200億円もの義捐金を寄付してくれた国が台湾です。
台湾には日本のことを好きな人が多くいます。それはなぜか?
そのきっかけとなった日本人の一人が、八田與一という人物です。
八田與一は、台湾に烏山頭ダムというダムを作った土木技術者です。
技術的には、当時、世界最新の「セミ・ハイドロリックフィル工法」を用いています。
もう一度言います。「セミ・ハイドロリックフィル工法」です。
この烏山頭ダムの完成により、香川県に匹敵する広大な大地は、台湾最大の農業地帯に生まれ変わりました。
その功績により、台湾の教科書にも載っているのが八田與一なのです。
時は1918年、台湾南部の嘉南平原。当時、15万ヘクタールある広大な土地は荒れ果てていました。
そこに住む約60万人もの人々は、日々の飲み水すら無く、とても苦しい暮らしをしていました。
その姿を目の当たりにした八田は
「この人たちを救いたい。住民全員が豊かになれるダムを作りたい」と思い、
嘉南平原の住民たちにも
「皆さんの子どもたちや孫たちが安心して暮らせるダムを作りましょう!」
そう熱い想いを語り、人々も協力してくれるようになりました。
こうして八田は、規模が大きすぎて実現不可能と思われていたダムの建設に挑んだのです。
八田與一は誰よりも一生懸命に働きました。1日の睡眠時間は4時間程度だったと言われています。
また途中、関東大震災の影響で工事予算が大幅にカットされ、作業者をリストラしないといけなくなった時、
八田は台湾人作業者ではなく、日本人を中心にクビを切りました。
なぜ台湾人を残したのか?
それは「自分たちが使うダムは自分達で作ってほしい」という思いからでした。
それを知った台湾人達はいっそう工事を頑張るようになりました。
このように八田は、現地の台湾人と同じ目線で仕事をし、信頼を得ていたのです。
そんな中、逆境が訪れます。工事中のトンネル内で爆発事故が起こり、50名もの作業者が亡くなってしまったのです。さすがの八田も心が折れました。
「人のためにやってきたのに、人を不幸にしてしまった・・・。もうダムの建設は諦めよう」と思いました。
しかし、その遺族たちがこう訴えたのです。
「八田さん、主人はダムの仕事を誇りに思っていました。どうか立派なダムを作ってください。」
「八田さん!死んだ仲間の為にも、工事をやめないでくれ!」
八田はこれらの言葉に励まされました。
「ここでくじけるわけにはいかない。必ずダムを完成させてみせます。」
これまで人のために頑張ってきた八田が、その人々によって救われた瞬間でした。
そして、残された人々が懸命に工事を続け、工事開始から10年後の1930年、
世界最大級の大きさを誇る烏山頭ダムが完成し、その水が大地を潤しました。
そして現在においても、青々とした美しい農業地帯として、人々の幸せな生活の礎となっています。
土木を使って台湾の人々の未来を切り拓いた日本人、それが八田與一でした。
日本は素晴らしい土木技術をもっています。
その技術をもって、海外にさまざまな設備を建設し、現地の人々を幸せにする、
それは、国際社会への貢献へと繋がっていきます。
さらに土木は、今の人々だけでなく、子供たち孫たち将来の人たちが
長く幸せに暮らしていける基盤を作ることができます。
まさに世界と未来の両方で、土木は役に立つことができるのです。
もちろん土木だけで無く、他の仕事をしている人にも同じことが言えます。
働く人すべてがこういった思いを持って、周りの人を幸せにすること。
つまり「傍を」「楽に」すること。まさに「働く」ということに繋がるのです。
こうした功績があった八田與一ですが、多くの反対にあったこともあります。
特に初期の段階では、「お前はそこまでして、功績がほしいのか!」と詰められたことがありました。
八田はそれに対し、こう答えました。
「あなたは知っていますか? 一日に四時間かけて水をくみに行っている嘉南の人達のことを。
水質が悪く、病気で足が黒く変色してしまった人達の悲しみを。
塩害がひどく、豊かな実りを望めない人達の絶望を」
「功績やお金のためだったら、土木なんていらないんだ!
土木は、それを使う全ての人々を幸せにするためにあるんだ!」
まさに、この言葉に、八田與一の生き様が表れているといえるでしょう。
私は、歴史上の偉人を1人でも多くの人に知ってもらうために、講師や弁論の活動をしております。
今回は、土木の偉人である八田與一の生き様について、皆さんに知ってもらえたら幸いです。
そして私自身も、こうした偉人に恥じない生き方ができるよう、これからも頑張っていきます!
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