モノレールは、軌道桁にぶら下がる懸垂式と、軌道桁を跨ぐ跨座式に大別されるが、跨座式を鉄道として日本で初めて実用化したのは1962(昭和37)年に開業した名古屋鉄道ラインパークモノレール線であった(遊戯施設では1960(昭和35)年に開業した船橋ヘルスセンター(千葉県船橋市)のモノレールが日本初)。
跨座式は西ドイツのアルウェーグ社が開発したゴムタイヤ式やアメリカのロッキード社が開発した鉄輪式などいくつかの種類があった。アルウェーグ社と契約を結んだ日立製作所では、その最初の実用化路線として、名古屋鉄道犬山線の犬山遊園駅を起点とする名古屋鉄道ラインパークモノレール線を手がけることとなり、1962(昭和37)年3月21日に開業した。ラインパークは、1980(昭和55)年にモンキーパークに改称したため、路線名もモンキーパークモノレール線とした。
絵葉書には、軌道桁を跨ぐモノレール車両がおさめられるが、軌道桁は鉄筋コンクリート製で、路線の諸元は最急勾配97‰、最小曲線半径150m、実線路延長1km394m(営業キロは1.2km)、全線単線であった。また、車両は当時としては珍しいアルミ合金製とし、3両固定編成を2編成用い、1編成長は30.8m、定員195名で、日立製作所笠戸工場で製造された。
アルウェーグ式の跨座式モノレールは、名古屋鉄道における実績を踏まえて、さらに1964(昭和39)年に開業した東京モノレールで導入された。跨座式モノレールのパイオニアであった名鉄モンキーパークモノレール線は2008(平成20)年12月27日限りで廃止されたが、跨座式モノレールは多摩都市モノレール、大阪モノレール、北九州高速鉄道、沖縄都市モノレールでも採用され、現在に至っている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2025年7月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
跨座式と懸垂式の特徴を教えてください。
A
跨座式は、軌道桁の構造が単純で、橋脚も小規模となるため、懸垂式に比べるとコストも安く済みますが、降雪があると軌道桁に雪が積もるため走行できなくなるという欠点があります。懸垂式は、跨座式よりも急曲線が可能で、降雪の影響を受けにくいという特徴がありますが、車両を懸下するために大規模な構造物を必用とします。日本のモノレールは、1972(昭和47)年に制定された都市モノレールの整備の促進に関する法律に基づいて整備が進められており、適用される都市の地形条件や輸送量に応じて跨座式(日本跨座式)か懸垂式(サフェージュ式)のどちらかを用いています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
跨座式モノレールを日本で最初に実現したのは、船橋ヘルスセンターのモノレールだったんですね。
師匠
ジェットコースター、モノレール、明るい笑顔、チョンパ♪
小鉄
何ですか、その変な唄は?
師匠
船橋ヘルスセンターのCMソング「長生きチョンパ」だ。楠トシエの唄だぞ。
小鉄
かっぱっぱ、ルンパッパ、黄桜~♪の人ですよね。
師匠
船橋ヘルスセンターは1977(昭和52)年に閉館してしまったから、今では記憶がある人も少なくなってしまったな。
小鉄
総合レジャーランドの草分けですよね。
師匠
なにしろ温泉からプール、ジェットコースター、人工スキー場、サーキット、飛行場まで揃っていた。
小鉄
そう言えば、ドボ鉄第99回の奈良ドリームランドも跨座式のモノレールでしたよね。
師匠
あれは鉄車輪を使っていた。ドボ鉄第161回の姫路市モノレールも鉄車輪だった。
小鉄
同じ跨座式でも違ってたんですね。
師匠
ゴムタイヤを使った跨座式モノレールは、犬山モノレールに続いて東京モノレール(ドボ鉄第138回)が登場して、大阪万博モノレール(ドボ鉄第175回)で日本懸垂式の基本設計が確立した。
小鉄
系譜がつながりますね。
師匠
今回は紹介していないが、製造にあたった山口県の日立製作所笠戸工場でも名鉄モノレールの車両が保存されているぞ。
小鉄
日立製作所にとっても、重要なプロジェクトだったってことですね。
師匠
モノレールも動物園や遊園地からスタートしていたから、当時は遊戯施設のように考える人も多かったが、ひとつひとつの課題を克服して立派な都市交通機関に育てたことになるな。
小鉄
技術者の粘り強さですね。
師匠
お前さんは、まだまだ粘り強さが足りんぞ。
小鉄
そんなことないですよ。師匠のウンチクにいつも粘り強くつきあってあげてるじゃないですか。
師匠
群馬県と長野県の県境に位置する碓氷峠は、66.7‰という急勾配を克服するため、ドイツの登山鉄道などで用いられていたラックレール式鉄道のうちアブト式(「アプト式」とも)を採用して建設され、1893(明治26)年に開業した。はじめは、蒸気機関車を用いたため煤煙が問題となり、排煙幕を設置するなどの対策が施されたほか、各トンネルには「隧道番」と称する幕引係が配置された。
このため、横川~軽井沢間を無煙化することとなり、碓氷川の川べりに火力発電所が建設され、直流600V、第三軌条方式による電気鉄道に改良された。そして、ドイツから輸入した電気機関車を用いて、1912(明治45)年から電気運転が開始されたが、これは都市内の鉄道(路面電車など)を除く幹線鉄道としては初めての電化であった。
「碓氷電気機関車丸山発電所」と題した絵葉書の後方には、横川方に設けられた煉瓦造の丸山変電所の建物が2棟写り、その傍らを貨物列車が通過している。手前には、中央に設けられたラックレールの起点(エントランス)が確認でき、線路の脇には集電のための第三軌条が敷設されている。
ラックレールは、1963(昭和38)年に廃止され、通常の粘着運転による新線に付け替えられたが、1997(平成9)年の北陸新幹線開通とともに横川~軽井沢間は廃止された。煉瓦造の丸山変電所は、日本の近代化遺産としての価値が認められ、アーチ橋やトンネルとともに国指定重要文化財となり、現地で保存された。これらの近代化遺産は、地元の観光資源として活用することとなり、鉄道の廃線跡は遊歩道として整備され、1999(平成11)年には横川機関区の跡地を利用して碓氷峠鉄道文化むらがオープンした。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2012年10月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
なぜ丸山変電所の建物は、2棟に分かれていたんですか?
A
横川~軽井沢間の電化にあたっては、火力発電所を横川駅から約400m上流方の霧積川河畔に設けて、三相交流6,600Vを横川方の丸山変電所と軽井沢方の矢ヶ崎変電所に送電しました。変電所にはそれぞれ2棟の建物が設けられ、蓄電池室と機械室として用いました。
蓄電池室には、312個(52個×6列)の蓄電池が並べられましたが、この時代は電力の安定供給が難しかったため、負荷を平準化させる方法として蓄電池を補助的に用いました。また、下り勾配の運転時には電力は必要ないため回転変流機によって充電し、発電所に対する負荷を軽減するとともに機器類の故障時に備えました。もうひとつの機械室には、変圧器(2基)、回転変流機(2基)、昇圧機(2基)、操作盤などの機器類が設置されました。変圧器によって三相交流6,600Vを二次電圧の六相交流240V(25サイクル)に変換した後、直流600Vに変圧して第三軌条に供給しました。
蓄電池室と機械室は一見するとほぼ同じ建物のように見えますが、よく見ると蓄電池室の屋根が越屋根(こしやね:採光や換気のために大屋根の上に小さな屋根を重ねた屋根)となっています。これは蓄電池室内で劇薬の硫酸を扱うための換気対策で、窓の上下にも開閉式の通風口を設けました。また、床も煉瓦とアスファルトを用いて耐酸性を強化したほか、金属の露出部には耐酸塗料を塗りました。蓄電池室を備えた変電所は、その後も1914(大正3)年の京浜線電化の際に設置された大井町変電所、川崎変電所、永楽町変電所でも採用されたほか、私鉄でも用いられました。しかし、蓄電池に用いる鉛板の交換などに多大な保守費を要したことや、回転変流器の増設とともにその必要性も乏しくなったため、1928(昭和3)年に撤去されて機械室へ改装・転用されました。
ちなみに、電気学会が認定する「でんきの礎(いしずえ)」では、2026(令和8)年2月に「鉄道電化の黎明期を支えた蓄電池の利用」として、JR東日本、京浜急行電鉄、京阪電気鉄道の3社を対象に顕彰しましたが、これは蓄電池を用いた変電所に対する「こと」(出来事)というカテゴリーでの評価で、電気学会のホームページではその具体例として碓氷峠の丸山変電所を紹介しています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
「排煙幕」ってありますけど、何のことですか?
師匠
横川~軽井沢間で最初に走った機関車は、すべて蒸気機関車だった。
小鉄
最初から電気機関車ではなかったんですね。
師匠
急勾配の上り坂を蒸気機関車が全力で登ったから、狭い断面のトンネル内に蒸気機車の煤煙が充満してしまった。
小鉄
今回も当時の写真が紹介されてますね。まるで煙突の中をくぐり抜けているような状態ですね。
師匠
このため、機関士は姿勢を低くして手拭いで顔を覆い、手を上げながら運転を続けなければならなかった。また、機関車乗務員の窒息による事故なども発生した。
小鉄
命にかかわりますね。
師匠
そこで、隧道の入口に引幕式の排煙幕を設けて、現地に住み込みの「隧道番」を配置して幕引きの操作を行った。
小鉄
どうやって操作するんですか?
師匠
列車がトンネル内に入ったことを確認して、隧道番が幕を引いて外気を遮断する。そうすると、列車の後方が減圧されて自然に煤煙が列車の後方に溜まる。トンネルを列車がくぐり抜けたら幕を開けて自然換気で煙を逃がした。
小鉄
簡単な原理ですね。
師匠
一見簡単そうに思えるが、相当な風圧が発生するから、幕を閉める操作やタイミングが難しく、隧道番の殉職や負傷が発生してしまった。
小鉄
乗務員も隧道番も命がけだったんですね。
師匠
その後も機関車の煙突の形を変えたり、重油燃焼器を用いるなどの工夫も行われたんだが、結局、横川~軽井沢間を電化して、電気機関車を導入することとなった。
小鉄
師匠、今頃になって気がついたんですが、絵葉書のキャプションが「丸山発電所」になってますよ。
師匠
それは明らかに「丸山変電所」の間違いだな。
小鉄
発電所と変電所って、何が違うんでしたっけ。
師匠
発電所は電気を発生させる場所で、変電所はそれを必要に応じた電圧に下げたり、交流電気を直流電気に変換する役割がある。
小鉄
つまり、発電所の下にいくつかの変電所が設けられるってことですね。
師匠
碓氷峠の電化では、横川に火力発電所があって、丸山と矢ヶ崎に変電所を設けた。
小鉄
キャプションをつけた人は、変電所と発電所の違いがわかってなかったってことですね。
師匠
お前さんも、ワシが教えるまではわかってなかったはずだぞ。
港湾地区は、海運と鉄道輸送の結節点として、特に貨物輸送と関わりが深く、また工場や倉庫群などの貨物輸送を含めて「臨海鉄道」「臨港鉄道」などと呼ばれる鉄道が発達した。臨海鉄道の建設は、高度成長時代に各地に設けられた新産業都市や臨海工業地帯の形成が契機となったが、その原型が、かつての「海陸連絡線」であった。
神戸港では、築港工事にあわせて神戸海陸連絡線を建設することとなり、1902(明治35)年に東海道本線の住吉~三ノ宮間にあった灘信号所(のち東灘駅を経て現在の摩耶駅)から分岐し、小野浜(のちの神戸港)駅へ至る延長3.4kmの貨物専用鉄道の建設が開始された。沿線はすでに市街化し、阪神国道や阪神電車などとも交差するため、全線を高架鉄道として平面交差を避けたが、当時は鉄道高架橋の技術が確立していなかったため、盛土を基本として道路との交差部のみに鋼桁を用いた。
神戸海陸連絡線は、1907(明治40)年8月20日に開業したが、「神戸海陸連絡線開通紀念」と題した絵葉書には、完成したばかりの架道橋(道路との交差部を跨ぐ陸橋)と蒸気機関車が牽引する貨物列車の姿が紹介された。このうち、橋本陸橋とある写真には、その下をくぐる阪神電車の姿もあり、東西に延びる幹線道路や鉄道と立体交差をしながら東海道本線と港を結んだこの鉄道の特徴を表している。
神戸海陸連絡線はさらに湊川へ延長して神戸臨港線として機能したが、2003(平成15)年に廃止された。廃線跡は、2016(平成28)年に「JR貨物臨港線廃線跡散歩道」として整備され、現在に至っている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2025年10月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
神戸港線は、貨物列車だけが使用して、旅客列車は運転しなかったのですか?
A
ボートトレインと呼ばれる、港と市内を結ぶ列車が運転されました。ボートトレインについては「ドボ鉄・第65回」の横浜港駅でも解説しましたが、外国航路の発着に合わせて、港まで運転される旅客列車のことです。神戸港の場合は、京都、大阪を経て神戸臨港線を経由して神戸港の間までを結んでいました。神戸港のボートトレインは、1924(大正13)年に運転を開始しましたが、1940(昭和15)年頃に休止となり、戦後は復活しませんでした。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
絵葉書の左上にスタンプみたいなものが押してあるんですけど、何て書いてあるんですか?
師匠
開業年月日の「40.8.20」という数字と、「神戸」「海陸連(聯)絡」「鉄道開通」「紀念」の文字を図案化している。
小鉄
あっ、ほんとだ。よく見るとそう書いてありますね。
師匠
記念スタンプは割合早い時期から流行っていて、鉄道でもおなじみの駅スタンプは1931(昭和6)年に福井駅で始まったのが最初と言われている。
小鉄
御朱印帳みたいなものですかね。
師匠
日本は御朱印帳の文化があったから、なじみやすかったんだろうな。
小鉄
ところで「番宣」になりますけど、いつの間にか「ドボ博」に「ドボ博MAP」の機能が追加されて便利になりましたね。
師匠
「オンライン土木博物館<ドボ博>が提供する、土木の総合マップ」のことだな。
小鉄
「ドボ鉄」にも「ドボ鉄MAP」がありますけど、直接リンクしていなくて不便でした。
師匠
「ドボ博MAP」は、「ドボ博」「川展」「ドボ鉄」だけではなく「土木学会デザイン賞」などで取り上げたコンテンツが、地図上でクリックすると簡単に見られるから便利だぞ。
小鉄
旅先や出張先で「寄道したいけどこの近くに何かないかな?」という時にも使えますね。
師匠
お前さんは寄道ばかりしてるからな。
小鉄
そんなことないですよ。寄道ばかりは師匠の方でしょ。
師匠
何を言い出すんだ。たまには仕事も……じゃなくて、ちゃんと仕事もしているぞ
山手線の池袋~田端間は、日本鉄道豊島線として建設が進められたが、1901(明治34)年8月8日の定時株主総会で「山手線」の名称が正式に与えられ、以後、現在までこの名称が継承されている。駒込~田端間には道灌山(どうかんやま)トンネルが建設されたが、将来の輸送量の増加を予見して、当時としては珍しい複線断面で建設された。
1903(明治36)年に池袋~田端間が開業した時点では単線運転であったが、1909(明治42)年に電化し、さらに翌年には複線化された。山手線複々線化工事の記念絵葉書では、「駒込田端間線路」の「𦾔(旧)」として複線で使用される道灌山トンネルの駒込方の坑口がおさめられ、「改良後」として新設された電車線と中里トンネルの準備工事の様子がおさめられた。
山手線の複々線化工事は、客貨を完全に分離するための工事として行われ、品川~田端間の線路を4線として従来の路線を貨物線(汽車線2線)とし、その外側に旅客線(電車線2線)を増設した。これにより、並走していた貨物線と旅客線は、駒込~田端間で完全に分岐し、貨物線は新設された中里トンネルをくぐって上中里方面(田端操車場の北側あたり)へと至り、旅客線は田端方面へ至ることとなった。
道灌山トンネル付近は山手線複々線化工事の最後の区間として1923(大正12)年に起工し、関東大震災をはさんで1925(大正14)年に竣工した。道灌山トンネルは、複々線化工事の竣功後も、貨物線のトンネルとしてしばらくの間は使用され続けたが、1928(昭和3)年の中里トンネルの使用開始とともにその役割を終え、廃線となった。
こうして、中里トンネルのルートは、山手線と東北線を短絡する貨物専用線として機能したが、2001(平成13)年に運転を開始した湘南新宿ラインによって旅客線としても用いられるようになり、現在に至っている。また、廃止された道灌山トンネルの一部は現在も法面(のりめん)に露出しており、かつてこの場所にトンネルが存在していたことを示している。
(小野田滋)(書下ろし)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
なぜ道灌山トンネルは複線断面で中里トンネルは単線並列なのですか?
A
複線区間に鉄道トンネルを設ける場合、複線断面1本で建設するか、単線断面のトンネルを並べて2本建設するかは、両方の選択肢があります。工事費では、一般に複線断面で建設した方が安く済みますが、大きな断面のトンネルは、導坑と呼ばれる小さい断面のトンネルを小分けに掘りながら大きな断面に拡げるなど、工事が複雑になります。これに対して、単線断面トンネルは掘削する断面積も小さくなるので、それだけ早く掘削でき、地質が悪い場合でも周囲の地盤への影響を最小限に抑えることができるため、単線断面のトンネルを並列させる場合もあります。また、土被り(どかぶり:地表からトンネルまでの深さ)が浅い場合は小断面のトンネルほど地表面への影響が少なくなりますから、中里トンネルのように人家の直下でトンネルを掘る場合には単線並列が適しています。あと、単線区間を複線化する場合は、一般に単線並列トンネルとなりますが、新しいルートに複線断面のトンネルを掘る場合もあります。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
本文に「廃止された道灌山トンネルの一部は現在も法面に露出しており」ってありますけど、どの部分が残ってるんですか?
師匠
トンネルの両側にある壁柱の上部の、笠石部分だ。
小鉄
あっ。古い写真と比べると、確かに同じ形をしてますね。
師匠
位置から判断して、田端方の坑口だろう。
小鉄
トンネルは、地中に埋まったままかもしれませんね。
師匠
その可能性は高いが、工事で掘るような機会でもないと、確認は難しいな。
小鉄
この「豊島線道灌山隧道図」という図面は、どこにあるんですか?
師匠
山口市教育委員会が所蔵している秋本春三鉄道資料の中にある。
小鉄
何で山口市にあるんですか?
師匠
この図面を所蔵していた秋本春三は、山口県の小郡(おごおり)の出身で、明治のはじめに東京へ出て日本鉄道の工事などで活躍した。
小鉄
地元の人なんですね。
師匠
その後、地元に戻って小郡町長や山口県議会の副議長などを務めた人物だ。
小鉄
そう言えば、むかし「小郡」って駅がありましたよね。
師匠
小郡町が山口市に合併されることを機会に「新山口」に改称した。もう20年以上も前の話だぞ。
小鉄
平成時代のことですね。
師匠
それで思い出したが、新山口駅の周辺には「小郡維新」「小郡明治」「小郡大正」「小郡昭和」「小郡令和」という町名が揃っているぞ。
小鉄
それは奇跡ですね。
師匠
新山口駅に改称したことで山口市の玄関口となり、明治維新ゆかりの都市として駅周辺の区間整理事業が行われ、「まちおこし」の取り組みの中で名付けられた。
小鉄
昔からある地名ではないんですね。
師匠
鉄道も「SLやまぐち号」から新幹線まで揃っているから、秋本春三さんが遺した資料とあわせれば時代がつながるぞ。
小鉄
師匠も、たまにはいいこと言いますね。
師匠
「たまに」は余計だ
結婚式で列席者の長老が謡う「高砂や~♪」の謡曲は、兵庫県高砂市にちなんだ曲で、高砂海岸の白砂青松を背景に出帆する帆掛け船と、人生の門出とを重ねた目出度い曲として知られ、高砂市は「ブライダル都市」宣言を行なっている。その高砂市には、かつて山陽本線の加古川駅を起点として高砂を結んだ高砂線という延長6.3kmほどのローカル線が走っていた。
高砂線は1911(明治44)年に設立された播州鉄道(のち播但鉄道に吸収合併)という私鉄によって建設され、1913(大正2)年に加古川町(現在の加古川)~国包(現在の厄神)間が開業し、翌年までには高砂浦(のち高砂港)から加古川さかのぼり西脇へ至る本線が全通した。高砂には、1941(昭和16)年に陸軍大阪造兵廠播磨製造所が建設され、火砲の製造を開始した。このため、播但鉄道は軍需路線として国に買収されることとなり、1943(昭和18)年に国有化されて高砂線となった。しかし、ほどなく終戦を迎え、廃止された造兵廠は当時の運輸省が継承して大阪鉄道局鷹取工機部高砂分工場として発足し、さらに高砂工機部に独立ののち日本国有鉄道の高砂工場となり、鉄道車両の修繕や改造工事を行なった。
「播州鉄道高砂口鉄橋」と題した絵葉書には、播州鉄道の尾上~高砂北口間に架かっていた加古川橋梁がおさめられ、上路プレートガーダの上を珍しい蒸気動車(1914(大正3)年に川崎造船所で製造された播州鉄道ロハキ1形と推定される)が通過している。蒸気動車は、小型の蒸気機関車と客車を組み合わせた鉄道車両で、現在の気動車の元祖のような車両にあたる。距離が短い路線のフリーケントサービスを向上させる目的で登場したが、取り扱いに難があり、ごく少数が一部の路線で使用されたのみで、全国に普及するには至らなかった。
高砂線は、国鉄の分割・民営化を目前にした1984(昭和59)年11月30日限りで廃止され、国鉄高砂工場も1985(昭和60)年に廃止された。廃線跡の一部は遊歩道として整備され、終点の高砂駅跡地などには動輪のモニュメントが設置されている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2025年4月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
蒸気動車の実物はどこかで見ることができますか?
A
名古屋市港区のリニア・鉄道館で蒸気動車のホジ6005形6014号が展示されています。この車両は、1913(大正2)年に汽車製造で製造され、鉄道省神戸鉄道管理局に所属し、大阪近郊で用いられたのち九州に転属し、さらに1944(昭和19)年には名古屋鉄道に譲渡されました。同社の蒲郡線で用いる予定でしたがほとんど使用されないまま廃車となり、1951(昭和26)年に愛知県犬山市の犬山遊園地で保存・展示されました。その後、博物館明治村が開設されたため、同所で長らく保存・展示されていましたが、2011(平成23)年に開館したJR東海のリニア・鉄道館に再移転し、現在に至っています。再移転後の2019(平成31)年に、国の重要文化財に指定されました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
蒸気動車って、面白いアイデアですね。
師匠
昔は蒸気機関しか動力が無かったからこうなるが、その後、効率の良い内燃機関が発明されたため短命に終わってしまった。
小鉄
日本で最初の蒸気動車はいつからですか?
師匠
1905(明治38)年に開業した瀬戸自動鉄道が最初だ。
小鉄
瀬戸自動鉄道?
師匠
今の名鉄瀬戸線の前身だ。
小鉄
日本製ですか?
師匠
フランスのセルポレー社からの輸入だ。
小鉄
フランス製の鉄道車両は珍しいですね。
師匠
ジイ・エス商会という商社が、明治30年代にあちこちの鉄道会社に売り込んで、ようやく瀬戸自動鉄道で実現した。
小鉄
セールスマンも大変だったでしょうね。
師匠
ところが不具合が多発したため、瀬戸自動鉄道は翌年に瀬戸電気鉄道と社名を変えて、1907(明治40)年から電車を走らせたから、ごく短期間使っただけだった。
小鉄
長続きしなかったんですね。
師匠
その後、汽車製造会社設計掛長の工藤兵治郎が1909(明治42)年に「工藤式蒸汽自動客車」の特許を出願し、国産化された。
小鉄
どんな発明だったんですか?
師匠
前面に扉を備えて、ボイラーを前に引き出せるようにして、保守点検を容易にした。
小鉄
たしかに蝶番(ちょうつがい)があって、観音開きできるようになってますね。
師匠
それから、蒸気動車は基本的にボイラーのある側だけに運転室があったんで、いわゆる片運転台式だった。
小鉄
前後に運転台が無かったんですね。
師匠
工藤は、もう片方にも運転台を設けて、ワイヤーを使って後方の運転台からも操作できるようにした。名古屋市のリニア・鉄道館で保存されているホジ6014も工藤式だから、その特徴をよく理解できるぞ。
小鉄
あやつり人形みたいな原理ですね。
師匠
あやつり人形といえば、サンダーバードだな。
小鉄
〝サンダーバーズ・アー・ゴー!〟でしたっけ?
師匠
サンダーバードを知ってるってことは、さては昭和の生まれだな。
新橋駅~浜松町駅間から東京駅のやや北側まで続く延長約2.7kmの東京市街線高架橋は1909(明治42)年に浜松町~ 烏森(新橋)間、翌年に烏森~有楽町間、有楽町~呉服橋(東京駅の北端にあった仮駅)間が開業して全通した。高架橋は、ベルリンの高架鉄道をモデルとして煉瓦アーチ式を採用し、主要道路との交差部に鉄桁を使用した。高架橋の設計指導を行うためにドイツからフランツ・バルツァーが顧問技師として招聘され、土木技術者の岡田竹五郎を所長とする新永間建築事務所が工事全般を担当した。
高架鉄道の建設にあたって問題となったのは、耐震性であった。1891(明治24)年に発生した濃尾地震では、最新の技術で建設された鉄道構造物にも大きな被害を与え、西洋の優れた土木技術をもってしても被害を防ぎようが無いという懸念が広がった。来日したバルツァーは地震の経験が無かったが、高架鉄道を煉瓦アーチ方式よりも耐震性に優れた鉄桁方式で建設することを主張していた。
このため、鉄道局では震災予防調査会に調査を依頼し、1897(明治30)年3月11日付で9項目にわたる条件を付した回答がなされた。また、同時期に欧米各国を視察した鉄道技師の野村龍太郎は、帰朝後に煉瓦造でも地震に耐えられるとし、橋脚の一部を太くすることによって、アーチが破壊してもその影響が他の径間に及ばない方法があるとしたが、同様の指摘は震災予防調査会の回答でもなされ、バルツァーの設計でも「グループ橋脚」として採用されて実現した。
「(東京名所)土橋附近の高架鐡道」と題した絵葉書には、外濠沿いに建設された内山下町橋高架橋の上を、甲武鉄道から継承した電車が通過し、高架橋の反対側には初代・帝国ホテルの姿がある。煉瓦アーチ式高架橋に注目すると、アーチとアーチの間の柱(橋脚)が太くなっている部分があり、橋脚の上の「すかし模様」と呼ばれた小アーチが4径間で構成されているが(他は3径間)、これが「グループ橋脚」である。
バルツァーは工事報告の中で「この決定がとりかえしのつかない失敗であるかどうかは、年月が経過してみなければわからない。願わくば、島国日本の首都に、末永く大きな地震が起こらないようにと願っている。」と記したが、その懸念は十数年後に発生した関東大震災で現実となった。しかし、火災による被害や、軽微な損傷などはあったものの、高架橋そのものの構造は健全であった。今日の技術に比べると当時の耐震設計技術には限界があったが、そうした中で万全の対策を行ったことに、このプロジェクトの意義があった。(小野田滋)(書き下ろし)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
震災予防調査会はどんな組織で、どんな勧告をしたのですか?
A
震災予防調査会は、濃尾地震の被害を教訓として、その翌年に設置された文部省管轄の地震の研究機関で、地震の観測や発生メカニズム、地震災害の対策や復旧方法について幅広く検討する組織として機能し、1925(大正14)年に震災予防評議会(のち震災予防協会となり活動停止)にその役割を継承しました。鉄道作業局から震災予防調査会への照会は、1897(明治30)年2月25日付で行われ、同年3月3日に第1回の特別委員会が開催されました。特別委員には、土木監督署技師・石黒五十二、北海道鉄道敷設部技師・田辺朔郎、工科大学教授・野辺地久記が任命されましたが、いずれも当時を代表する土木工学の権威で、鉄道局からの説明は小山友直が担当しました。震災予防調査会では、1897(明治30)年3月11日付で特別委員会の結論として、「本会でも充分な試験の結果に基づいて意見を述べることはできないが、討議の結果、下記のような考え方に従えば被害を軽減できると考えられる。」(要旨)と回答し、「煉瓦造は鉄構造に比べて劣るが、径間やアーチの形状、鉄筋コンクリート構造の採用などの考慮を行えば、地震の被害を軽減できる。」と述べ、「鉄構造、煉瓦構造を用いるにしても、全橋を一体化するのではなく、30m程度に分割することによって連鎖的な被害を軽減できる。」と勧告しました。また、震災予防調査会の結論が出た直後に、欧米視察を終えて帰国した野村龍太郎も、その帰朝報告書の中で「煉瓦造の高架橋は震災の被害を考慮する必要があり、震災予防調査会の意見も尊重して、煉瓦造を最も適当な構造と信じる。」と述べて煉瓦造を容認し、「橋台の4個または5個ごとにその厚さを太くし、万一アーチが崩壊しても他のアーチで支えられるようにすべきである。」としました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
グループ橋脚は、今でも見られますか?
師匠
有楽町~新橋間の高架橋で確認できるぞ。
小鉄
すぐにわかりますかね。
師匠
簡単だ。素人でもわかるぞ。
小鉄
何かコツがあるんですか?
師匠
橋脚の上に小さいアーチがあるだろう。パルツァーが「すかし模様」と呼んだ小アーチだ。
小鉄
あっ、この小窓みたいなアーチですね。何のためにあるんですか?
師匠
模様っぽく見せているが中は空洞だ。アーチ橋は、自重が重くなるから地盤に対する負担を軽くするために空洞を設けて、軽量化することがある。
小鉄
実用的な意味があるんですね。
師匠
その小窓のようなアーチが4つ並んでいる橋脚がグループ橋脚として柱を太くした橋脚だ。
小鉄
ほんとだ。ほかの橋脚は「すかし模様」が3つしかなくて、橋脚も少し細いですよね。
師匠
同じように見える煉瓦アーチ高架橋だが、よく見るといろいろな違いがあるぞ。
小鉄
技術者のこだわりですね。
師匠
お前さんも何かこだわりがあるか?
小鉄
出された食事は残さず食べるとか、好きな食べ物は最後にゆっくり食べるとか……。
師匠
食べることしか考えとらんのか
関門トンネルが完成する以前の関門海峡には、鉄道連絡船の航路が開設され、列車の発着に合わせて本州と九州を結んだ。現在の山陽本線神戸~下関間は、私設鉄道の山陽鉄道によって神戸方から西進して線路を延伸し、1897(明治30)年には徳山に達した。山陽鉄道では、徳山港から馬関(現在の下関)を経由して門司(現在の門司港)へ至る航路を開設し、門司駅で九州鉄道に接続した。その後、山陽鉄道は1901(明治34)年に馬関まで達したため、航路は下関と門司を結ぶ関門航路となり、1906年の山陽鉄道国有化後は国有鉄道に継承された。
関門航路では、艀(はしけ)を用いた貨車輸送を行なっていたが、貨物の積卸しを請負っていた地元下関の宮本組の宮本高次は、和船に線路を取り付けて陸上の線路と直接つなぎ、7トン積みの貨車3両を載せて蒸気船で曳航する車両航送を考案し、1911(明治44)年10月から第一山宮(さんぐう)丸~第三山宮丸の3隻にそれぞれ貨車用艀をつなぎ、貨車航送を開始した。
考案者の宮本は大分県中津の出身で、下関で沖仲士をしていたが、アメリカへ渡って港湾労働に数年間従事し、アメリカの貨車渡船を実見していた。帰国後に海運業を興し、資金難などに直面しながらも貨車航送を実現した。同年11月には陸軍特別大演習が福岡県と佐賀県で行われるため門司に御料車が運ばれたが、当日は他の船舶の航行を中止し、百余名の沖仲士に新調の法被を着せて作業を行い、監督の重責を見事に全うしたと伝えられる。
この航路は、下関と小森江(門司)を結んだため関森航路と呼ばれたが、艀による航送は効率が悪く、自力で航行できる貨車専用の船舶として、1919(大正8)年に第一関門丸と第二関門丸が横浜船渠で完成してただちに就航した。「(下関)貨車航走舩」と題した絵葉書には第二関門丸の姿が紹介されたが、甲板に1線の線路を設けて7トン積み貨車7両を積載することが可能であった。船体は貨車を前後両側から載せることができる両頭式で、スクリュー船ではなく外輪船とすることによって前後進の切り替えを容易にした。
この方式は、デンマークで用いられていた航送方式に範をとったとされるが、左右の外輪を同一機関で回していたため操船が難しく、関門海峡の早い潮流に流されがちであった。また、貨車も大型化して、15トン積みが標準となり、第一関門丸型では対応が困難となった。
このため、1923(大正12)年に就航した第三関門丸以降は機関を左右別々に設けて外輪を個別に回せるように改良し、船体幅を拡げて安定性を向上させて、貨車の大型化にも対応した。関門丸は1926(大正15)年に完成した第五関門丸まで合計5隻が建造され、関門トンネルが完成する1942(昭和17)年までその任にあたった。(小野田滋)(書き下ろし)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
第二関門丸は、関門トンネルが開業して、その後どうなりましたか?
A
第二関門丸は、関門トンネルの開業で宇野(岡山県)と高松(香川県)を結ぶ宇高連絡船に転用されましたが、1948(昭和23)年に運航停止となり、紫雲丸型の就航に伴って1950(昭和25)年には日本自動車航走に売却されました。日本自動車航走は、日本最初の本格的な民間カーフェリー会社として、西日本鉄道、京浜急行電鉄、山陽電気軌道の共同出資によって設立されました(日本最初のカーフェリーは1934(昭和9)年に営業を開始した九州の若戸渡船とされるが、車が自走したまま出入りでできるランプドアを備えた近代的なカーフェリーを導入したのは日本自動車航走が初とされる)。第二関門丸は、甲板のレールを撤去して7トントラック8~9台を積載でるように改造され、再び関門海峡を往復しましたが、1955(昭和30)年に廃船となって解体されました。また、日本自動車航走も、1958(昭和33)年に関門国道トンネルが開通したため業績が悪化し、1961(昭和36)年に廃業しました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
今回紹介されている「車両航送発祥の地」っていう碑は何ですか?
師匠
本文でも紹介されている 宮本高次が考案したわが国最初の車両航送を顕彰した記念碑になる。
小鉄
準鉄道記念物ってありますよ。
師匠
国鉄では、1958(昭和33)年10月に「鉄道記念物等保護基準規程」を制定して、鉄道記念物制度を発足させた。
小鉄
今から70年くらい前に発足したんですね。
師匠
当時は、近代化遺産という概念も無い時代だったから、今から考えると当時としては先進的な取組みだった。
小鉄
1号機関車が鉄道記念物になったのもこの時ですね。
師匠
準鉄道記念物は、1963(昭和38)年からスタートした。
小鉄
鉄道記念物とはどう違うんですか?
師匠
準鉄道記念物は「地方的にみて歴史的文化価値の高いもの」で、「将来鉄道記念物になりうるもの」を支社で指定するとしていた。
小鉄
鉄道記念物に比べて、ローカル色が強かったんですね。
師匠
「車両航送発祥の地」も1966(昭和41)年に当時の国鉄中国支社が指定して、その記念碑になる。
小鉄
どこにあるんですか?
師匠
下関駅東口に隣接している、シーモール下関という商業施設の1階の外壁にある。
小鉄
遺構とかは残ってるんですか?
師匠
何も残っていないから、「史跡」ということになるかな。
小鉄
外輪船は、一度乗ってみたかったですね。
師匠
今でも琵琶湖の観光船「ミシガン」が、日本で唯一の外輪船として活躍しているぞ。
小鉄
今日は今津か、長浜か~♪
師匠
おっ。「琵琶湖周航の歌」だな。
日本で最初の営業用電気鉄道は、1895(明治28)年に開業した京都電気鉄道で、その後は名古屋電気鉄道、大師電気鉄道、小田原電気鉄道と続いたが、東京で開業するのは、1903(明治36)年になってからであった。その後、東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京電気鉄道の3社鼎立により路面電車網が整備されたが、1906(明治39)年には統合して東京鉄道が発足した。これらは、軌道条例(のち軌道法)に基づく路面電車であったが、普通鉄道の電化も行われるようになり、1904(明治37)年に甲武鉄道飯田町~中野間で電車運転を開始し、同年には飯田町~御茶ノ水間も電化された。
「水道橋及甲武線電車」と題した絵葉書には、水道橋駅を背景として、水道橋架道橋(現在の新水道橋架道橋)を渡る甲武線の電車と、その下をくぐって水道橋を渡る路面電車がおさめられた。鉄製の水道橋が完成するのは、1908(明治41)年2月で、東京鉄道の神保町~春日町間が開業するのが同年4月のことなので、水道橋の架設を待って路面電車が開業したことになる。また、甲武鉄道水道橋駅の開業は1906(明治39)年9月で翌月には甲武鉄道が国有化されて甲武線となり、さらに1909(明治42)年10月に国有鉄道線路名称の制定で「中央東線」と称した。こうした経緯から、この絵葉書は1908(明治41)年~1909(明治42)年頃に撮影されたと推察される。
東京鉄道は、1911(明治44)年8月に東京市に買収されて東京市電となり、1943(昭和18)年の都政施行とともに「都電」と称した。一方、国有化された甲武鉄道の電車はのちに「国電」と呼ばれ、都電と共に都市交通を支えた。この時代の甲武線はまだ小型の単車であったが、やがて車体は大型化され、総括制御も実用化されて編成単位の運転も可能となり、電車列車へと進化した。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2025年6月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
新水道橋架道橋に取り付けられている銘板の意味を教えてください。
A
銘板は現在の第3径間に2枚取り付けられていて、主桁のほぼ中央にある「HARKORT./DUISBURG‐GERMANY./1904.」と書かれた銘板がドイツのデュイスブルクにあるハーコート社で1904(明治37)年に製造されたことを示す銘板です。桁端にある「CHINA&JAPAN TRADING CO.LD./89 YOKOHAMA./CONTRACTORS.//供給者//支那及日本貿易商會/横濱八十九番」とある銘板は輸入代理店を示していて、「横濱八十九番」はこの商社の所在地が横浜の外国人居留地の「89番」にあったことを示しています(日本の町名制度に馴染みのない外国人でも判りやすくするため数字のみで住所を表した)。なお、この銘板は今年(2026(令和8)年)になって突然撤去されてしまい、現在はその痕跡のみが残っています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
甲武鉄道の電車は、ドボ鉄170回で紹介されたばかりだから、よく覚えてますよ。
師匠
今回の絵葉書は、路面電車も写っているから、比較ができるぞ。
小鉄
たしかにこうして比べると甲武鉄道の電車の方が少し大きいですね。
師匠
それだけではないぞ。
小鉄
?
師匠
甲武鉄道の電車は、運転台の前面にもガラス窓を備えている。
小鉄
あっ、ほんとだ。下の路面電車の前面には窓がありませんね。
師匠
当時の路面電車の運転台は、基本的に屋根だけで、吹きさらしだった。
小鉄
雨や雪が降っても大丈夫だったんですか?
師匠
路面電車もほどなく改造して運転台の前面にも窓を取付けるが、お客さんが乗降する出入台の扉も無くて、扉は客室と出入台の間仕切だけにあった。
小鉄
ところで、本文に「水道橋架道橋(現在の新水道橋架道橋)」ってありますけど、明治時代の橋梁なのに、なんで「新」なんですか?
師匠
実は、1972(昭和47)年に都営地下鉄三田線が水道橋駅東口の白山通りの地下に建設されるんだが、その際に水道橋架道橋も拡幅工事を行って、東側に橋台を新設して1径間を拡張し、4径間になった。
小鉄
確かに今の写真と絵葉書を見比べると、3径間から4径間に増えてますね。
師匠
現在の第1径間は1972(昭和47)年の白山通り拡幅工事の際に新設された新しい桁で、第2径間もこの際に支間長を短縮改造している。
小鉄
つまり、現在オリジナルが残っているのは、第3径間と第4径間だけってことですね。
師匠
この際に、リニューアルされたことから、「新水道橋架道橋」と改称した。
小鉄
「シン・水道橋架道橋」の誕生ってことですね。
師匠
とりあえず「シン」を付けてみたかっただけだろう。