紀勢本線の松阪駅は、津~山田(現在の伊勢市)を結んだ私設鉄道の参宮鉄道によって1893(明治26)年に開業し、1907(明治40)年に国有化されて参宮線となった。タイトルに「三重県松阪 中央省線 並ニ名松線 右参急 左松電」と書かれた絵葉書は、昭和戦前期の松阪駅の構内を撮影した一枚で、「参急」は参宮急行電鉄、「松電」は松阪電気鉄道の略である。
国有化後の松阪駅には、1912(大正元)年に軌間762mmの松阪軽便鉄道が開業し、櫛田川上流の大石へ線路を伸ばした。同社は1927(昭和2)年に電化されて翌年には社名を松阪電気鉄道とし、戦後は三重交通大石線となったが、三重電気鉄道に分社化されたのち1964(昭和39)年に廃止された。
一方、1929(昭和4)年に鉄道省の名松線が松阪を起点として開業し、雲出川をさかのぼって名張をめざしたが、途中の伊勢奥津までを結んだにとどまった。参宮急行電鉄は、大阪と伊勢方面を直通する軌間1,435mmの電気鉄道として1930(昭和5)年に松阪駅の東側に駅を設け、現在の近鉄山田線となった。それぞれの松阪駅は隣接していたが、国鉄線、松阪電気鉄道、参宮急行電鉄では軌間が異なるため、列車の直通運転はできなかった。1959(昭和34)年には紀勢本線が全通したため、松阪を含む参宮線の亀山~多紀間は紀勢本線へ編入され、現在に至っている。
写真の左端には松阪電気鉄道の松阪駅があり、長大な跨線橋が右端に新設された参宮急行電鉄の松阪駅へと伸びている。構内の中央には蒸気機関車の時代を象徴する給水塔が建ち、8620形蒸気機関車が牽引する旅客列車が松阪駅を後にし、踏切では荷馬車が列車の通過を待っている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年3月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
最初に松阪駅を開業した参宮鉄道は、どんな会社ですか?
A
参宮鉄道は、伊勢神宮への参拝客を運ぶために設立された鉄道で、1893(明治26)年に津~宮川間が開業し、1897(明治30)年に宮川~山田(現在の伊勢市)間が延仲開業しました。鉄道国有法によって1907(明治40)年に国に買収されて参宮線となり、国有化後の1911(明治44)年に山田~鳥羽間が延長開業しました。本文にもあるように、1959(昭和34)年に紀勢本線が全通したため、亀山~多紀間は紀勢本線へ編入されて現在に至っています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
この松阪駅前にある「驛鈴」(えきれい)のモニュメントって何ですか?
師匠
ああ、本居宣長だな。
小鉄
本居宣長って、江戸時代の人物ですよね。「驛」ってあるから松阪駅と関係あるのかと思いましたけど……。
師匠
「驛鈴」は律令制の時代に、地方へ出張する官吏が携行した鈴のことだ。
小鉄
なんで江戸時代の本居宣長と関係あるんですか?
師匠
本居宣長は、国学者として「古事記」を研究した人物で、松阪の出身だ。
小鉄
「驛鈴」とどこでつながるんですか?
師匠
12代浜田藩(現在の島根県)主の松平康定が、「古事記伝」を著した本居宣長が鈴の収集家と知って、「驛鈴」を贈ったといわれている。
小鉄
つまり殿様からの贈り物ってことですか。
師匠
そのエピソードにちなんで、松阪駅前に駅鈴のモニュメントが設置された。
小鉄
駅と関係があるわけではないんですね。
師匠
駅はその都市の玄関だから、その都市を象徴するモニュメントを設置する例が多い。
小鉄
松阪といえば松阪牛だと思ってました。
師匠
やっぱり食べる方か………。
1872(明治5)年に新橋~横浜間で日本最初の鉄道が開業したが、当時の横浜駅は現在の根岸線・桜木町駅のあたりにあった。この時点で線路をさらに西へ伸ばす計画はなかったが、乗降場は新橋駅のように完全な行止まり式の頭端ホームとせず、片側に寄せて通過線を確保することにより将来の延伸に備えた。
1887(明治20)年には現在の東海道本線の一部となる横浜~国府津間が開業したが、横浜駅から先は通過式ではなく、スイッチバックで程ヶ谷(現在の保土ヶ谷)方面へ至ることとした。このため、横浜駅で機関車を付替える必要が生じ、輸送上の隘路となった。
その後、日清戦争を契機として1894(明治27)年に神奈川~程ヶ谷間を短絡する軍用貨物線が建設され、1898(明治31)年には旅客列車も通過するようになった。さらに1915(大正4)年には、東海道本線を軍用貨物線のやや東側の高島町付近を経由するルートに新設して2代目の横浜駅を新築・移転し、初代の横浜駅は桜木町駅に改称された。
「横浜停車場」と題した絵葉書は、この際に完成した2代目の横浜駅を撮影したもので、前年に開業した東京駅よりも規模は小さかったが、中央にピナクル(小尖塔)を設けた煉瓦造のルネサンス風建築として完成し、駅前を高島~保土ケ谷間の貨物線が高架橋で通過した。
この改良工事によって、スイッチバック運転は解消されたが、8年後に発生した関東大震災で被災し、復旧ののち1928(昭和3)年には現在の地へ再移転した。このため、2代目の横浜駅はわずか13年の使用で姿を消したが、2006(平成18)年にマンションを建設した際に2代目駅本屋の基礎部分が発掘され、その一部が現地で保存されている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年2月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
鉄道が開業した時の横浜停車場は、将来、線路が西へ伸びることを前提として建設してなかったんですか?
A
本文でも触れていますが、いちおう先に伸ばせるようになっていました。始発となる東京の新橋停車場は頭端式と呼ばれる行止まりのプラットホームでしたが、横浜停車場はホームを駅の中心軸からシフトして、いちばん南側の線路は将来先に伸ばせるように考慮していました。しかし、三浦半島の丘陵地を横断するためには難工事となることが予想され、結果的に旧東海道の程ヶ谷、戸塚を経て大船へ至るルートが選択されました。このため、東海道本線にスイッチバックが生じてしまいました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
2代目横浜駅の絵葉書ですが、駅前に橋のようなものが横断してますけど、何ですか?
師匠
ああ、あれは貨物線の高架橋だ。
小鉄
どこを結んでたんですか?
師匠
東海道本線の鶴見から分岐する東海道本線の貨物支線で、高島貨物駅から新港埠頭を経て横浜税関へ至る貨物線と、東海道線の程ヶ谷方面へ至る貨物線が分岐していた。
小鉄
貨物列車のための高架橋だったんですね。
師匠
二代目の横浜駅は、東京駅と同じ年に完成した。
小鉄
何となく東京駅と似てますが、辰野金吾の設計ですか?
師匠
辰野金吾ではなく、当時の鉄道院に在籍した久野節や長谷川馨、佐伯貫一が携わっていたようだ。
小鉄
そういえば、尖塔は東京駅には無いですね。
師匠
東京駅も、最初の辰野金吾案では中央に尖塔があったんだが、最終案では採用されなかった。
小鉄
でも横浜駅では尖塔にこだわったんですね。
師匠
特に長谷川馨は尖塔にこだわっていて、原宿駅はその代表作だ。
小鉄
ほかに東京駅と違う点は何かありますか?
師匠
2代目の横浜駅の改札口は2階にあった。
小鉄
あっ、ほんとだ。「階上平面図」に改札口が描いてありますよ。
師匠
それと東京駅と違って、東海道本線の列車線、貨物線、京浜電車線に囲まれた三角形の平面に建設された。
小鉄
たしかに、正面は東京駅と同じように横長に見えますけど、平面図で見るとずいぶん変わった形の建物だったんですね。
師匠
跨線橋の配置なども独特だ。
小鉄
駅は正面だけでは判断できないってことですね。
師匠
駅は、建築としての駅の建物だけに注目しがちだが、肝腎の機能は駅の構内を含めた全体のレイアウトにある。
小鉄
なるほど。
師匠
そこが駅の歴史を調べる時の、土木と建築の視点の違いだ。
小鉄
今回の横浜駅も、土木の目線で見ると突っ込みどころがいろいろありますね。
師匠
ある意味では東京駅よりも興味深いぞ。
初期の高架鉄道は、新線として高架線を建設することを目的としていたが、都市の拡大とともに既設の鉄道路線を高架化する高架化工事が行われるようになった。現在では「連続立体交差事業」として各地で行われ、高架化以外にも地下化される場合もあるが、どちらも都市内における踏切の解消を目的とし、安全でスムーズな都市交通を実現することによって、鉄道線路で分断されていた都市の一体化を促す役割を果たした。
常磐線の田端~土浦間は、1896(明治29)年に日本鉄道の土浦線として開業し、のちに隅田川貨物駅を設けて常磐炭の輸送路として機能した。関東大震災などを契機として東京の郊外が都市として発展すると旅客輸送量も急速に拡大し、常磐線の上野~松戸間を電化して電車列車を走らせ、フリーケンシーの向上を図ることなった。さらに、田端方面からの貨物列車と日暮里方面からの旅客列車が合流する三河島駅付近を高架化し、踏切の解消を図ることとした。工事は、鉄道省東京改良事務所により、1936(昭和11)年に完成した。
「三河島大踏切道」と題した絵葉書には、改良工事前の三河島大踏切と、改良工事後の第1三河島架道橋が対比された。三河島大踏切は、三河島駅の東側で尾竹橋通りと交差する場所にあり、自動車や自転車が普及するとともに混雑を極めるようになった。このため、1929(昭和4)年には、門扉を横にスライドする電動式踏切門扉が導入され、警手がその先端に乗って開閉操作を行ったが、下の「改良工事施行前」の写真では複々線の線路と門扉の一部を確認できる。
在来線の高架化工事は、関西の東海道本線神戸市街高架橋、城東線(現在の大阪環状線の一部区間)でも行われたが、本格的に行われるのは、昭和戦後期になってからであった。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年1月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
地平の在来線を高架化する工事はいつ頃から行われていたんですか?
A
はじめの頃の高架鉄道は、新線を建設する場合のみに限られていましたが、1931(昭和6)年に完成した神戸市内市街線第一期工事(東灘~鷹取間)を契機として在来線を高架とする改良工事が行われるようになりました。基本的に在来線に隣接して高架橋を建設し、線路を切り替えて完成します。最初は大都市圏に限られていましたが、現在では連続立体交差事業として全国各地で行われています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
三河島駅には、昇開式の踏切があったんですね。
師匠
今は遮断桿を使う踏切がほとんどだが、かつては昇開式や門扉式などいくつかの種類があった。
小鉄
昇開式って、最近もどこかで見たような気がしますが……。
師匠
関西地方の駅のプラットホームじゃないかな?
小鉄
あっ、大阪駅で見ました。格闘技のリングみたいで、びっくりしました。
師匠
あれは昇降式ホーム柵とか昇降ロープ式ホーム柵などと呼ばれているが、スタイルとしては昇開式の踏切と同じだ。
小鉄
何で普通の扉式にしなかったんですか?
師匠
大阪駅のプラットホームは、通勤形から特急形までいろいろな種類の列車が発着して、それぞれ扉の位置が違うから、ある程度の幅を一度に遮断する昇開式ホーム柵を採用した。
小鉄
たしかに車両によって扉の位置が違いますね。
師匠
昇降式ホーム柵は首都圏でも東急田園都市線のつきみの駅とか相模鉄道の弥生台駅でも使われているぞ。
小鉄
関東にもあるんですね。さっそく見に行きます。
宇土半島の先端に位置する三角(みすみ)西港(完成時は「三角港」)は、明治政府が推進した港湾の近代化計画にそって実現し、宮城県の野蒜(のびる)港、福井県の三国港とともに明治の三大築港事業と称された。三角西港の建設は、オランダ人のアントニー・トーマス・ルベルタス・ローウェンホルスト・ムルデル(Anthonie Thomas Lubertus Rouwenhorst Mulder/1848~1901)の調査に基づいて進められ、1887(明治20)年に開港した。
ムルデルの計画では、道路や鉄道との接続も考慮されていたが、鉄道の接続は後回しにされ、宇土~三角間を結ぶ三角線が九州鉄道によって開業するのは、1899(明治32)年になってからであった。最初の駅は仮駅で、1903(明治36)年に、埋立地の完成とともに現在地へ移転したが、三角西港からは約2kmも離れていた。山と海に阻まれて三角西港への延伸は困難で、三角西港の周辺も貨物施設を設けるための平地に乏しかった。
「延び行く三角港の一部」と題した絵葉書には、三角駅の構内と隣接する三角東港の風景がおさめられた。三角駅に隣接して建設された三角東港は、天草方面への航路の玄関口として機能し、三角西港は鉄道のアクセスがなく、船舶の大型化に対応できなかったため廃れてしまった。他の三大築港事業も、野蒜港は完成間もない頃の暴風雨で損壊し、三国港は堆砂の問題に悩まされ続けた。また、内航重視の内務省と外貿重視の外務省との軋轢や、船舶の急速な大型化などもあって、三大事業は期待された役割を果たすことのないままに終わった。
最初に完成した三角西港の周辺には明治時代の築港による石積みの護岸や水路、道路橋などの遺構が残り、土木学会選奨土木遺産、国重要文化財となったのち、2015(平成27)年には世界遺産「明治日本の産業革命遺産、製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産のひとつとなり、現在に至っている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2023年9月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
明治時代の日本の土木工事を指導したオランダ人はムルデル以外にもいるんですか?
A
オランダは国土の大部分が平坦で軟弱な地盤の低地で、その半分をいわゆるゼロメートル地帯が占めています。このため、オランダでは治水技術が発達し、来日したオランダ人技術者は主に河川や砂防、港湾などの分野の技術指導にあたりました。ムルデル以外にも、コルネリス・ヨハネス・ファン・ドールン(Cornelis Johannes van Doorn/1837年~1906)、ヨハニス・デ・レーケ(デ・レイケとも/Johannis de Rijke/1842~1913)、ジョージ・アーノルド・エッセル(エッシャーとも/George Arnold Escher/1843~1939)など、合計13名が1872年~1909年にかけて来日しました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
三角とか三国とか野蒜とかに大きな港を整備する計画があったんですね。
師匠
幕末には神奈川(横浜)、箱館(函館)、長崎、兵庫(神戸)が開港場となって明治元年には新潟が指定され、外国との貿易が始まったが、それまで千石船を前提としていた日本の港では対応できなかった。
小鉄
それで港の近代化が急がれたんですね。
師匠
「天然の良港」という言葉があるが、港は波浪の影響を受けにくい内海や湾で、船が座礁しないよう水深も確保され、錨を固定しやすい海底地質であることなどが条件になる。
小鉄
港はハードルが高いんですね。
師匠
それで東京の近くの横浜、大阪の近くの神戸が港湾都市として発展することになつた。
小鉄
東京港や大阪港もありますよ。
師匠
東京も大阪も大きな河川の河口近くだったから遠浅で、大規模な浚渫工事ができるようになる大正時代以降に港として整備された。
小鉄
鉄道はイギリス人技師の指導を受けたって聞きましたけど、港はオランダ人技師だったんですか?
師匠
港湾や治水事業では、日本の平地と自然条件が似ているオランダ人技師が活躍した。
小鉄
そういえば「これは川ではない、滝だ!」と驚いたオランダ人がいたそうですね。
師匠
ああ、誰が言い出したかは諸説あるようだが、北陸地方の河川調査をした際に、日本の急勾配河川に驚いたとされている。
小鉄
いくらなんでも「滝」は大げさですよね。
師匠
日本に住んでいると気がつかないが、日本の河川は海外に比べて急勾配だ。平地のオランダではこんな急勾配の河川は無いから、「滝」という表現も大げさでは無いぞ。
小鉄
勾配が緩いオランダの河川の技術では、対応できなくなったってことですか?
師匠
日本の特殊な自然条件が明らかになって、低水工事(低水制)から高水工事(高水制)へと移行した。
小鉄
低水工事?
師匠
河川を利用することを前提とした工事を低水工事、洪水から防御することを優先した工事を高水工事と称している。
小鉄
それでオランダ人技術者も帰国したんですね。
師匠
土木工事は自然を相手にするから、自然条件によって工事の方法も変えなければならない。
小鉄
自分の国でうまくできたけれど、日本では使えなかった技術もあるってことですね。
師匠
外国から導入したけれど、日本で試してうまく使えなかった土木技術もいろいろあるから、そこを深掘りすると何かが見えてくるかも知れないぞ。
東海道本線の大津~京都間は、1880(明治13)年に開業したが、山科盆地を間にはさんでいたため、その南縁を大きく迂回していた。この区間には、延長664.8mの逢坂山トンネルが建設され、最急勾配は25‰であった。このため、箱根越え、関ヶ原越えと並ぶ東海道本線の難所となり、新路線を建設することとなった。
工事は、鉄道院神戸鉄道管理局(のち鉄道省神戸改良事務所)が担当し、1914(大正3)年12月に着工した。新線は、山科盆地の北縁を経由し、延長2325.5mの新逢坂山トンネルと延長1864.8mの東山トンネルを掘削してその中間に山科駅を設け、1921(大正10)年8月1日より新線の使用を開始した。
新線の開業を記念して鉄道省神戸改良事務所が発行した絵葉書には、旧線と新線の線路縦断面図が掲載され、あわせて改良工事の前後の諸元が「両線対照表」として比較された。この表によれば、大津~京都間の線路延長は10哩(約16.1km)から7.2哩(約5.6km)に短縮され、最急曲線は15鎖(約302m)から30鎖(約604m)に、最急勾配は10‰に緩和された。
路線の勾配改良工事は、路線の短絡による到達時間の短縮と、勾配の緩和による牽引定数の増加と速度向上という相乗効果をもたらした。改良工事の完成によって、大津~京都間の所要時間は約30~50分から15分前後に短縮された。東海道本線の勾配改良工事は、さらに丹那トンネルの建設による箱根越えの解消、別線による関ヶ原越えの解消と続き、昭和戦前期にはほぼ現在の姿を整えた。
なお、大津~京都間の線路変更工事によって廃止された旧線のうち、稲荷~京都間の線路敷は、奈良線へ編入して引き続き使用し、現在に至っている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2015年12月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
「大津京都間新旧線路対照図」の見方を教えてください。
A
大津から京都までの線路の縦断面を比較した図で、横軸が水平距離、縦軸が標高を表していて、縦軸の縮尺を大縮尺として勾配を強調しています。地形の断面とトンネルの位置が図示され、下のスケールは上から勾配、哩程(東京起点の水平距離)、標高、曲線半径(R)を示しています。上が大津~京都間の改良工事前の線路縦断面図、下が改良工事後の線路縦断面図で、改良工事によって水平距離が短くなり、勾配も緩くなっていることがわかります。なお、距離の単位はマイルで示されていて、「M」が「マイル(哩):1.6093km」、「C/CH」が「チェーン(鎖):20.12m」、「L」が「リンク(節):201.2mm」という単位になります。また標高はフィート単位(1フィート=0.3048m)で、勾配は分子を1とした単位分数で表されています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
こうして比較すると、大津~京都間の距離が短くなって、勾配も緩くなっていることがよくわかりますね。
師匠
結果として到達間が短くなって、より重い貨物を運べることになる。
小鉄
この時代はメートル単位ではなかったんですね。
師匠
日本の鉄道はイギリス人技師の指導でスタートしたこともあって、最初はマイルを単位に使っていた。
小鉄
いつからメートル法に変わったんですか?
師匠
国としては1921(大正10)年の度量衡法の改正でメートル法に統一することが決まったんだが、なかなか完全実施には至らず、鉄道省では1928(昭和3)年にメートル法による設計示方書が制定されてから徐々に広まった。
小鉄
勾配の単位も今使っているパーミル(‰)ではないですよ。
師匠
勾配の単位も1925(大正14)年の「線路諸標設備心得」の制定までは、単位分数で表していた。
小鉄
ってことは、どの単位を使って設計したかがわかれば、設計した時代が把握できますね。
師匠
歴史的構造物も、メートル単位で寸法を測ると端数が出るが、フィート単位に換算すると切りのいい数値にまとまることがあるぞ。
小鉄
参考図にある東山トンネルの図面も、単位はフィートですか?
師匠
数字の右上の記号がプライム記号「′」だと「フィート」、ダブルプライム記号「″」だと「インチ」を表すことになるから、フィート単位の図面だ。
小鉄
図面の世界も奥が深いですね。
師匠
図面は言葉では表すことができないさまざまな情報が詰まっているから、これを読み解くことが構造物を理解する第一歩だ。
小鉄
師匠もたまにはいいこと言いますね。
師匠
「たまに」は余計だ
日本最初の地下鉄道となった東京地下鉄道は、1927(昭和2)年12月30日に上野~浅草間(現在の東京メトロ銀座線の一部)で営業を開始した。開業前日には、朝香宮鳩彦(やすひこ)親王と竹田宮恒徳親王を招き、会社幹部の案内で試乗が行われた。
「(東洋唯一地下鉄道)地下鉄道内部、向って左北白川若宮(軍服)、朝香宮両殿下」と題した絵葉書には、完成したばかりの1000形電車に乗る両宮家と会社幹部の姿が収められている。絵葉書のキャプションにもあるように、向かって左側に両宮家が座るが、その後方に開業時の社長であった野村龍太郎(元鉄道院技監、満鉄総裁など)の姿が見える。また、右側の奥には初代社長の古市公威(元帝国大学教授、鉄道作業局長官、初代土木学会会長など)の姿があり、根津嘉一郎(東武鉄道社長)、早川徳次(専務取締役/会社設立の功労者で「地下鉄の父」と称される)と続く。
電車は日本車両製造で新製されたが、初の地下鉄用車両として耐火性を重視し、木材を使用せずに当時としては珍しかった全鋼製車両として登場した。内装は一見すると木製のように見えるが、鋼板に木理塗装(木目調の塗装)と呼ばれる特殊技法を用いて温もりを与え、間接照明を白塗りの天井に反射させて照度を確保した。また、吊手はアメリカで用いられていた跳ね上げ式のリコ式が採用され、掴棒(つかみぼう)とともに白色琺瑯引として消毒をし易くし、衛生面にも配慮した。
開業時に用いられた10両の1000形電車のうち、記念すべき1001号は、当時の姿に復元され、現在は地下鉄博物館(東京都江戸川区)で保存・展示されている。また、2017年(平成29)年には電車として初めての国重要文化財に指定された。
(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2020年6月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
鉄道車両も国の重要文化財に指定されているんですか?
A
1997(平成9)年に指定された鉄道博物館の1号機関車が最初で、2023(令和5)年末までに11件の鉄道車両が国の重要文化財に指定されています。文化財の種類としては、土木構造物や建築物が「建造物」、鉄道車両が「美術工芸品」として扱われています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
師匠。この「東京地下鉄道線路略図」を見ると、新橋までは今の銀座線ですけれど、その先は渋谷ではなくて品川へ伸びてますよ。
師匠
ああ、当時は品川をめざしていたんだが、1938(昭和13)年に渋谷~虎ノ門間を結ぶ東京高速鉄道という地下鉄が開業して、さらに翌年1月15日には新橋へ線路を伸ばした。
小鉄
それで銀座線が誕生したんですか?
師匠
ところが両社の新橋駅はやや離れた位置で向き合ったまま、線路は接続していなかった。
小鉄
中途半端ですね。
師匠
一般的には品川延伸を計画していた東京地下鉄道が、渋谷方面へも乗り入れることがダイヤ上難しいと渋ったためとされているが、単に工事の遅れだったとする説もある。
小鉄
「諸説あり」ですね。
師匠
結局、8か月後の9月16日に接続して両社の直通運転が開始された。
小鉄
東京地下鉄道と東京高速鉄道は、その後どうなったんですか?
師匠
1941(昭和16)年に陸上交通事業調整法によって、東京地下鉄道と東京高速鉄道が統合されて、帝都高速度交通営団という組織になった。
小鉄
あっ、今の東京メトロの前の営団地下鉄っていう組織ですね。
師匠
「営団」は戦時中に発足した「官」と「民」の中間的組織で、特殊法人の一種になるが、いわゆる国策会社とも性格が異なっていた。
小鉄
地下鉄以外にも営団があったんですか?
師匠
住宅営団とか農地開発営団などがあったが、終戦直後に連合軍の指令ですべて整理されて、帝都高速度交通営団だけが残った。
小鉄
「営団」ってなんだか団結力が強そうな名前ですね。
師匠
「社員」ではなく「団員」、「入社式」ではなく「入団式」と呼んでいた。
小鉄
明智探偵とか小林少年がいそうですね。
師匠
それは「少年探偵団」だ。小林少年を知ってるってことは、お前さんさては昭和の生まれだな。
小鉄
勇気凛々瑠璃の色~♪