鉄道橋梁は、早い時期から設計の標準化が進められ、特に需要が多かった上路プレートガーダについては「鈑桁定規」(「版桁定規」とも)と称して、明治時代から標準設計が制定された。最初に制定されたのはイギリス人技師によって設計された「作錬式」と呼ばれる錬鉄製の上路プレートガーダの標準設計であった。しかし、1897(明治30)年頃になるとアメリカの設計基準に基づく橋梁が設計されるようになり、さらに1907(明治40)年の鉄道国有化完了にともなって外国製品で占められていた鉄道橋梁も国産化されるようになった。また、1909(明治42)年8月3日付達第680号で、鉄道国有化後に初めて制定した上路プレートガーダの標準設計桁が制定され、標準設計の桁は全国で用いられた。
制定された際の鉄道院の達番号に基づいて「達第680号」、または制定年に基づいて「42年式」などと呼ばれるこの標準設計桁は、アメリカ鉄道技術協会の仕様書に基づいて設計荷重にE33を用い、径間20フィート(6.10m)~径間80フィート(24.38m)の7種類の設計が、鉄道院建設部技術課の技師・太田圓三によって行われた。
当時建設中であった宮崎線(現在の日豊本線・吉都線・吉松~宮崎間の建設線名称)では、第14工区に架かる宮崎線最長の大淀川橋梁に径間70フィートの桁が19連にわたって用いられ、橋長1,433フィート6インチ(436.93m)の橋梁として完成した。「大淀川鉄橋」と題した絵葉書には、同一設計の桁が堂々と連なる姿がおさめられ、国産標準設計が確立した時代を象徴した。(小野田滋)(書き下ろし)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
「設計荷重にE33を用い……」とありますが、何のことですか?
A
設計荷重は構造物の設計にあたって用いる荷重のことで、「どのくらいの力が構造物に加わるか」ということを想定してその値を決め、設計計算を行います。橋梁の設計に用いる設計荷重には様々な荷重が考慮されますが、最も基本となるのは、死荷重(しかじゅう:橋梁およびその付帯物の自重のことで「静荷重(せいかじゅう)」とも)と活荷重(かつかじゅう:「列車荷重」とも)です。
活荷重の値は、その路線を走行する最大重量の列車を想定して決められ、車軸に作用する「軸重」と車軸の配置(車軸相互の間隔)を基本とします。E荷重は、鉄道国有化を契機として国有鉄道で用いる設計荷重の見直しが行われ、1909(明治42)年6月17日付・達第532号でアメリカ鉄道技術協会(AREA)で用いられていたクーパー荷重(クーパー氏荷重、クーパー荷重とも称する)「E33」を採用することとなりました。
クーパーは、アメリカの橋梁技術者のセオドア・クーパー(Theodore Cooper/1839~1919)のことで、末尾の数字は最大軸重を表し、「33」は33000ポンド(約15トン)の最初の2桁を意味しています。また、機関車はテンダ付コンソリデーション型機関車の重連で、等分布荷重の客貨車を牽引することを想定していました。このE33荷重を用いて国有化後最初の標準設計桁として1909(明治42)年8月3日付・達第680号で制定された上路プレートガーダが、大淀川橋梁で用いられたことになります。
さらに、1912(明治45)年2月21日付・達第111号により狭軌用としてE33、広軌用としてE45を用いることとしました。しかし、広軌化計画は中止となったため、1921(大正10)年10月14日付・鉄道省令第2号で「国有鉄道建設規程」の改正があり、主要幹線の設計荷重にE40を用いることとしました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
標準設計を行うメリットは何ですか?
師匠
いろいろあるが、設計の手間を省略できること、安定した品質を確保できること、規格化されているから資材の調達が容易なこと、これらを含めて工事費を低く抑えられることなどかな。
小鉄
いいことだらけですね。
師匠
しかし、メリットもあればデメリットもある。
小鉄
たとえば?
師匠
設計はすべて標準設計にお任せになるから、新しい工夫をしなくなってしまう。
小鉄
難しい計算をしたり、図面を新たに作成する必要もなくなりますね。
師匠
あと、現場の特殊な条件に対して柔軟に対応できないことや、デザインが画一化してしまって象徴性が失われることなどもデメリットかな。
小鉄
たしかに、プレートガーダなんかは、どれも同じに見えますね。
師匠
どれも同じに見えるが、標準設計は時代によって変わるし、現場の条件に応じてアレンジするから、その違いを調べると鉄道橋梁の歴史が見えてくるぞ。
小鉄
違いがわかるようになれますかね。
師匠
お前さんの努力次第だな。
小鉄
ダバダ~、ダバダ~♪
小田急電鉄は、戦時体制のもとで東京横浜電鉄に統合され、東京急行電鉄新宿営業局と称したが、1948(昭和23)年に分離されて再び小田急電鉄として新たなスタートを切った。新体制のもとで取組まれたプロジェクトのひとつが、温泉地である箱根湯本への直通運転であった。東京から箱根湯本までは、小田急電鉄の終点である小田原で箱根登山鉄道に乗り換える必要があった。小田原~箱根湯本間の距離は約6.1kmであったが、小田急電鉄の軌間は1,067mm、箱根登山鉄道の軌間は1,435mmであったため、直通運転ができなかった。
そこで、小田原~箱根湯本間を3線軌条化し、箱根登山鉄道の小田原始発を維持しつつ、小田急電鉄の箱根湯本への乗り入れを実現することとなった。3線軌条化にあたっては、単にレールを1本増やすだけではなく、両社の車両限界や建築限界の違いによる施設の改良、3線軌条用の分岐器の設計など、いくつかの課題を克服しなければならなかった。
小田急電鉄の箱根湯本乗り入れは1950(昭和25)年8月1日より開始され、1957(昭和32)年には初代ロマンスカーとして知られる3000形電車(「SE車」とも)がデビューして人気を集めた。今回紹介する絵葉書には、早川沿いの3線軌条区間を通過する3000形電車がおさめられたが、共用レールを山側としたことが理解できる。
3線軌条による乗り入れは、箱根登山鉄道が小田原始発を全廃して箱根湯本始発のみとした2006(平成18)年まで続けられたが、その後は2線軌条化され、3線軌条が残るのは箱根登山鉄道の車庫がある入生田(いりうだ)~箱根湯本間のみとなった。また、箱根登山鉄道も2024(令和6)年の小田急グループ再編によって小田急箱根の鉄道線となり、現在に至っている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2025年11月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
日本で3線軌条を使っている区間は、入生田~箱根湯本間のほかにもありますか?
A
北海道新幹線の青函トンネル区間、 秋田新幹線(奥羽本線・田沢湖線)の神宮寺~峰吉川間、京浜急行逗子線の金沢八景~神武寺間があります。どれも、軌間1,435mmと1,067mmを共用しています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
今回は、小田急の初代ロマンスカーの登場ですね。
師匠
絵葉書に写っているのは、1957(昭和32)年に登場した小田急3000形電車だ。今でも海老名にあるロマンスカーミュージアムで保存されているぞ。
小鉄
ロマンスカーミュージアムの写真を見ると、ヘッドマークのところに「試運転」って書いてありますけど、何の試運転ですか?
師匠
1957(昭和32)年9月に国鉄の東海道本線を借りて高速試験が行われたんだが、9月27日に行われた三島~沼津間の試験で当時の狭軌世界最高速度・145km/hを達成した。その時のヘッドマークを復刻したものだ。
小鉄
あっぱれですね。
師匠
2023(令和5)年には日本機械学会が選定する「機械遺産」にも認定されたぞ。
小鉄
3000形電車が走っているところ、見たかったですね。
師匠
映画に登場しているから、今でも動画配信やDVDで見られるぞ。
小鉄
たとえば?
師匠
いくつかあるが、代表的な映画は、成瀬巳喜男監督の『鰯雲』(いわしぐも)だな。1958(昭和33)年の作品だ。
小鉄
どんなシーンですか?
師匠
農家の初治(小林桂樹)とみち子(司葉子)の二人が牛を使って賃鋤(ちんすき)と呼ばれる賃金を貰って他人の田圃を代掻きする農作業をしていて、そのかたわらをタイフォンを吹鳴しながら颯爽と3000形電車が走り去る。
小鉄
まさに(ドボ鉄第95回)の「学園前の駅」でも紹介した、ザ・ピーナッツとボニージャックスの「ピポ~の小田急」の世界ですね。小田急、小田急、ピポピポ~♪
師匠
泥だらけになりながら黙々と農作業をする二人が伝統的な暮らしを守り続ける地元の人々を表していて、3000形電車が新しい時代の到来を象徴している。
小鉄
ほかにありますか?
師匠
駅前シリーズの『喜劇・駅前団地』という久松静児監督の映画にも、汽笛を吹鳴しながら百合ヶ丘駅を通過するシーンで登場するぞ。
小鉄
人気者だったんですね。
師匠
どの作品にも共通しているのは、東京の近郊に新しい時代の波が押し寄せつつあることテーマとして描いている。このコントラストがこれらの映画の見所で、高度成長時代の東京の郊外、特に私鉄の沿線においては……
小鉄
師匠のウンチクが長くなりそうだから、ここらで失礼します。
モノレールは、軌道桁にぶら下がる懸垂式と、軌道桁を跨ぐ跨座式に大別されるが、跨座式を鉄道として日本で初めて実用化したのは1962(昭和37)年に開業した名古屋鉄道ラインパークモノレール線であった(遊戯施設では1960(昭和35)年に開業した船橋ヘルスセンター(千葉県船橋市)のモノレールが日本初)。
跨座式は西ドイツのアルウェーグ社が開発したゴムタイヤ式やアメリカのロッキード社が開発した鉄輪式などいくつかの種類があった。アルウェーグ社と契約を結んだ日立製作所では、その最初の実用化路線として、名古屋鉄道犬山線の犬山遊園駅を起点とする名古屋鉄道ラインパークモノレール線を手がけることとなり、1962(昭和37)年3月21日に開業した。ラインパークは、1980(昭和55)年にモンキーパークに改称したため、路線名もモンキーパークモノレール線とした。
絵葉書には、軌道桁を跨ぐモノレール車両がおさめられるが、軌道桁は鉄筋コンクリート製で、路線の諸元は最急勾配97‰、最小曲線半径150m、実線路延長1km394m(営業キロは1.2km)、全線単線であった。また、車両は当時としては珍しいアルミ合金製とし、3両固定編成を2編成用い、1編成長は30.8m、定員195名で、日立製作所笠戸工場で製造された。
アルウェーグ式の跨座式モノレールは、名古屋鉄道における実績を踏まえて、さらに1964(昭和39)年に開業した東京モノレールで導入された。跨座式モノレールのパイオニアであった名鉄モンキーパークモノレール線は2008(平成20)年12月27日限りで廃止されたが、跨座式モノレールは多摩都市モノレール、大阪モノレール、北九州高速鉄道、沖縄都市モノレールでも採用され、現在に至っている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2025年7月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
跨座式と懸垂式の特徴を教えてください。
A
跨座式は、軌道桁の構造が単純で、橋脚も小規模となるため、懸垂式に比べるとコストも安く済みますが、降雪があると軌道桁に雪が積もるため走行できなくなるという欠点があります。懸垂式は、跨座式よりも急曲線が可能で、降雪の影響を受けにくいという特徴がありますが、車両を懸下するために大規模な構造物を必用とします。日本のモノレールは、1972(昭和47)年に制定された都市モノレールの整備の促進に関する法律に基づいて整備が進められており、適用される都市の地形条件や輸送量に応じて跨座式(日本跨座式)か懸垂式(サフェージュ式)のどちらかを用いています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
跨座式モノレールを日本で最初に実現したのは、船橋ヘルスセンターのモノレールだったんですね。
師匠
ジェットコースター、モノレール、明るい笑顔、チョンパ♪
小鉄
何ですか、その変な唄は?
師匠
船橋ヘルスセンターのCMソング「長生きチョンパ」だ。楠トシエの唄だぞ。
小鉄
かっぱっぱ、ルンパッパ、黄桜~♪の人ですよね。
師匠
船橋ヘルスセンターは1977(昭和52)年に閉館してしまったから、今では記憶がある人も少なくなってしまったな。
小鉄
総合レジャーランドの草分けですよね。
師匠
なにしろ温泉からプール、ジェットコースター、人工スキー場、サーキット、飛行場まで揃っていた。
小鉄
そう言えば、ドボ鉄第99回の奈良ドリームランドも跨座式のモノレールでしたよね。
師匠
あれは鉄車輪を使っていた。ドボ鉄第161回の姫路市モノレールも鉄車輪だった。
小鉄
同じ跨座式でも違ってたんですね。
師匠
ゴムタイヤを使った跨座式モノレールは、犬山モノレールに続いて東京モノレール(ドボ鉄第138回)が登場して、大阪万博モノレール(ドボ鉄第175回)で日本懸垂式の基本設計が確立した。
小鉄
系譜がつながりますね。
師匠
今回は紹介していないが、製造にあたった山口県の日立製作所笠戸工場でも名鉄モノレールの車両が保存されているぞ。
小鉄
日立製作所にとっても、重要なプロジェクトだったってことですね。
師匠
モノレールも動物園や遊園地からスタートしていたから、当時は遊戯施設のように考える人も多かったが、ひとつひとつの課題を克服して立派な都市交通機関に育てたことになるな。
小鉄
技術者の粘り強さですね。
師匠
お前さんは、まだまだ粘り強さが足りんぞ。
小鉄
そんなことないですよ。師匠のウンチクにいつも粘り強くつきあってあげてるじゃないですか。
師匠
群馬県と長野県の県境に位置する碓氷峠は、66.7‰という急勾配を克服するため、ドイツの登山鉄道などで用いられていたラックレール式鉄道のうちアブト式(「アプト式」とも)を採用して建設され、1893(明治26)年に開業した。はじめは、蒸気機関車を用いたため煤煙が問題となり、排煙幕を設置するなどの対策が施されたほか、各トンネルには「隧道番」と称する幕引係が配置された。
このため、横川~軽井沢間を無煙化することとなり、碓氷川の川べりに火力発電所が建設され、直流600V、第三軌条方式による電気鉄道に改良された。そして、ドイツから輸入した電気機関車を用いて、1912(明治45)年から電気運転が開始されたが、これは都市内の鉄道(路面電車など)を除く幹線鉄道としては初めての電化であった。
「碓氷電気機関車丸山発電所」と題した絵葉書の後方には、横川方に設けられた煉瓦造の丸山変電所の建物が2棟写り、その傍らを貨物列車が通過している。手前には、中央に設けられたラックレールの起点(エントランス)が確認でき、線路の脇には集電のための第三軌条が敷設されている。
ラックレールは、1963(昭和38)年に廃止され、通常の粘着運転による新線に付け替えられたが、1997(平成9)年の北陸新幹線開通とともに横川~軽井沢間は廃止された。煉瓦造の丸山変電所は、日本の近代化遺産としての価値が認められ、アーチ橋やトンネルとともに国指定重要文化財となり、現地で保存された。これらの近代化遺産は、地元の観光資源として活用することとなり、鉄道の廃線跡は遊歩道として整備され、1999(平成11)年には横川機関区の跡地を利用して碓氷峠鉄道文化むらがオープンした。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2012年10月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
なぜ丸山変電所の建物は、2棟に分かれていたんですか?
A
横川~軽井沢間の電化にあたっては、火力発電所を横川駅から約400m上流方の霧積川河畔に設けて、三相交流6,600Vを横川方の丸山変電所と軽井沢方の矢ヶ崎変電所に送電しました。変電所にはそれぞれ2棟の建物が設けられ、蓄電池室と機械室として用いました。
蓄電池室には、312個(52個×6列)の蓄電池が並べられましたが、この時代は電力の安定供給が難しかったため、負荷を平準化させる方法として蓄電池を補助的に用いました。また、下り勾配の運転時には電力は必要ないため回転変流機によって充電し、発電所に対する負荷を軽減するとともに機器類の故障時に備えました。もうひとつの機械室には、変圧器(2基)、回転変流機(2基)、昇圧機(2基)、操作盤などの機器類が設置されました。変圧器によって三相交流6,600Vを二次電圧の六相交流240V(25サイクル)に変換した後、直流600Vに変圧して第三軌条に供給しました。
蓄電池室と機械室は一見するとほぼ同じ建物のように見えますが、よく見ると蓄電池室の屋根が越屋根(こしやね:採光や換気のために大屋根の上に小さな屋根を重ねた屋根)となっています。これは蓄電池室内で劇薬の硫酸を扱うための換気対策で、窓の上下にも開閉式の通風口を設けました。また、床も煉瓦とアスファルトを用いて耐酸性を強化したほか、金属の露出部には耐酸塗料を塗りました。蓄電池室を備えた変電所は、その後も1914(大正3)年の京浜線電化の際に設置された大井町変電所、川崎変電所、永楽町変電所でも採用されたほか、私鉄でも用いられました。しかし、蓄電池に用いる鉛板の交換などに多大な保守費を要したことや、回転変流器の増設とともにその必要性も乏しくなったため、1928(昭和3)年に撤去されて機械室へ改装・転用されました。
ちなみに、電気学会が認定する「でんきの礎(いしずえ)」では、2026(令和8)年2月に「鉄道電化の黎明期を支えた蓄電池の利用」として、JR東日本、京浜急行電鉄、京阪電気鉄道の3社を対象に顕彰しましたが、これは蓄電池を用いた変電所に対する「こと」(出来事)というカテゴリーでの評価で、電気学会のホームページではその具体例として碓氷峠の丸山変電所を紹介しています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
「排煙幕」ってありますけど、何のことですか?
師匠
横川~軽井沢間で最初に走った機関車は、すべて蒸気機関車だった。
小鉄
最初から電気機関車ではなかったんですね。
師匠
急勾配の上り坂を蒸気機関車が全力で登ったから、狭い断面のトンネル内に蒸気機車の煤煙が充満してしまった。
小鉄
今回も当時の写真が紹介されてますね。まるで煙突の中をくぐり抜けているような状態ですね。
師匠
このため、機関士は姿勢を低くして手拭いで顔を覆い、手を上げながら運転を続けなければならなかった。また、機関車乗務員の窒息による事故なども発生した。
小鉄
命にかかわりますね。
師匠
そこで、隧道の入口に引幕式の排煙幕を設けて、現地に住み込みの「隧道番」を配置して幕引きの操作を行った。
小鉄
どうやって操作するんですか?
師匠
列車がトンネル内に入ったことを確認して、隧道番が幕を引いて外気を遮断する。そうすると、列車の後方が減圧されて自然に煤煙が列車の後方に溜まる。トンネルを列車がくぐり抜けたら幕を開けて自然換気で煙を逃がした。
小鉄
簡単な原理ですね。
師匠
一見簡単そうに思えるが、相当な風圧が発生するから、幕を閉める操作やタイミングが難しく、隧道番の殉職や負傷が発生してしまった。
小鉄
乗務員も隧道番も命がけだったんですね。
師匠
その後も機関車の煙突の形を変えたり、重油燃焼器を用いるなどの工夫も行われたんだが、結局、横川~軽井沢間を電化して、電気機関車を導入することとなった。
小鉄
師匠、今頃になって気がついたんですが、絵葉書のキャプションが「丸山発電所」になってますよ。
師匠
それは明らかに「丸山変電所」の間違いだな。
小鉄
発電所と変電所って、何が違うんでしたっけ。
師匠
発電所は電気を発生させる場所で、変電所はそれを必要に応じた電圧に下げたり、交流電気を直流電気に変換する役割がある。
小鉄
つまり、発電所の下にいくつかの変電所が設けられるってことですね。
師匠
碓氷峠の電化では、横川に火力発電所があって、丸山と矢ヶ崎に変電所を設けた。
小鉄
キャプションをつけた人は、変電所と発電所の違いがわかってなかったってことですね。
師匠
お前さんも、ワシが教えるまではわかってなかったはずだぞ。
港湾地区は、海運と鉄道輸送の結節点として、特に貨物輸送と関わりが深く、また工場や倉庫群などの貨物輸送を含めて「臨海鉄道」「臨港鉄道」などと呼ばれる鉄道が発達した。臨海鉄道の建設は、高度成長時代に各地に設けられた新産業都市や臨海工業地帯の形成が契機となったが、その原型が、かつての「海陸連絡線」であった。
神戸港では、築港工事にあわせて神戸海陸連絡線を建設することとなり、1902(明治35)年に東海道本線の住吉~三ノ宮間にあった灘信号所(のち東灘駅を経て現在の摩耶駅)から分岐し、小野浜(のちの神戸港)駅へ至る延長3.4kmの貨物専用鉄道の建設が開始された。沿線はすでに市街化し、阪神国道や阪神電車などとも交差するため、全線を高架鉄道として平面交差を避けたが、当時は鉄道高架橋の技術が確立していなかったため、盛土を基本として道路との交差部のみに鋼桁を用いた。
神戸海陸連絡線は、1907(明治40)年8月20日に開業したが、「神戸海陸連絡線開通紀念」と題した絵葉書には、完成したばかりの架道橋(道路との交差部を跨ぐ陸橋)と蒸気機関車が牽引する貨物列車の姿が紹介された。このうち、橋本陸橋とある写真には、その下をくぐる阪神電車の姿もあり、東西に延びる幹線道路や鉄道と立体交差をしながら東海道本線と港を結んだこの鉄道の特徴を表している。
神戸海陸連絡線はさらに湊川へ延長して神戸臨港線として機能したが、2003(平成15)年に廃止された。廃線跡は、2016(平成28)年に「JR貨物臨港線廃線跡散歩道」として整備され、現在に至っている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2025年10月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
神戸港線は、貨物列車だけが使用して、旅客列車は運転しなかったのですか?
A
ボートトレインと呼ばれる、港と市内を結ぶ列車が運転されました。ボートトレインについては「ドボ鉄・第65回」の横浜港駅でも解説しましたが、外国航路の発着に合わせて、港まで運転される旅客列車のことです。神戸港の場合は、京都、大阪を経て神戸臨港線を経由して神戸港の間までを結んでいました。神戸港のボートトレインは、1924(大正13)年に運転を開始しましたが、1940(昭和15)年頃に休止となり、戦後は復活しませんでした。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
絵葉書の左上にスタンプみたいなものが押してあるんですけど、何て書いてあるんですか?
師匠
開業年月日の「40.8.20」という数字と、「神戸」「海陸連(聯)絡」「鉄道開通」「紀念」の文字を図案化している。
小鉄
あっ、ほんとだ。よく見るとそう書いてありますね。
師匠
記念スタンプは割合早い時期から流行っていて、鉄道でもおなじみの駅スタンプは1931(昭和6)年に福井駅で始まったのが最初と言われている。
小鉄
御朱印帳みたいなものですかね。
師匠
日本は御朱印帳の文化があったから、なじみやすかったんだろうな。
小鉄
ところで「番宣」になりますけど、いつの間にか「ドボ博」に「ドボ博MAP」の機能が追加されて便利になりましたね。
師匠
「オンライン土木博物館<ドボ博>が提供する、土木の総合マップ」のことだな。
小鉄
「ドボ鉄」にも「ドボ鉄MAP」がありますけど、直接リンクしていなくて不便でした。
師匠
「ドボ博MAP」は、「ドボ博」「川展」「ドボ鉄」だけではなく「土木学会デザイン賞」などで取り上げたコンテンツが、地図上でクリックすると簡単に見られるから便利だぞ。
小鉄
旅先や出張先で「寄道したいけどこの近くに何かないかな?」という時にも使えますね。
師匠
お前さんは寄道ばかりしてるからな。
小鉄
そんなことないですよ。寄道ばかりは師匠の方でしょ。
師匠
何を言い出すんだ。たまには仕事も……じゃなくて、ちゃんと仕事もしているぞ
山手線の池袋~田端間は、日本鉄道豊島線として建設が進められたが、1901(明治34)年8月8日の定時株主総会で「山手線」の名称が正式に与えられ、以後、現在までこの名称が継承されている。駒込~田端間には道灌山(どうかんやま)トンネルが建設されたが、将来の輸送量の増加を予見して、当時としては珍しい複線断面で建設された。
1903(明治36)年に池袋~田端間が開業した時点では単線運転であったが、1909(明治42)年に電化し、さらに翌年には複線化された。山手線複々線化工事の記念絵葉書では、「駒込田端間線路」の「𦾔(旧)」として複線で使用される道灌山トンネルの駒込方の坑口がおさめられ、「改良後」として新設された電車線と中里トンネルの準備工事の様子がおさめられた。
山手線の複々線化工事は、客貨を完全に分離するための工事として行われ、品川~田端間の線路を4線として従来の路線を貨物線(汽車線2線)とし、その外側に旅客線(電車線2線)を増設した。これにより、並走していた貨物線と旅客線は、駒込~田端間で完全に分岐し、貨物線は新設された中里トンネルをくぐって上中里方面(田端操車場の北側あたり)へと至り、旅客線は田端方面へ至ることとなった。
道灌山トンネル付近は山手線複々線化工事の最後の区間として1923(大正12)年に起工し、関東大震災をはさんで1925(大正14)年に竣工した。道灌山トンネルは、複々線化工事の竣功後も、貨物線のトンネルとしてしばらくの間は使用され続けたが、1928(昭和3)年の中里トンネルの使用開始とともにその役割を終え、廃線となった。
こうして、中里トンネルのルートは、山手線と東北線を短絡する貨物専用線として機能したが、2001(平成13)年に運転を開始した湘南新宿ラインによって旅客線としても用いられるようになり、現在に至っている。また、廃止された道灌山トンネルの一部は現在も法面(のりめん)に露出しており、かつてこの場所にトンネルが存在していたことを示している。
(小野田滋)(書下ろし)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
なぜ道灌山トンネルは複線断面で中里トンネルは単線並列なのですか?
A
複線区間に鉄道トンネルを設ける場合、複線断面1本で建設するか、単線断面のトンネルを並べて2本建設するかは、両方の選択肢があります。工事費では、一般に複線断面で建設した方が安く済みますが、大きな断面のトンネルは、導坑と呼ばれる小さい断面のトンネルを小分けに掘りながら大きな断面に拡げるなど、工事が複雑になります。これに対して、単線断面トンネルは掘削する断面積も小さくなるので、それだけ早く掘削でき、地質が悪い場合でも周囲の地盤への影響を最小限に抑えることができるため、単線断面のトンネルを並列させる場合もあります。また、土被り(どかぶり:地表からトンネルまでの深さ)が浅い場合は小断面のトンネルほど地表面への影響が少なくなりますから、中里トンネルのように人家の直下でトンネルを掘る場合には単線並列が適しています。あと、単線区間を複線化する場合は、一般に単線並列トンネルとなりますが、新しいルートに複線断面のトンネルを掘る場合もあります。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
本文に「廃止された道灌山トンネルの一部は現在も法面に露出しており」ってありますけど、どの部分が残ってるんですか?
師匠
トンネルの両側にある壁柱の上部の、笠石部分だ。
小鉄
あっ。古い写真と比べると、確かに同じ形をしてますね。
師匠
位置から判断して、田端方の坑口だろう。
小鉄
トンネルは、地中に埋まったままかもしれませんね。
師匠
その可能性は高いが、工事で掘るような機会でもないと、確認は難しいな。
小鉄
この「豊島線道灌山隧道図」という図面は、どこにあるんですか?
師匠
山口市教育委員会が所蔵している秋本春三鉄道資料の中にある。
小鉄
何で山口市にあるんですか?
師匠
この図面を所蔵していた秋本春三は、山口県の小郡(おごおり)の出身で、明治のはじめに東京へ出て日本鉄道の工事などで活躍した。
小鉄
地元の人なんですね。
師匠
その後、地元に戻って小郡町長や山口県議会の副議長などを務めた人物だ。
小鉄
そう言えば、むかし「小郡」って駅がありましたよね。
師匠
小郡町が山口市に合併されることを機会に「新山口」に改称した。もう20年以上も前の話だぞ。
小鉄
平成時代のことですね。
師匠
それで思い出したが、新山口駅の周辺には「小郡維新」「小郡明治」「小郡大正」「小郡昭和」「小郡令和」という町名が揃っているぞ。
小鉄
それは奇跡ですね。
師匠
新山口駅に改称したことで山口市の玄関口となり、明治維新ゆかりの都市として駅周辺の区間整理事業が行われ、「まちおこし」の取り組みの中で名付けられた。
小鉄
昔からある地名ではないんですね。
師匠
鉄道も「SLやまぐち号」から新幹線まで揃っているから、秋本春三さんが遺した資料とあわせれば時代がつながるぞ。
小鉄
師匠も、たまにはいいこと言いますね。
師匠
「たまに」は余計だ