1970(昭和45)年3月~9月に、大阪の千里丘陵で開催された日本万国博覧会では、広大な会場内を移動するための交通機関として、モノレールが採用された。万博開催期間のみ限定ではあったが、地方鉄道法に基づいて日本万国博覧会協会会場内循環線として免許を取得して建設され、183日間の会期中に3,351万人(1日平均約18万人)の観客を輸送した。
それまでのモノレールは、遊園地内の遊戯施設や鉄道駅と遊園地を結ぶ短い路線などがほとんどで、本格的な都市交通機関として用いられたのは東京オリンピックにあわせて開業した東京モノレールが最初であった。また、多くは外国の特許に依存していたため、様々な制約があった。
交通機関としてのモノレールの本格的な普及をめざすため、1964(昭和39)年に日本モノレール協会が設立され、運輸省の委託により「都市交通に適したモノレールの開発研究」の検討を開始し、1968(昭和43)年には跨座式モノレールの標準設計として日本跨座式モノレールの成案が完成した。検討にあたっては、アルウェーグ式の東京モノレールをベースとし、ゴムタイヤによる走行方式を用いた。台車は2軸ボギー式を採用し、床面をすべて同一平面として一般の電車の設計に近づけた。
協会では日本万国博覧会の観客輸送にこの日本跨座式モノレールを採用するよう働きかけ、延長4.3kmの会場内環状線が完成した。絵はがきには、お祭り広場と太陽の塔を背景として走るモノレールの姿がおさめられ、ボギー式台車を用いた日本跨座式モノレールの特徴を確認できる。
万博のモノレールは、無人運転方式を導入するなど未来の都市交通の姿を示し、日本跨座式モノレールの基本設計を確立した。日本跨座式モノレールはその後、北九州高速鉄道(1985年開業)、大阪モノレール(1990年開業)、多摩都市モノレール(1998年開業)、東京ディズニーランド舞浜リゾートライン(2001年開業)、沖縄都市モノレール(2003年開業)で用いられたほか、海外でも中国重慶市の重慶軌道交通(2004年開業)、アラブ首長国連邦ドバイのジュメイラ・モノレール(2009年開業)で用いられ、現在に至っている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2025年9月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
万博モノレールの概要を教えてください。
A
路線は、シンボルゾーン、外国展示館、国内展示館の外周を1周し、7箇所の駅(中央口駅、エキスポランド駅、東口駅、日本庭園駅、北口駅、西口駅、水曜広場駅)を設けました。軌道はすべて単線、最急勾配は55‰、最小曲線半径は60mで、車両は4両固定編成(定員540名/編成)×6編成が製造され、単線・反時計回りで循環運転を行いました。1周の所要時間は約15分で、最高速度は50km/h、運転間隔は2分30秒~3分でした。運転は自動運転により行われ、前方確認と扉操作を行う乗務員のみの1人乗務で、営業管理は日本万国博覧会協会から東急電鉄に委託されました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
ドボ鉄138回で紹介した東京モノレールも跨座式ですけど、日本式ではないんですか?
師匠
お前さんは、東京モノレールに乗ったことがあるかな?
小鉄
羽田空港へ行く時によく使いますよ。
師匠
室内の様子で何か気がつかなかったか?
小鉄
そういえば、車体の前後に台があって、荷物置場で使ってますけど。
師匠
台の役割を知ってるか?
小鉄
荷物置場でしょ。空港へ行く人は荷物をたくさん持ってるから、低い位置に荷台があると便利ですよね。
師匠
たしかに荷台として使っているが、あそこはモノレールの台車が入っているタイヤハウスの部分だ。
小鉄
?
師匠
跨座式モノレールは桁を跨いで車体を載せるから、床下に動力装置を載せる必要がある。
小鉄
普通の電車も動力装置は床下だから、同じですよね。
師匠
それに電気を受け取るための集電装置も床下だ。
小鉄
そういえば、モノレールにはパンタグラフが無いですよね。
師匠
今ごろ気がついたのか。
小鉄
どこから電気をもらってるんですか?
師匠
ドボ鉄161回の「姫路市営モノレール」でも「軌道桁と台車の展示」という写真で紹介したが、軌道桁の側面に電気を通す剛体架線があって、台車の集電靴(しゅうでんか)と呼ばれるコレクターシューでこれをこすりながら電気をもらっている。
小鉄
モノレールの床下は、いろいろと複雑なんですね。
師匠
だから東京モノレールでは、床上を凸型にして台車の一部をここに収めたが、日本式モノレールはこれをコンパクトに収めて床面を平らにした。
小鉄
いかにも日本らしい工夫ですね。
師匠
日本は、世界的に見てもモノレールが普及している国だが、そのきっかけとなったモノレールが万博で実用化された日本式モノレールということになるかな。
小鉄
これですね。今見てもカッコイイですね。
師匠
製作にあたっては、当時の国鉄鉄道技術研究所や車両設計事務所のスタッフが監修にあたったから、リアルな模型に仕上がった。1/20スケールで、3両編成が半径2mの路線を周回した。
小鉄
師匠はエキスポ70に行きましたか?
師匠
当時はまだ名古屋で中学生をしていたが、二回ほど行った。三波春夫の「世界の国からこんにちは」は今でも歌えるぞ。こんにちは~♪こんにちは~♪……
小鉄
師匠の思い出話しが長くなりそうなんで、今日はこれで失礼します。
小田原と箱根を結ぶ小田急箱根鉄道線は、1888(明治21)に開業した小田原馬車鉄道を起源とする。開業時は国府津~小田原~湯本(現・箱根湯本)間を結び、1900(明治33)年には電化されて関東では2番目(全国では4破線目の)の電気鉄道となり、小田原電気鉄道と改称した。その後、1912(大正元)年に箱根湯本~強羅間の建設に着手し、延長8.9kmで標高差445mという難所を克服するために、日本の粘着式鉄道では最急となる80‰の勾配を採用した(‰(パーミル)は勾配を表す単位として鉄道で用いられ1000mで登る高さを数値で表し「80‰」は水平距離1000mで高さ80mを登ることになる)。また、出山信号場、大平台駅、上大平台信号所場の3箇所にスィッチバックを設けた。会社は日本電力を経て1928(昭和3)年に箱根登山鉄道として独立したが、2024(令和6)年の小田急グループ事業再編により、小田急箱根の鉄道線となり現在に至っている。
「箱根登山電車(出山スイッチ、バアク、ニ於ケル電車)」と題した戦前の絵葉書には、スィッチバックの出山信号場を進行する登山電車の姿がおさめられた。線路の左右には、「上リ十二、五分ノー」「下リ十二、五分ノー」と書かれた勾配標が建植されているが、これは「12.5分の1勾配」(垂直高さ1mを登るために12.5mの水平距離が必要/1÷12.5=0.08=80‰)という意味で、当時の鉄道勾配は、パーミルではなく、高さ1に対する水平距離を分母とする標記が一般的であった。
箱根湯本~強羅間は、1919(大正8)年に開業し、さらに1921(大正10)年に強羅~早雲山間の鋼索線(ケーブルカー)が完成し、戦後に開通した箱根ロープウェイによって芦ノ湖へと達した。小田急箱根鉄道線は、その歴史的価値が認められ、全線が2007(平成19)年の土木学会選奨土木遺産に選定されたほか、1999(平成11)年には早川橋梁(通称・出山鉄橋、東海道本線天竜川橋梁のトラスを転用)が国登録有形文化財に登録された。そして、新春の駅伝、梅雨のあじさい、秋の紅葉など年間を通じて観光客が絶えない天下の険の交通機関として、今もシェルパの役割を果たし続けている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2010年2月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
鉄道が急勾配を登るためには、どんな工夫がありますか?
A
車両側と地上設備側の両方で工夫されています。車両側では、複数の機関車を連結した重連運転や、補機と呼ばれる後押しの機関車を増結する方法があるほか、蒸気機関車ではマレー式蒸気機関車やシェイ式蒸気機関車など勾配用の特殊な機関車も用いられました。地上設備側では、スイッチバックやループ線などがあります。また、車両側と地上設備の両方が関わる方法としては、ラックレール式鉄道やケーブルカーの採用があります。一般の鉄道では35‰がひとつの目安になりますが、リニア駆動式の地下鉄では50~80‰、ラックレール式鉄道では250‰、ケーブルカーでは700‰まで可能とされています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
勾配はよく「こう配」って書かれますけど、何で漢字を使わないんですか?
師匠
ああ、それは「勾」が常用漢字に無かったからだ。
小鉄
常用漢字って時々聞きますけど、何のことでしたっけ?
師匠
常用漢字は、法令、公用文書、新聞、雑誌、放送など、一般の社会生活で使う漢字の目安で、常用漢字表として告示されている。
小鉄
強制ではないんですね。
師匠
あくまでも目安だが、文化審議会で答申されて内閣告示されるから、それなりに重みがある。特に法令や官公庁の公文書、義務教育で習う漢字、報道関係の用語などは常用漢字を基準としている。
小鉄
でも鉄道用語は関係なさそうですけど。
師匠
日本国有鉄道の時代は、国の鉄道として「鉄道公用文」を定めて常用漢字を用いることを原則としていた。
小鉄
「勾」は常用漢字に無かったってことですか?
師匠
その通りだが、「勾」は2010(平成22)年の改定で追加されて、常用漢字として使えるようになった。
小鉄
よかったですね。
師匠
しかし、今でも常用漢字を使えない鉄道用語がいくつかある。
小鉄
たとえば?
師匠
「橋梁」は「梁(はり)」の字が常用漢字に無いから「橋りょう」、「隧道」は「ずい道」、「牽引」は「けん引」、「転轍機」は「転てつ機」と書き表される。
小鉄
たしかに文献によっては「橋りょう」って書かれていたりしますね。
師匠
「橋梁」は「梁」の字に構造としての意味が含まれているから、専門家ほど「橋梁」の字にこだわったという話もある。
小鉄
たしかに「橋」の構造の基本は「梁」ですからね。
師匠
一般に使われる漢字も時代によって変化しているから、そのうち「勾」のように追加されるかもしれないぞ。
小鉄
そういえば、当用漢字ってのもありましたよね?
師匠
当用漢字は昭和の時代で終わっておる。1986(昭和61)年に改定されて常用漢字となった。
小鉄
歳がバレますね。
日本の鉄道は、軌間1067mmを基本として建設が進められたが、のちに一部の私鉄や新幹線では1435mmが採用された。また、1067mm 未満の狭軌も用いられ、「軽便鉄道」と総称された。軽便鉄道は一般の鉄道に比べて輸送力に乏しかったが、簡易な規格で鉄道輸送を実現できるため、地方鉄道や産業鉄道などで用いられた。
1911(明治44)年に設立された宇和島軽便鉄道もそのひとつで、軌間762mmの狭軌を用いた。同社は1912(大正元)年に宇和島鉄道と改称の後、1914(大正3)年に宇和島~近永間を開業させ、さらに1923(大正12)年には近永~吉野(現在の吉野生)間が開業した。「窓峠隧道北面」と題した絵葉書には、窓峠(まどのとう)トンネルの周囲に大勢の人々が集まり、眼下を通過する列車を見守っている。右側には工事用とおぼしきトロッコの線路が写り、法面(のりめん)も素地(そじ)のままなので、トンネルが完成して軌道の敷設が終わり、試運転を行っている際の写真と推察される。また、トンネルのパラペット(胸壁)には、「人工奪天険」と刻まれた扁額(へんがく)が掲げられ、最大の難所を克服した喜びが記された。
宇和島鉄道は、鉄道省による予讃線の建設が進むとともに、1933(昭和8)年に国有化され、宇和島線となった。国鉄買収後も施設や車両は軽便鉄道のまま使用され続けたが、北宇和島~卯之町間が予讃線として開業すると、旧宇和島鉄道の区間も762mm→1067mmに改軌され、同時に一部の区間を新線に切り替えて、窓峠トンネルも廃止された。
宇和島線の吉野生以南は、1953(昭和28)年に県境を越えて江川崎までが開業し、さらに1974(昭和49)年には中村線(現在の土佐くろしお鉄道・中村線の一部)の若井に接続して、北宇和島~若井間は予土線に改称された。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年7月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
軽便鉄道は、レールの幅が狭い簡易な鉄道という意味ですか?
A
一般の鉄道よりも簡易な規格の鉄道を「軽便鉄道」と総称しており、日本の標準軌間の1067mm未満の軌間の狭い鉄道に対して用いられることがありますが、中には広軌や標準軌を用いた軽便鉄道もあります。このほか、森林鉄道や鉱山鉄道などの産業鉄道も、その多くは簡易な規格の鉄道を用いていたため、軽便鉄道の範疇に含める場合もあります。
また、かつて軽便鉄道法という法律があって、この法律に基づいて敷設された鉄道を特に「軽便鉄道」と呼ぶことがあります。軽便鉄道法は、1910(明治43)年に公布されましたが、その目的は地域振興にあり、一般の鉄道よりも規制を大幅に緩和することとなり、簡易な手続きや規格で鉄道事業を行うことが可能となりました。また、国有鉄道の地方路線に対しても準用することが可能となり、「○○軽便線」の名称で建設されました。
私鉄の法律としては私設鉄道法がありましたが、国有鉄道に準拠して扱われていたことや、私設鉄道法から軽便鉄道法への適用の変更も認められたことなどから、ほとんどの会社が軽便鉄道法で出願するようになり、私設鉄道法が形骸化してしまいました。このため、1919(大正8)年、新たに地方鉄道法が公布され、私設鉄道法と軽便鉄道法は廃止されました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
絵葉書に登場する窓峠トンネルは、現存してるんですか?
師匠
宇和島鉄道の窓峠トンネルは廃線となってしまったが、今でも現地に残っているぞ。
小鉄
それがこのブルーシートを被っているトンネルの写真ですね。
師匠
宇和島方は何とか現存しているが、絵葉書に写っている近永方の北面は谷を埋めて地元のゲートボール場になっている。
小鉄
何も残ってないんですか?
師匠
ゲートボール場の片隅に、坑門に掲げられていた扁額だけが保存されている。
小鉄
扁額って何ですか?
師匠
トンネルの坑口の上に掲げられる額のことで、トンネルの名前や完成を言祝(ことほ)いだ言葉が書かれる。
小鉄
この「人工奪天険」がそれですね。
師匠
「人の力によって自然の険しい地形を克服した」といった意味で、トンネルの完成を言祝いでいる。
小鉄
あっ、絵葉書をよく見たら、トンネルの坑口にこの扁額が写ってますね。
師匠
やっと気づいたか。
小鉄
今使っている予土線の窓峠トンネルは、別の場所に建設したんですか?
師匠
宇和島鉄道の窓峠トンネルとほぼ同じ場所だが、低い場所をくぐっている。宇和島方の坑口も予土線の窓峠トンネルの直上あたりの藪の中に残ってる。
小鉄
ってことは、宇和島鉄道は予土線よりも急勾配だったってことですか?
師匠
軽便鉄道は一般の鉄道よりも小さな機関車を用いていたが、身軽である程度の急勾配でも登ることができた。
小鉄
小型だから急勾配には弱いと思ってました。
師匠
予土線の北側に並行して県道があるが、県道の緩い勾配がかつての宇和島鉄道の廃線跡で、宇和島方向からこれをたどると予土線の窓峠トンネルのちょうど真上のあたりにたどり着く。
小鉄
宇和島鉄道の蒸気機関車も宇和島駅前にあるようだから、あちこちに痕跡が残ってるんですね。
師匠
この機関車は、2000(平成12)年に広島県福山市の玩具メーカーが製造した宇和島鉄道1号機関車のレプリカだ。
小鉄
精巧にできているから、本物と思ってました。
師匠
1号機関車は、1913(大正2)年にドイツのオーレンシュタイン・ウント・コッペル社で製造された輸入機だった。
小鉄
近くにある「大和田建樹詩碑」って何ですか?
師匠
大和田建樹は、鉄道唱歌を作詞した人物で、宇和島の出身だ。
小鉄
あの「汽笛一声新橋を~♪」ですよね。
師匠
「宇和島城築城400年祭」と「大和田建樹生誕100周年」を記念して、宇和島鉄道1号機関車とともに2000(平成12)年に設置された。詩碑の設計は、建築家の清家清(せいけきよし)だ。
小鉄
ええっ、超有名な建築家ですよ。宇和島市と何か縁があったんですか?
師匠
清家清の父親で、機械工学者の清家正は宇和島の出身だった。
小鉄
そうだったんですか。
師匠
清家清は、大田区雪が谷の自邸の庭に国鉄のワフ29500形という実物の貨車を置いていたことでも知られているぞ。
小鉄
今でもあるんですか?
師匠
自邸は国の登録有形文化財に登録されたが、貨車は移設されて、今は新潟県上越市の直江津D51レールパークで保存されている。
小鉄
師匠は余計なことまでいろいろ知ってるんですね。
師匠
「余計なことまで」は余計だ
新宿駅は、1885(明治18)年に日本鉄道品川線(のちに国有化され現在の山手線の前身)の駅として開設し、1889(明治22)年には甲武鉄道新八線(のちに国有化され現在の中央本線新宿~八王子間の前身)の起点駅となった。その後、私鉄各社が接続してターミナルとして機能するようになり、さらに自動車交通の普及とともにバスやタクシーが乗り入れ、駅の周辺には繁華街が形成された。
開業時の新宿駅は、東京府の郡部(南豊島郡)であったが、1932(昭和7)年の市域拡大によって東京市に編入され、淀橋区が誕生した(のち四谷区、牛込区と合併して現在の新宿区となる)。東京の都市計画を審議していた都市計画東京地方委員会では、交通の結節点として発展が著しいターミナル駅について駅前広場を整備することとし、その最初の計画として1934(昭和9)年に新宿駅広場の整備計画が告示された。計画では、専売局淀橋煙草製造所の跡地を再開発して西口に駅前広場を設けることとし、地下鉄や東横電鉄(当時は東横線の支線が計画されていた)の乗り入れなどが考慮された。
駅前広場の計画は戦後も継承され、京王電鉄や小田急電鉄の新宿駅整備、小田急百貨店や京王百貨店の開店、地下鉄丸ノ内線の開業などが行われた。駅前広場も、1966(昭和41)年に坂倉建築研究所の設計による地下広場と、地上と地下を結ぶ中央開口ランプウェイが完成し、今回紹介する絵葉書にもその姿がおさめられた。この地下広場では、1969(昭和44)年春にフォークゲリラ集会が行われ、学生運動が一大ムーブメントとなった時代を象徴する場所となった。
新宿駅西口は、ほどなく淀橋浄水場跡地の再開発が始まり、1971(昭和46)年に完成した京王プラザホテルを皮切りに高層ビル群が林立し、1991(平成3)年には都庁も移転して副都心としての姿を整えた。新宿駅は、都市計画に基づく駅前広場のさきがけとなったが、その進化はとどまるところを知らず、今も再開発事業が進められている。(小野田滋)(書き下ろし)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
ランプウェイは何のことですか?
A
ランプウェイ(Rampway)は「斜路」という意味です。新宿駅西口では、地上広場と地下広場を結ぶ役割果たしていて、この部分を開口部としたため「中央開口ランプウェイ」と呼ばれました。高架の高速道路と地平の一般道を結ぶ出入口などのことを「○○ランプ」と呼んでいます。新宿駅西口のそれはしばしばロータリーと間違われますが、ロータリーは同一平面で周回するのみで、上下の移動はできません。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
淀橋区って、ヨドバシカメラと関係あるんですか?
師匠
今の西新宿あたりは、かつて淀橋、角筈(つのはず)と呼ばれていたが、淀橋浄水場の移転や再開発などで「西新宿」という地名に改称した。ヨドバシカメラの社名は、新宿西口本店のある淀橋に由来している。
小鉄
CMソングも「新宿西口駅前に~♪」ですよね。
師匠
地名としての淀橋は消滅してしまったので、今ではヨドバシカメラや地元の小学校などにその名が残るだけになってしまった。
小鉄
今の都庁のあたりは淀橋浄水場だったんですね。
師匠
今では敷地の輪郭が残る程度で全く面影はないが、1960(昭和35)年に東村山浄水場が完成したため、淀橋浄水場の機能はそちらに移転して、1965(昭和40)年に廃止された。
小鉄
戦前の西口駅前広場計画も専売局のタバコ製造工場の跡地を利用したそうですから、歴史は繰り返すんですね。
師匠
まとまった面積の用地は、何らかの理由がある場所だから、その由来を深掘りすると都市の歴史が見えてくるぞ。
小鉄
東京のまとまった土地は、だいたい江戸時代の大名屋敷にたどり着くって聞いたことがあります。
師匠
都市は、土地を再生させながら発達してきたから、いろいろな時代の遺産が重なり合っていることになる。
小鉄
師匠も、たまには良いことを言いますね。
師匠
「たまには」は余計だ
舟運と陸上交通の共存を図るために、可動橋が各地に登場した。鉄道橋では、船舶の航行が頻繁な運河や港湾地区で多用され、可動方式によって旋開式(旋回式とも)、跳開式、昇開式に区別された。「第四回当所設計及架設ニ係ル名古屋市西築港鉄道跳上橋全景」と題した絵葉書は、山本卯太郎の率いる山本工務所が宣伝用に作成した1枚で、跳開橋として設計された堀川口可動橋(名称は日本国有鉄道名古屋鉄道管理局施設部保線課調整の『線路一覧略図』(1967)に基づくが「1・2号地間運河可動橋」「名古屋港跳上橋」などとも称される)の全景がおさめられている。
山本卯太郎(1891~1934)は、1914(大正3)年に名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)土木科を卒業してアメリカへ渡り、アメリカン・ブリッジ社で可動橋の設計や製作に携わった。帰国後に山本工務所を設立して可動橋に関する特許を取得し、大阪、名古屋、東京に営業所を構えてその普及に貢献したが、1934(昭和9)年に42歳の働き盛りで早逝した。
堀川口可動橋は、愛知県名古屋港務所の事業による名古屋臨港線(のち日本国有鉄道名古屋港線・名古屋~堀川口間)の橋梁として1926(大正15)年10月に着工して、1927(昭和2)年6月に完成した。堀川口可動橋を含む名古屋港線の名古屋港~堀川口間は1980(昭和55)年に廃止されたが、その後も跳上げた状態で現地に保存され、わが国における現存最古の跳開橋として1999(平成11)年には「名古屋港跳上橋(旧1・2号地間運河可動橋)」として国の登録有形文化財に登録された。跳開桁の中央には、山本が手がけた他の跳開橋と同様に、「山本工務所」と書かれた大きな銘板が取り付けられ、その名を今に伝えている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2015年1月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
参考写真で紹介されている「奥田助七郎胸像」と「人造石護岸」は堀川口可動橋と何か関係があるんですか?
A
直接関係はありませんが、名古屋港の整備に貢献した技術者と、名古屋港で使われた人造石護岸を野外展示していて、どちらも堀川口可動橋近くの「ガーデン埠頭交差点」付近にあります。奥田助七郎(1873~1954)は、京都帝国大学を卒業したのち愛知県土木技師として名古屋港の発展に貢献した技術者で、没後、1957(昭和32)年の名古屋港50周年事業で胸像を奉置しました。隣には、「この人を見よ」と書かれた副碑があります。人造石護岸は、1903(明治36)年の名古屋港旧2号地(現在のガーデン埠頭)南側護岸で用いられたものが改良工事の際に出土し、その一部をモニュメントとして保存したものです。人造石は、愛知県碧海郡出身の服部長七(1840~1919)が考案したコンクリートの代用材で、左官の「たたき」の技術を応用して石灰とマサ土(花崗岩が風化した土)に水を混ぜて造られる人口材料です。東海地方を中心として各地で用いられ、発明者の名前にちなんで「長七たたき」とも称されています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
今回も山本卯太郎の可動橋ですね。
師匠
前回も紹介したが、山本卯太郎は個人で事務所を構えて独立していたから、絵葉書を使ってあちこちに実績を宣伝していたようだ。
小鉄
それが絵葉書として残っているってことですね。
師匠
可動橋は文字だけでは説明が難しいが、写真で見るだけでわかり易い構造をしていたから、絵葉書で宣伝する効果は大きかったと思うぞ。
小鉄
たしかに、橋に詳しくない人でも、写真を見ればどんな姿なのかがよくわかりますね。
師匠
百聞は一見にしかずだ。
小鉄
跳開橋って、どこかでも文化財になってませんでしたか?
師匠
ドボ鉄第46回で紹介した三重県四日市市の末広橋梁だな。
小鉄
思い出しました。たしか末広橋梁も山本卯太郎の設計でしたよね。
師匠
鉄道の跳開橋はかつてあちこちにあったが、現存するのは末広橋梁と今回の名古屋港の2箇所だけになってしまった。
小鉄
でも末広橋梁は国の重要文化財で、名古屋港は国の登録有形文化財だから、卯太郎さんは良いものを遺してくれましたね。
師匠
同じ跳開橋だが、開閉する仕組みが異なっているから、技術的にも価値があるな。
小鉄
どこが違ってましたっけ?
師匠
末広橋梁はリンク式を用いていて、主塔があって吊橋のようにワイヤーとリンク機構で可動桁を持ち上げているから、外観だけで見分けることができるぞ。
小鉄
なるほど。
師匠
間違い探しの要領で写真を見比べると、違いがわかるようになる。
小鉄
「違いがわかるゴールドブレンド」ですね。
師匠
そのCMを覚えているってことは、さては昭和の生まれだな。
小鉄
ダバダ~、ダバダ~……♪
中央本線水道橋~飯田橋間に架かる小石川橋通架道橋は、江戸城外濠が神田川と日本橋川に分岐する場所の日本橋川に架設され、中央本線御茶ノ水~八王子間の前身である甲武鉄道によって1904(明治37)年に完成した。日本橋川は、江戸時代の二代将軍・秀忠の頃に駿河台を開削して神田川を設けたため、その掘削土砂よって埋め立てられていた。明治時代になって、日本橋方面への舟運を確保するため開削工事を行って日本橋川として復活し、甲武鉄道もここに橋梁を架けることとなった。
小石川橋通架道橋は、開業時より複線として建設された。径間構成は、水道橋方から下路プレートガーダ×1連+上路ワーレントラス×1連+下路プレートガーダ×2連で、トラス橋の部分は同一設計のトラスを単線並列で架設した。これらはすべてドイツ製で、現地に架かるプレートガーダの主桁の側面(ウェブ)には、ドイツのデュイスブルクにあるハーコート社が1904(明治37)年に製造したことを示す銘板が取り付けられている。
明治期に輸入されたドイツ製のトラス橋は、もっぱら九州鉄道(現在の鹿児島本線など)で用いられ、独特の弓形をしたボウストリングトラスで知られる。これに対して、小石川橋通架道橋は日本が輸入したドイツ製の橋梁としては唯一の上路ワーレントラス橋であった。
「東京百景之内 飯田高架鉄道」と題した絵葉書には、日本橋川に架かる小石川橋通架道橋のトラス橋の上を甲武鉄道の電車が通過するが、蒸気機関車を用いていた甲武鉄道は、1904(明治37)年8月21日に中野~飯田町間を電化して電車を走らせた。電車は、すでに路面電車として市内交通で実用化されていたが、蒸気鉄道を電化して電車を走らせたのは甲武鉄道が始めての試みで、東京帝国大学工科大学電気工学科を1900(明治33)年7月に卒業した市来崎佐一郎(いちきざき・さいちろう)を電気技術者として採用し、同社の電化工事にあたらせた。小石川通架道橋を含む御茶ノ水~飯田町間は、同年12月31日に延長開業した。
電車の編成は、前後の電動車の中間に付随車1両または2両(当初は従来使用していた客車を付随車に充当していた)を挟んで連結し、1箇所の運転台で制御できるよう総括制御方式を採用した。しかし、当時の写真等によればほとんど電動車のみの単車で運転していたようである。また、万世橋への延長線が開業した時点で大形のボギー車両を導入する計画であったが、鉄道国有化によって甲武鉄道の時代には実現しなかった。
電動車は軸距10フィート(3.048m)のブリル21E型台車を用いた2軸の木造車で、最初に登場した16両にはスブレイグ式総括制御装置を用い、主電動機としてゼネラルエレクトリック社製のGE-53-A型(42馬力)を2台搭載した(諸元はのちの改造等により微妙に異なるが、ここでは市来崎佐一郞「甲武鐵道株式會社市內線電氣鐵道紀要」『工学会誌』No.273(1905)の製造時に近い数値に基づく)。また、真空ブレーキが主流であった時代に空気ブレーキを採用し、ユニオンスイッチ&シグナル社製の円板式自動信号機の採用とともに、高頻度で運転される都市鉄道にふさわしい先進的な運転保安設備を整えた。
なお、1904(明治37)年に登場した甲武鉄道の電車のうち1両が松本電気鉄道(現在のアルピコ交通)を経て鉄道博物館(さいたま市)で保存され、松本電気鉄道ハニフ1形客車(旧甲武鉄道デ963形電車)として廃車時の姿で展示されている。(小野田滋)(書き下ろし)
※「市来崎」の読みは「いちきざき」とする用例が一般的であるが、坂元俊雄編『忍草』市来崎佐一郎君追懐録編纂事務所(1933)では「市来崎家の家系とその発祥地」という章の中で、鹿児島県出水市米ノ津の対岸に市来崎(いちこざき)という岬があることや、島津家の古文書の諸家系図文書には市来崎を「いちくさき」と明記していることなどを指摘した上で、市来の「来」にいったん「後」の字をあてて「市後崎(いちござき)」としたものの、再び市来崎に戻した際に「いちきざき」と発音するようになったのではないかと推定している。また、東京大学工学部で所蔵されている英文の卒業論文では「Ichikuzaki」と記しており、少なくとも青年時代は「いちくざき」を称していたと考えられる。日本の戸籍制度ではふりがなを要求しないため漢字を自由に読み下すことができ、一般的に用いられている読み方や、本人が自称する読み方が名前として慣用された。
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
市来崎佐一郎はどんな方ですか?
A
市来崎佐一郎は、1876(明治9)年8月13日に鹿児島市で生まれ、1890(明治23)年に東京へ出て、第一高等中学校を経て1897(明治30)年9月に東京帝国大学工科大学電気工学科に進学しました。同校を1900(明治33)年7月に卒業して甲武鉄道に入社し、同社の電化工事を担当しました。市来崎は、恩師の山川義太郎や玉木弁太郎などの支援を受けながら発電所や変電所、電車線、電車の設計にあたり、1904(明治37)年8月21日に甲武鉄道は中野~飯田町間で電車運転を開始しました。当時、南海鉄道でも蒸気列車の電化を計画しており、先例となった甲武鉄道を見学するために訪れた同社取締役の大塚惟明に請われ、1905(明治38)年11月に南海鉄道へ転職しました。南海鉄道では臨時建設部電気主任(のち電気課長を兼務)に就任して電化工事に従事し、1907(明治40)年8月21日には難波~浜寺公園間が直流600Vで電化開業し、1911(明治44)年11月21日には和歌山までの全線電化が完成して、旅客列車はすべて電車列車となりました。南海鉄道の電化では、最初からボギー式の「電1形」電車を投入し、1909(明治42)年に登場した「電2形」からは総括制御方式を採用して、「電列車」と称して編成を組んで運転されました。1913(大正2)年11月には海外の電気事業を視察するために洋行し、翌年5月に帰国しました。1916(大正5)年頃には、鉄道院次官の石丸重美から鉄道の電化工事を本格的に行うにあたって、電気の専門家として勅任官待遇で鉄道院技師に迎えたいとの話が持ちかけられましたが、熟考の末に自分は南海鉄道で一生働くつもりであるとしてこれを断ったとされます。南海鉄道にとどまった市来崎は、1922(大正11)年に取締役、1924(大正13)年に取締役兼技師長(技術部長)となったほか、電気学会関西支部長、中央電気倶楽部理事長など電気関係の諸団体の要職を歴任しました。1926(大正15)年7月に体調不良をおして堺発電所の起工式に出席しましたが、同年8月20日に逝去しました。甲武鉄道や南海鉄道で実現した蒸気鉄道の電化は、やがて全国へ波及して、都市鉄道の近代化に大きく貢献しました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
甲武鉄道の電車って、パッと見、路面電車とあまり変わらないように見えますけど、どこがスゴいんですか?
師匠
明治時代の鉄道の動力は蒸気機関車が基本だったが、甲武鉄道は都市鉄道として電車が普及するきっかけとなった私設鉄道だ。
小鉄
日本で初めて実用化された電気鉄道は、ドボ鉄第115回と第155回で紹介した、1895(明治28)年の京都電気鉄道が最初ですね。
師匠
京都電気鉄道は最初から路面電車として開業した例だが、東京のように馬車鉄道を電化して路面電車を走らせた例もある。
小鉄
東京馬車鉄道を電化した東京電車鉄道ですね。
師匠
しかし、蒸気機関車が走っていた路線を電化して電車を走らせたのは、甲武鉄道が最初の例になる。
小鉄
たしかに、そうですね。
師匠
今は全国で電車が走っているが、ほとんどの路線は蒸気機関車が走っていた路線をのちに電化して現在の姿になった。
小鉄
でも、この写真の甲武鉄道の電車は、1両だけで走ってるから、どう見ても路面電車みたいですよ。
師匠
甲武鉄道では3~4両編成の電車を考えていたが、当時は利用客も少なかったから1両だけで運転していたことが多かったようだ。
小鉄
それに、電車も短いから、やっぱり路面電車みたいですよ。
師匠
当時の路面電車のように2軸のみの短い電車だったが、このあとボギー式という台車を車体の前後に取り付けた大形車も登場した。
小鉄
今の電車に近い形ですね。
師匠
甲武鉄道から南海鉄道へ移籍した電気技術者の市来崎佐一郎は、南海鉄道の電化でボギー電車を実現し、さらに総括制御によって電車を編成単位で制御できる技術を確立した。それがこの「電2形」という電車だ。
小鉄
人類の進化を見ているみたいですね。
師匠
写真に写っている橋梁もドイツ製だが、トラス橋もこのあと国産化されるから車両も土木構造物もさらに進化することになる。
小鉄
そう考えると、この1枚の写真に技術の変化が記録されていることになりますね。
師匠
写真を単に「見る」のではなく、「読む」ことが大切だ。
小鉄
ボーっと見ているだけじゃダメなんですね。
師匠
チコちゃんに叱らるぞ。