関門トンネルが完成する以前の関門海峡には、鉄道連絡船の航路が開設され、列車の発着に合わせて本州と九州を結んだ。現在の山陽本線神戸~下関間は、私設鉄道の山陽鉄道によって神戸方から西進して線路を延伸し、1897(明治30)年には徳山に達した。山陽鉄道では、徳山港から馬関(現在の下関)を経由して門司(現在の門司港)へ至る航路を開設し、門司駅で九州鉄道に接続した。その後、山陽鉄道は1901(明治34)年に馬関まで達したため、航路は下関と門司を結ぶ関門航路となり、1906年の山陽鉄道国有化後は国有鉄道に継承された。
関門航路では、艀(はしけ)を用いた貨車輸送を行なっていたが、貨物の積卸しを請負っていた地元下関の宮本組の宮本高次は、和船に線路を取り付けて陸上の線路と直接つなぎ、7トン積みの貨車3両を載せて蒸気船で曳航する車両航送を考案し、1911(明治44)年10月から第一山宮(さんぐう)丸~第三山宮丸の3隻にそれぞれ貨車用艀をつなぎ、貨車航送を開始した。
考案者の宮本は大分県中津の出身で、下関で沖仲士をしていたが、アメリカへ渡って港湾労働に数年間従事し、アメリカの貨車渡船を実見していた。帰国後に海運業を興し、資金難などに直面しながらも貨車航送を実現した。同年11月には陸軍特別大演習が福岡県と佐賀県で行われるため門司に御料車が運ばれたが、当日は他の船舶の航行を中止し、百余名の沖仲士に新調の法被を着せて作業を行い、監督の重責を見事に全うしたと伝えられる。
この航路は、下関と小森江(門司)を結んだため関森航路と呼ばれたが、艀による航送は効率が悪く、自力で航行できる貨車専用の船舶として、1919(大正8)年に第一関門丸と第二関門丸が横浜船渠で完成してただちに就航した。「(下関)貨車航走舩」と題した絵葉書には第二関門丸の姿が紹介されたが、甲板に1線の線路を設けて7トン積み貨車7両を積載することが可能であった。船体は貨車を前後両側から載せることができる両頭式で、スクリュー船ではなく外輪船とすることによって前後進の切り替えを容易にした。
この方式は、デンマークで用いられていた航送方式に範をとったとされるが、左右の外輪を同一機関で回していたため操船が難しく、関門海峡の早い潮流に流されがちであった。また、貨車も大型化して、15トン積みが標準となり、第一関門丸型では対応が困難となった。
このため、1923(大正12)年に就航した第三関門丸以降は機関を左右別々に設けて外輪を個別に回せるように改良し、船体幅を拡げて安定性を向上させて、貨車の大型化にも対応した。関門丸は1926(大正15)年に完成した第五関門丸まで合計5隻が建造され、関門トンネルが完成する1942(昭和17)年までその任にあたった。(小野田滋)(書き下ろし)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
第二関門丸は、関門トンネルが開業して、その後どうなりましたか?
A
第二関門丸は、関門トンネルの開業で宇野(岡山県)と高松(香川県)を結ぶ宇高連絡船に転用されましたが、1948(昭和23)年に運航停止となり、紫雲丸型の就航に伴って1950(昭和25)年には日本自動車航走に売却されました。日本自動車航走は、日本最初の本格的な民間カーフェリー会社として、西日本鉄道、京浜急行電鉄、山陽電気軌道の共同出資によって設立されました(日本最初のカーフェリーは1934(昭和9)年に営業を開始した九州の若戸渡船とされるが、車が自走したまま出入りでできるランプドアを備えた近代的なカーフェリーを導入したのは日本自動車航走が初とされる)。第二関門丸は、甲板のレールを撤去して7トントラック8~9台を積載でるように改造され、再び関門海峡を往復しましたが、1955(昭和30)年に廃船となって解体されました。また、日本自動車航走も、1958(昭和33)年に関門国道トンネルが開通したため業績が悪化し、1961(昭和36)年に廃業しました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
今回紹介されている「車両航送発祥の地」っていう碑は何ですか?
師匠
本文でも紹介されている 宮本高次が考案したわが国最初の車両航送を顕彰した記念碑になる。
小鉄
準鉄道記念物ってありますよ。
師匠
国鉄では、1958(昭和33)年10月に「鉄道記念物等保護基準規程」を制定して、鉄道記念物制度を発足させた。
小鉄
今から70年くらい前に発足したんですね。
師匠
当時は、近代化遺産という概念も無い時代だったから、今から考えると当時としては先進的な取組みだった。
小鉄
1号機関車が鉄道記念物になったのもこの時ですね。
師匠
準鉄道記念物は、1963(昭和38)年からスタートした。
小鉄
鉄道記念物とはどう違うんですか?
師匠
準鉄道記念物は「地方的にみて歴史的文化価値の高いもの」で、「将来鉄道記念物になりうるもの」を支社で指定するとしていた。
小鉄
鉄道記念物に比べて、ローカル色が強かったんですね。
師匠
「車両航送発祥の地」も1966(昭和41)年に当時の国鉄中国支社が指定して、その記念碑になる。
小鉄
どこにあるんですか?
師匠
下関駅東口に隣接している、シーモール下関という商業施設の1階の外壁にある。
小鉄
遺構とかは残ってるんですか?
師匠
何も残っていないから、「史跡」ということになるかな。
小鉄
外輪船は、一度乗ってみたかったですね。
師匠
今でも琵琶湖の観光船「ミシガン」が、日本で唯一の外輪船として活躍しているぞ。
小鉄
今日は今津か、長浜か~♪
師匠
おっ。「琵琶湖周航の歌」だな。
日本で最初の営業用電気鉄道は、1895(明治28)年に開業した京都電気鉄道で、その後は名古屋電気鉄道、大師電気鉄道、小田原電気鉄道と続いたが、東京で開業するのは、1903(明治36)年になってからであった。その後、東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京電気鉄道の3社鼎立により路面電車網が整備されたが、1906(明治39)年には統合して東京鉄道が発足した。これらは、軌道条例(のち軌道法)に基づく路面電車であったが、普通鉄道の電化も行われるようになり、1904(明治37)年に甲武鉄道飯田町~中野間で電車運転を開始し、同年には飯田町~御茶ノ水間も電化された。
「水道橋及甲武線電車」と題した絵葉書には、水道橋駅を背景として、水道橋架道橋(現在の新水道橋架道橋)を渡る甲武線の電車と、その下をくぐって水道橋を渡る路面電車がおさめられた。鉄製の水道橋が完成するのは、1908(明治41)年2月で、東京鉄道の神保町~春日町間が開業するのが同年4月のことなので、水道橋の架設を待って路面電車が開業したことになる。また、甲武鉄道水道橋駅の開業は1906(明治39)年9月で翌月には甲武鉄道が国有化されて甲武線となり、さらに1909(明治42)年10月に国有鉄道線路名称の制定で「中央東線」と称した。こうした経緯から、この絵葉書は1908(明治41)年~1909(明治42)年頃に撮影されたと推察される。
東京鉄道は、1911(明治44)年8月に東京市に買収されて東京市電となり、1943(昭和18)年の都政施行とともに「都電」と称した。一方、国有化された甲武鉄道の電車はのちに「国電」と呼ばれ、都電と共に都市交通を支えた。この時代の甲武線はまだ小型の単車であったが、やがて車体は大型化され、総括制御も実用化されて編成単位の運転も可能となり、電車列車へと進化した。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2025年6月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
新水道橋架道橋に取り付けられている銘板の意味を教えてください。
A
銘板は現在の第3径間に2枚取り付けられていて、主桁のほぼ中央にある「HARKORT./DUISBURG‐GERMANY./1904.」と書かれた銘板がドイツのデュイスブルクにあるハーコート社で1904(明治37)年に製造されたことを示す銘板です。桁端にある「CHINA&JAPAN TRADING CO.LD./89 YOKOHAMA./CONTRACTORS.//供給者//支那及日本貿易商會/横濱八十九番」とある銘板は輸入代理店を示していて、「横濱八十九番」はこの商社の所在地が横浜の外国人居留地の「89番」にあったことを示しています(日本の町名制度に馴染みのない外国人でも判りやすくするため数字のみで住所を表した)。なお、この銘板は今年(2026(令和8)年)になって突然撤去されてしまい、現在はその痕跡のみが残っています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
甲武鉄道の電車は、ドボ鉄170回で紹介されたばかりだから、よく覚えてますよ。
師匠
今回の絵葉書は、路面電車も写っているから、比較ができるぞ。
小鉄
たしかにこうして比べると甲武鉄道の電車の方が少し大きいですね。
師匠
それだけではないぞ。
小鉄
?
師匠
甲武鉄道の電車は、運転台の前面にもガラス窓を備えている。
小鉄
あっ、ほんとだ。下の路面電車の前面には窓がありませんね。
師匠
当時の路面電車の運転台は、基本的に屋根だけで、吹きさらしだった。
小鉄
雨や雪が降っても大丈夫だったんですか?
師匠
路面電車もほどなく改造して運転台の前面にも窓を取付けるが、お客さんが乗降する出入台の扉も無くて、扉は客室と出入台の間仕切だけにあった。
小鉄
ところで、本文に「水道橋架道橋(現在の新水道橋架道橋)」ってありますけど、明治時代の橋梁なのに、なんで「新」なんですか?
師匠
実は、1972(昭和47)年に都営地下鉄三田線が水道橋駅東口の白山通りの地下に建設されるんだが、その際に水道橋架道橋も拡幅工事を行って、東側に橋台を新設して1径間を拡張し、4径間になった。
小鉄
確かに今の写真と絵葉書を見比べると、3径間から4径間に増えてますね。
師匠
現在の第1径間は1972(昭和47)年の白山通り拡幅工事の際に新設された新しい桁で、第2径間もこの際に支間長を短縮改造している。
小鉄
つまり、現在オリジナルが残っているのは、第3径間と第4径間だけってことですね。
師匠
この際に、リニューアルされたことから、「新水道橋架道橋」と改称した。
小鉄
「シン・水道橋架道橋」の誕生ってことですね。
師匠
とりあえず「シン」を付けてみたかっただけだろう。
扇形機関庫の中心に位置する転車台(ターンテーブル)は、蒸気機関車の方向転換を行うための施設として知られている。これに対して、機関車を載せず、手押しによって2軸貨車や荷物運搬台車だけを載せて、方向転換や隣接線へ転線することを目的とした簡易な転車台がある。旧横浜税関構内では、再開発工事中に4基の転車台が発掘されたが、荷物を移動させるための手押しの小型台車を乗せるのみであったため、貨車用の転車台よりもさらに直径は小さく、直径2.45m(約8フィート)であった。
横浜税関の北側にある大桟橋から横浜税関構内へ至る荷物運搬用の簡易軌道は、関東大震災前に総延長27,080フィート(約8.3km)に達し、合計105台の荷物運搬台車が使用された。発掘された転車台は、税関構内の付属施設として設置されたもので、位置関係から「東西上屋」の部分に平行して敷設された4線を直角方向に転線できるように、直線上に並べられていたと推察される。発掘された転車台の構造は、レール部分を兼ねた鉄板を中心軸から方杖状に伸びる4本の支柱によって支えるのみで、回転部分には8個の車輪を備えたほか、固定のために鉤爪式のストッパーを取り付けた。
今回紹介する「横浜税関桟橋」と題した絵葉書には、カナディアン・パシフィック・ラインのエンプレス・オブ・ロシア号を背景として、その右隅に小型の転車台が写っている。ストッパーが片側に2本あり、盤面も木製のようなので、発掘された転車台とは形式や大きさが異なり、貨車などに使用した可能性もある。
再開発工事で発掘された4基の転車台は現地で保存されることとなり、横浜開港150周年を記念して旧横浜税関東西上屋跡地周辺に2009(平成21)年6月にオープンした「象の鼻パーク」内にガラス床を設けて展示された。ちなみに、こうした荷物運搬用の転車台はターンテーブルとして現在でも工場内で使用されており、鉄道工場では車体と分離した台車の移動などで利用されている。(小野田滋)(書き下ろし)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
機関車を載せない転車台はほかにも残っているんですか?
A
愛知県の武豊線の武豊駅の近くにあった1927(昭和2)年設置の転車台(直径7.2m)が武豊町の転車台ポケットパーク内に保存されていて、「回転ポッポ台」という愛称で公開されています。「回転ポッポ台」は2009(平成21)年に国の登録有形文化財に登録されました。また、同様の仕組みのターンテーブルは、工場の構内用として現在でも使われています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
ターンテーブルは、蒸気機関車の向きを変えるだけじゃないんですね。
師匠
蒸気機関車のためにある設備と思っている人が多いが、いろいろな場所で活躍しているし、歴史も古いぞ。
小鉄
今回のような小型の転車台はいつからあるんですか?
師匠
1872(明治5)年に開業した日本最初の新橋・横浜間の鉄道では、すでに用いられていた。
小鉄
ってことは、鉄道の開業から使われていたんですね。
師匠
当時の記録では新橋停車場と横浜停車場構内に「三車台」または「三ツ車台」という名前で登場する。
小鉄
何で「三」なんですか?
師匠
3基の転車台が横並びで一列になって配置されたことに由来しているようだ。
小鉄
つまり、平行して3本の線路があって、転車台で貨車を平行移動させていたってことですか?
師匠
そういうことになるな。
小鉄
絵葉書にある横浜税関桟橋ってどこのことですか?
師匠
新港埠頭と呼ばれている地域になる。
小鉄
新港埠頭は、ドボ鉄65回でも紹介したことがありましたね。たしか、新港埠頭の工事は税関の拡張工事を兼ねて、大蔵省の事業として行われたってことでしたね。
師匠
よく覚えていたな。その横浜税関があった場所が、発掘された転車台の場所になる。
小鉄
どのあたりで発掘されたんですか?
師匠
新港埠頭の東側で、現在の象の鼻パークと呼ばれる広場だ。
小鉄
象の鼻?
師匠
「象の鼻」は幕末から明治時代初期に建設された波止場のことで、東側の突堤が弓なりに延長されて象の鼻のような形になったため、そう呼ばれている。
小鉄
地図で確認したら、大桟橋の付け根に象の鼻のような形がありますね。
師匠
税関の東西上屋があったあたりを再開発したのが象の鼻パークだ。パークを囲むようにして並んでいるスクリーンパネルには、横浜の発展に貢献した偉人たちが紹介されていて、土木技術者も何人か含まれているから、勉強になるぞ。
小鉄
ドボ鉄65回の時によく調べたはずですが、見落としていました。
師匠
横浜は近代化遺産の宝庫だから、何度行っても新発見があるぞ。
札幌市では、1962(昭和37)年から路面電車に代る新たな都市交通の検討を開始し、翌年には海外視察団を派遣してモノレールや路面電車の現状調査を行った。この視察で、騒音が少なく乗り心地も良い交通機関としてパリ市地下鉄で実用化されていたゴムタイヤ式地下鉄が注目され、導入のための具体的な検討が開始された。
札幌市では、試験車による走行試験を行うため、1964(昭和39)年に札幌市東区の交通局東苗穂自動車訓練所に札苗実験場を設け、廃車となったバス車両を改造した第一次試験車による試験を開始した。一方、1966(昭和41)年のIOC総会で1972(昭和47)年に札幌市で冬季オリンピックを開催することが正式決定され、開催に向けて地下鉄を整備することが目標となった。
ゴムタイヤ式地下鉄は、鉄軌道の特徴のひとつである曲線通過時に車輪フランジのテーパーを利用する効果を期待できないため、独自の工夫を必要とした。モデルとなったパリ市地下鉄は、従来の2本のレールをガイドとしてゴムタイヤで走行する方式であったが、札幌市では中央にガイドレールを設けた独自の「中央案内軌条式」を採用し、実験場での試験走行を繰り返しながらその基本設計を確立した。
札幌市では、最初の地下鉄として南北線・北24条~真駒内間(12.1km)の建設を決定し、1969(昭和44)年より工事を開始した。同区間は、1971(昭和46)年12月16日に開業し、翌年2月3日には真駒内競技場で札幌オリンピックの開会式が挙行された。
「さっぽろの地下鉄開通記念」と題して鉄道弘済会から発行された8枚組の絵葉書には、最初に登場した1000形車両の姿などがおさめられたが、独特な車軸配置や、中央案内軌条式の軌道構造など、ゴムタイヤ式地下鉄独自の仕組みが理解できる。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2025年4月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
ゴムタイヤ式地下鉄の開発では、試作車がいくつか登場したようですが、どんな車両があったんですか?
A
実用化までに、下記のように4次にわたって試作車が登場しました。
① 第1次試作車……1964(昭和39)年11月に廃車となったバスを改造した最初の試作車として登場し、札幌市苗穂に150mの直線軌道を設けて試験を行ないました。
② 第2次試作車……1965(昭和40)年5月に第1次試作車と同様に廃車となったバスを改造した試作車で、試験軌道を400mの循環軌道に延長して各種機能の確認が行われました。
③ 第3次試作車「はるにれ」……1965(昭和40)年11月に、より実車に近い車体を新製した試作車で、車体は全長11m、幅2.8mで、ガソリン機関×2基を搭載しました。現在は札幌市交通資料館(札幌市南区)で保存されています。
④ 第4次試作車「すずかけ」……1967(昭和42)年9月に登場した最後の試作車で、実際の軸配置(2両連接7軸車)を用いて走行系の最終チェックが行われました。台枠より上の車体は考慮されませんでしたが、スタイルは別として走行系はほぼ実車に近い構造で、札幌市真駒内に新たに延長約680mの試験線を設けて走行試験が行われました。現在は札幌市交通資料館で「はるにれ」とともに保存されています。
このほか、1976(昭和51)年に開業した東西線の建設に先立ち、南北線での実績を踏まえて改良した試作車が製造され、南北線よりも車体長を拡大し、ボギー式台車を備えた「試験車01」が製造され、すでに開業していた南北線で走行試験を繰り返して量産車の設計に反映されました。「試験車01」も廃車体ですが、札幌近郊の石狩市にある民間工場の休息所として用いられて現存し、「試運転」と書かれた札が今でも残っています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
試作車がこんなに保存されているなんて、珍しいですね。
師匠
なにしろ、日本で最初の実用化だったから、関係者もその苦労を形として残したかったんだろうな。
小鉄
最初の試作車は廃車のバスを使ったんですね。
師匠
最初の試作車は東京オリンピックが開催された直後の1964(昭和39)年11月に登場した。
小鉄
札幌オリンピックの開催は決まってたんですか?
師匠
この時点でまだ札幌オリンピックの開催は正式に決定していなかったが、誘致運動はそれ以前から行われていた。
小鉄
地下鉄の開業が1971(昭和46)12月だから、約7年かけて開発したことになりますね。
師匠
目標としていた札幌オリンピックには間に合ったが、実際に営業運転をしてみると当初は想定していなかったいろいろな問題も明らかになった。
小鉄
たとえばどんな問題があったんですか?
師匠
タイヤ式としたことで振動や騒音の問題は解決すると思われていたんだが、軌道面の微妙な凹凸が乗り心地に影響したり、鉄車輪の走行音は軽減されたもののコンプレッサーや電動機などから発生する音が意外と大きかったなどだ。
小鉄
初めての試みだから、想定外の出来事もいろいろあったんでしょうね。
師匠
新しい何かを開発することは、試行錯誤の繰り返しだが、最後まで諦めなかった技術者たちに「アッパレ!」だ。
小鉄
大沢親分、懐かしいですね。