群馬県の高崎と新潟県の宮内を結ぶ上越線は、それまで信越本線で上田、長野、直江津、柏崎を経由していた新潟への鉄路を短絡し、太平洋側と日本海側を結ぶ新たなルートを構成した。上越線の建設は、最長の清水トンネル(延長9,702m)の中央を境として高崎側を上越南線、宮内側を上越北線として南北から建設を進めた。
「第三利根川橋梁架構工事」と書かれた絵葉書は、上越南線の工事にあたった鉄道省東京建設事務所が発行した「上越南線渋川沼田町間開通記念絵葉書」のうちの1枚で、津久田~岩本間で利根川を跨ぐ第3利根川橋梁の架設工事の様子を紹介している。写真では、支間約154フィート(約47m)の上路プラットトラスの第1径間の架設がほぼ完了し、第2径間の足場の組立てにとりかかっている。
足場には多くの作業員の姿が見られるが、服装はこの時代の作業服の定番であった印半纏ではなく、全員が制服姿であることに気がつく。これは、第3利根川橋梁の架設作業が、陸軍鉄道第一連隊により行われたためで、将卒約150名からなる架橋隊が作業にあたった。当時の記録によれば、工事中に発生した関東大震災により連隊が救援活動を行うこととなったため、工程に影響が生じたとされる。
また流心部のトラスは、エレクショントラス工法によって架設されたが、絵葉書の写真でも本設のトラスを支える仮設のトラス(エレクショントラスまたは架設トラス)を確認することができる。
絵葉書の左下隅には「開通・渋川沼田町間・大正十三年三月三十一日」とあり、第3利根川橋梁を含む渋川~沼田間が1924(大正13)年3月31日に開通したことを示している。当時の記録では、沼田駅の駅前広場に大天幕を張り、13時より開通祝賀会が挙行された。上越南線が利根川をさらにさかのぼって北上し、上越国境の清水トンネルが完成して南線と北線が接続するのは、7年半後の1931(昭和6)年9月1日のことであった。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2023年4月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
エレクショントラス工法とはどのような施工法ですか?
A
エレクショントラスと呼ばれる仮設のトラスを組み立てて、これを足場としてその上で橋梁を組み立てる施工法で、エレクショントラスは組み立てと撤去を容易にするため、部材の接合にピン結合を用い、斜材にターンバックルを用います。河床に足場を組まずに架設工事を行うことができますが、エレクショントラスの製作と架設に多大な経費を要し、水位の関係で使用条件も限られるという欠点があります。なお、本設橋梁の部材の組み立ては、一般にゴライアスクレーンと呼ばれる、移動式の門型クレーンをエレクショントラスの上に組み立てて使用します。エレクショントラスは架設時に仮設されるのみで、橋梁が完成すると撤去されます。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
師匠。「仮設」と「架設」は何がちがうんですか?
師匠
どちらも読みは「かせつ」だからややこしいが、意味は全く違うぞ。
小鉄
?
師匠
「仮設」は「仮(かり)」だから仮に使うための施設だ。
小鉄
「仮住まい」とか「仮の姿」とかと同じ意味ってことですね。
師匠
「仮設」の反対が「本設」で、本設の構造物を施工するために、一時的に使う設備が「仮設」ということになる。
小鉄
工事現場の足場やコンクリートの型枠なんかも「仮設」になりますね。
師匠
それに対して、「架設」の「架」は何かを「架ける」という意味で用いる。
小鉄
「橋を架設する」は、橋を架けるという意味ですね。
師匠
橋の場合は「架橋」とも書かれるな。
小鉄
ってことは、「エレクショントラス」は、「橋を“架設”するための“仮設”のトラス」ってことになるわけですね。
師匠
「施工」と「施行」、「工程」と「行程」なども間違えやすいな。
小鉄
「支承」と「師匠」もありますよ。
師匠
……。
京都府の亀岡から嵐山を経て淀川と合流する桂川は、嵐山付近までは保津川とも呼ばれ、保津峡には年間を通じて多くの観光客が訪れている。この保津川にそって線路を敷設したのは、京都鉄道という私設鉄道で、嵯峨~園部間は1899(明治32)年に開業した。この区間には延長499.1mの朝日トンネルを最長として8本のトンネルが建設され、保津川には架設当時のトラス橋としては最大支間を誇った支間280フィート(85.3m)の巨大な曲弦下路プラットトラスが架設された。
「保津川鉄橋」と題した絵葉書には、保津川橋梁が保津川を1径間で跨ぎ、屋形船が急流を下っている様子がおさめられている。保津川橋梁はアメリカのA&Pロバーツ社で製造され、部材にアイバーを用いたピントラスであった。1922(大正11)年にこの保津川橋梁で列車の脱線事故が発生し、車中に乗合わせた初代・京都鉄道社長の田中源太郎が死亡した。この脱線事故で部材の一部が損傷したため、1928(昭和3)年に現在の国産ワーレントラス橋に架け替えられ、旧橋は1930(昭和5)年に名古屋市内の道路橋に転用されて、今もJR東海名古屋車両区や関西本線などを跨ぐ向野(こうや)跨線橋として余生を送っている。
京都鉄道は1907(明治40)年に国有化されて現在の山陰本線京都~園部間となったが、嵯峨嵐山~馬堀間は複線電化による輸送力の増強と老朽構造物の改良、防災強度の向上を兼ねて1989(平成元)年に新線に変更され、旧線は単線のまま嵯峨野観光鉄道として再利用された。トロッコ嵐山からトロッコ亀岡まで嵯峨野観光鉄道の嵯峨野トロッコ列車で保津川をさかのぼり、川下りで嵐山へと戻るコースは新たな京都観光の目玉となり、インバウンドの観光客からも人気を集めている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2017年5月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
京都鉄道はどんな会社だったんですか?
A
1893(明治26)年に、のちに初代社長となる田中源太郎らが、京都~舞鶴・宮津間、福知山~和田山間の鉄道を出願したことに始まります。1895(明治28)年に免許状が下付されて翌年から工事に着手し、1897(明治30)年に二条~嵯峨(現・嵯峨嵐山)間が最初の路線として開業しました。1899(明治32)年には嵯峨~園部間が開業して、京都~園部間が全通しましたが、資金難によって1900(明治33)年には園部以遠の工事未成部分の免許取り消しを申請し、未成部分の工事を官設鉄道に引き継ぎました。1907(明治40)年に国有化され、1909(明治43)年に線路名称を「京都線」としましたが、1912(明治45)年に京都~出雲今市(現・出雲市)間が全通したため、山陰本線に統合されました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
師匠。今回紹介されている二条駅は、宇都宮駅とそっくりですよ。
師匠
京都鉄道博物館で保存されている旧二条駅のことだな。
小鉄
設計者が同じなんですか?
師匠
保存されている旧二条駅は、京都鉄道の本社を兼ねて1904(明治37)年に完成した。当時の新聞記事では、田中源太郎社長が宇都宮駅の優美な姿を気に入って、日本鉄道に問い合わせるなどして完成したとされている。
小鉄
ってことは、宇都宮駅の方が先に完成していたんですか?
師匠
二代目の宇都宮駅は、1902(明治35)年に完成していた。
小鉄
古都の駅が、関東地方の駅をモデルにしたんですね。
師匠
新聞記事によれば、最初は煉瓦で建てる予定だったそうだが、二条城の風致にふさわしい和風建築ということで選んだらしい。
小鉄
鬼瓦に京都鉄道の社紋が入ってますよ。
師匠
軒飾りの金具にも社紋があるぞ。
小鉄
貴重な京都鉄道の遺産ですね。
師匠
京都鉄道の遺産といえば、初代の保津川橋梁を転用した向野跨線橋が有名だ。
小鉄
どこにあるんですか?
師匠
近鉄の米野(こめの)駅が最寄り駅になる。
小鉄
近鉄名古屋の次の駅ですね。
師匠
JR関西本線、近鉄名古屋線、あおなみ線や、JR東海の車両基地を跨いでいるから、いろいろな列車を眺めることができる。
小鉄
パラダイスですね。
師匠
あおなみ線の「ささしまライブ駅」も近いから、リニア・鉄道館のある金城ふ頭駅にも20分くらいで直通できるぞ。
小鉄
最近鉄分が不足しているから、さっそく補給してきます。
濃尾平野を流れる木曽三川のうち、最も西側を流れる揖斐川は、岐阜県揖斐川町の冠山付近を水源とし、濃尾平野を潤して桑名付近で伊勢湾へとそそいでいる。1887(明治20)年に揖斐川橋梁を含む大垣~加納(現在の岐阜)間が開業し、木曽三川には、イギリス人技師チャールズ・アセトン・ワットリー・ポーナルの設計による支間200フィート(約61m)の単線下路のダブルワーレントラスが架設された。この支間200フィートのダブルワーレントラスは、標準設計として合計112連が全国各地に架設され、東海道本線では富士川、大井川、天竜川でも用いられ、揖斐川橋梁は5連で構成した。
明治時代の初期に架設されたトラス橋は、蒸気機関車の大型化によって新しいトラス橋へと架替えられ、揖斐川橋梁も1908(明治41)年に下流側に支間200フィートのアメリカ製複線下路プラットトラスを新設して複線化し、初代のトラス橋は廃止された。
「揖斐川の鉄橋」と題した絵葉書には、黒煙をたなびかせた上り列車が2代目の揖斐川橋梁を通過中で、その背後には役目を終えた初代の揖斐川橋梁のイギリス製ダブルワーレントラスが見える。初代のトラス橋は、レールを撤去して道路橋へと転用され、「揖斐川橋」として現在も余生を送っている。下部構造も一部にコンクリート巻き補強を行った程度でほぼ原型をとどめ、その文化財的な価値が評価され、2008(平成20)年には国の重要文化財に指定された。
一方、1908(明治41)年より用いられていた2代目のトラス橋は、アイバーの弛緩が問題となって1961(昭和36)年に廃止され、下流側に3代目のトラス橋を架設した。2代目のトラス橋はしばらく放置されていたが、1985(昭和60)年にすべて撤去された。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2023年10月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
ダブルワーレントラスはどんな特徴があるんですか?
A
ダブルワーレントラスは、ワーレントラスの斜材をXの字に交差させたもので、明治期の長径間のトラス橋に用いられました。使用する鋼材の量が多くなるため、大正時代以降は特殊な場合を除いて用いられませんでした。ただし、一部の部材が損傷しても構造を維持できるため、破壊工作や空爆などのおそれがある紛争地の橋梁で用いることがありました。実際に、日本でも戦時中に廃止されたダブルワーレントラスを用いて、水戸陸軍爆撃場で耐爆試験が実施されました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
旧揖斐川橋梁の色は、これまで明るい色だったのに、保存修理工事で黒っぽくなってだいぶ印象が変わってしまいましたね。
師匠
黒っぽい色は鳶色(とびいろ)という色で、鳥のトンビの色になる。茶褐色の濃い色になるかな。
小鉄
何で鳶色にしたんですか?
師匠
揖斐川橋梁が完成した明治時代の橋梁の色は、だいたい鳶色が用いられていた。重要文化財に指定されたことをきっかけとして、保存修理工事が行われて最初の色に戻したんだ。
小鉄
暗い色だから写真映えもしないし、なんか地味ですよね。
師匠
当時は蒸気機関車の全盛時代だったから、明るい色で塗ってしまうとすぐに煤(スス)で汚れてしまう。
小鉄
だから昔の客車とかも茶色い色だったんですね。
師匠
あと鉄の錆汁(さびじる)や車両のブレーキの鉄粉などで線路まわりは汚れやすいから、なおさらだ。
小鉄
大井川橋梁の彩色絵葉書も鳶色ですね。
師匠
彩色絵葉書だから真偽は不明だが、当時の絵葉書の鉄道橋は、だいたい鳶色で、たまに緑色がある。
小鉄
ほかに手がかりがあったんですか?
師匠
当時の塗り替え記録や、塗膜のサンプル、研磨などでも鳶色が確認された。
小鉄
師匠も無精だから汚れが目立たないように、暗い色の服を着ていた方がいいですよ。
師匠
余計なお世話だ
わが国における可動橋の普及に貢献した山本卯太郎については、第46回の四日市臨港線・末広橋梁で紹介したが、今回は山本が設計した最大支間の可動橋である古川橋梁について紹介してみたい。古川橋梁は、東京の汐留から芝浦を結ぶ貨物専用の芝浦支線に架かっていた跳開橋で、山本卯太郎の率いる山本工務所の設計により1929(昭和4)年に完成した。
山本は、四日市臨港線に架かる末広橋梁(国指定重要文化財)でリンク機構を組み合わせた独自の可動メカニズムを用いたが、今回紹介する古川橋梁は一般的なトラニオン式と呼ばれる方式を採用した。トラニオンは、大砲の砲身を回転させて仰角を与えるための回転軸のことで、古川橋梁では片方(汐留方)の桁端にトラニオンを設けた。
「芝浦臨港線ハネアゲ橋」と題した絵葉書には、跳開状態の古川橋梁がおさめられ、左側にはバランスをとるための巨大なカウンターウェイトを確認できる。古川橋梁の可動部の支間長は27.6mあり、山本卯太郎の設計した可動橋では最大支間であった。芝浦支線は、1930(昭和5)年に開業して一時期は軍事物資の補給路としても用いられていたが、戦後は東京港や近隣の工場の貨物輸送に用いられたのち1985(昭和60)年に廃止された。
この絵葉書には「東京大十六橋」と記され、東京の16大橋梁をセットとして販売した絵葉書集の1枚であったが、鉄道橋として選ばれたのは芝浦臨港線ハネアゲ橋のみで、他はすべて道路橋(三吉橋、両国橋、千住大橋、厩橋、数寄屋橋、新大橋、日本橋、永代橋、江戸橋、清洲橋、相生橋、聖橋、蔵前橋、言問橋、駒形橋)であった。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2018年3月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
ドボ鉄第46回の末広橋梁と見比べると、ロープが無くてスッキリしているように見えますが、何が違うのですか?
A
末広橋梁では、ロープ(吊索)とリンク装置を用いて桁を吊り上げるシステムを用い、桁の角度に応じて最小限の力で持ち上げる方法を採用しましたが、古川橋梁はロープが無く、従来のトラニオン形と呼ばれる方法で設計されました。トラニオン形は、桁とのバランスをとるために大規模なカウンターウェイト(重錘)を必要としましたが、山本の考案したシステムではカウンターウェイトを最小限に小型化することが可能でした。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
師匠、山本卯太郎の発明は、ロープとリンクを組み合わせた吊り上げ方法に特徴があったということですか?
師匠
山本卯太郎はこの方式について1928(昭和3)年12月に発行された『土木学会誌』で「鋼索型跳上橋の一考察」と題して発表したんだが、これに異議を唱えた技術者が現れた。
小鉄
どういうことですか?
師匠
翌年4月に発行された『土木学会誌』の「討議」欄で、関場茂樹という技術者が「1894年にアメリカのブラウン氏が設計したブルックリンの跳開橋は山本の考案と同形で、決して新しい考案とは思われない。」と批判したんだ。
小鉄
関場茂樹ってどんな人なんですか?
師匠
山本と同様にアメリカの橋梁メーカーで修行を積んだ土木技術者だ。帰国後は、横河橋梁製作所の技師長に就任したが、のちに関場設計事務所を開設して独立した。
小鉄
あっ、想い出しました。ドボ鉄第35回の「宇治川を跨ぐ大トラス」で紹介された澱川橋梁を設計した人ですね。
師匠
よく覚えていたな。関場は、アメリカの橋梁技術に精通していたから、山本の論文を一読して、その元となるアイデアがすでにアメリカに存在していたことを指摘したのが「討議」の趣旨だった。
小鉄
山本は反論しなかったんですか?
師匠
反論はされなかったため討議は発展しなかったが、山本は自分の理論が理解されなかったことに失望したと伝えられている。
小鉄
山本のアイデアはブラウン氏の考案を流用しただけってことですか?
師匠
山本の論文の本質は、ブラウン氏の跳開橋を基本原理として、これに力学的根拠を与えて最も効率よく跳開作業を行なうことができる最適解を求めた点にあった。
小鉄
仕組みそのものではなく、理論化したところに独自性があったってことですね。
師匠
関場の評価がその点に及ばなかったことに山本の不満があったように思うが、関場は批判だけではなく「この種の跳上橋は滑車を支持する柱を十分強固にしなければならいので、さらに研究を深めるべきである。」と具体的なアドバイスをしているから、アメリカのメーカーで経験を積んで設計事務所を開設した先輩技術者として、「討議」を通じてエールを送ったと理解することもできる。
小鉄
2人とも設計事務所を構えた土木技術者の草分けですか?
師匠
山本卯太郎が活躍した大正時代から昭和戦前期にかけて、樺島正義、増田淳、阿部美樹志などの技術者が独立して設計事務所を構えたが、皆アメリカの大学やメーカーで最新の土木技術を身につけて帰国したという点で共通している。
小鉄
だったら日本でも引く手あまただったんじゃないですか?
師匠
ところが、内務省や鉄道省のインハウスの技術者で固められていた日本の土木業界では、独立した技術者は在野の技術者として特異な存在で、風当たりも強く、建築家のような高い評価を受けていなかった。
小鉄
もったいないですね。
師匠
そうした中で、山本は可動橋の設計というそれまでの日本の土木技術者にとって未開拓であった分野に活路を見出し、独自の地位を築いたことになる。
小鉄
つまりオンリーワンをめざしたってことですね。
師匠
「丸くなるな。星になれ。」ということだな。
小鉄
それ、ビールのキャッチコピーですよ。
東海道新幹線の終着駅である新大阪駅の新設にあたっては、①現大阪駅併設案、②東淀川駅付近案、③宮原操車場付近案、④梅田貨物駅併設案の4案を候補とし、市内連絡の利便性、在来線との乗換え、山陽新幹線への延長、用地確保の難易、工事期間の制約、工事費の多寡などを比較検討した結果、1960(昭和35)年1月には宮原操車場付近案とすることに決定した。
設計にあたっては、延伸を計画していた大阪市営地下鉄と高速道路(新御堂筋)との交差関係が課題となり、新幹線を3階として2階に広いコンコースを確保することにより、新幹線、在来線、地下鉄、駅前広場との連絡を容易にした。また、新駅の設置と同時に、新大阪駅周辺土地区画整理事業(大阪市)による駅周辺や駅前広場の整備が開始された。
工事は、駅全体を東部高架橋、中央部その1高架橋、中央部その2高架橋、西部高架橋に4分割し、1962(昭和37)年4月に鉄骨製作を開始し、1964(昭和39)年7月にすべての鉄骨の組立を完了した。駅前広場は、地表に駐車場とバス乗り場を設け、新幹線コンコース階(高架広場)にはランプによってタクシーや自家用車が乗り入れる構造とし、高架道路、高架広場、地平広場の動線は一方通行を原則とした。こうして、新大阪駅は、新幹線、在来線、地下鉄、道路との連絡を立体的に処理してそれぞれのスムーズな動線を確保し、新しい時代にふさわしいターミナル駅として1964(昭和39)年10月1日に開業した。
なお、docomomo (近代建築の記録と保存を目的とする国際学術組織/本部パリ)の日本支部では、2020(令和2)年度に「日本におけるモダン・ムーブメントの建築」のひとつとして新大阪駅を選定した。
(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2023年7月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
新幹線の駅の特徴は何ですか?
A
駅本屋(いわゆる駅舎、駅ビルなどの建築物)を建てず、駅に必要な施設をすべて高架下に収容した点に大きな特徴があります。こうした駅は、在来線の高架駅でも用いられ、1910(明治43)年に開業した有楽町駅がその元祖とされますが、新幹線ではこのスタイルを基本としました(在来線との併設駅では在来線側に駅ビルを設けた例があります)。新幹線は長距離列車ですが、高頻度・高密度輸送という特徴により、効率を重視する都市鉄道の駅とほぼ同じ設計思想で計画され、その設計思想はその後の新幹線駅にも継承されて現在に至っています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
新大阪駅の平面計画図を見ると、新幹線のホームに平行して「京阪神急行電鉄」って書いてありますけど、こんな場所に阪急電車の駅がありましたっけ?
師匠
ああ、新大阪連絡線のことだな。
小鉄
?
師匠
阪急電鉄は新大阪駅の開業にあわせて、淡路から新大阪を経由して十三を結ぶ連絡線を計画したが実現しなかった。
小鉄
計画があった痕跡は何か残っているんですか?
師匠
新大阪駅の東京寄りの高架橋に、淡路方面からの阪急電車がくぐる予定だった場所がある。名称はズバリ「京阪神急行線線路橋」だ。
小鉄
この写真がその場所ですね。でもどこにでもある普通の高架橋ですよ。
師匠
よく見ると気がつくぞ。
小鉄
?
師匠
高架橋の橋脚がここだけ斜めに配置されている。
小鉄
あっ、ほんとだ!すぐにでも鉄道を通せそうですね。
師匠
ところが、淡路~新大阪間の事業認可は2002(平成14)年に廃止してしまった。
小鉄
もったいなかったですね。
師匠
しかし新大阪~十三間の免許はまだ有効で、実際に路線を延伸する計画も進められている。
小鉄
十三側にもくぐる予定の場所があるんですか?
師匠
宮原の車両基地の西端あたりに能勢街道踏切という北方(ほっぽう)貨物線の踏切があって、その西側に野中線路橋という山陽新幹線の構造物がある。
小鉄
「線路橋」ということは、そこでくぐる予定ってことですか?
師匠
新大阪駅の新神戸方は、新幹線の高架橋に沿ってその北側に細長い用地が確保されているから、それを追っていけばくぐる場所もすぐにわかるぞ。
小鉄
都会の未成線は珍しいですね。
師匠
似たような例は、大阪環状線の桜ノ宮駅にもあって……
小鉄
師匠のウンチクが長くなりそうなので、またの機会ということで。
中央本線の岡谷~塩尻間は、1983(昭和58)年に塩嶺トンネルを経由する複線の新線が開業し、辰野経由の旧線は単線のまま、普通列車のみが運転される路線として存続した。岡谷~川岸間に架かっていた初代の第1天竜川橋梁は、支間200フイート(60.1m)クラスの単線下路の曲弦プラットトラスで、天竜川を右60度で斜めに跨いだため、斜橋として設計された。
端柱を垂直に立てたのが特徴で、両端を切り詰めたような形状にちなんで、トランケート(「切り詰める」の意)トラスと呼ばれている。斜橋としたため片側の端柱は斜材とし、絵葉書に見られるように「一歩前」に踏み出したような特徴的なスタイルとなった。設計荷重にアメリカで使用されていたクーパー荷重を用い、部材にアイバーを用いた典型的なアメリカ式のピントラスで、アメリカンブリッジ社で1904(明治37)年に製造された。同一設計のトラス橋は1910(明治43)年までに合計7連がアメリカから輸入され、肥薩線(4連)、山陰本線(2連)でも用いられたが、第1天竜川橋梁はその最初の1連目であった。
第1天竜川橋梁は、1906(明治39)年6月11日の岡谷~塩尻間の開業とともに使用を開始し、約70年間にわたって中央本線を支え続けたが、1983(昭和58)年に延長5,994mの塩嶺(えんれい)トンネルが完成し、岡谷~塩尻間はこのルートを本線とした。第1天竜川橋梁に取り付けられていた製造銘板は、現地の右岸側にある御倉町公園と左岸側にある橋原第一公園にモニュメントとして保存された。
第1天竜川橋梁の架け替えと同時に河川改修工事が行われたため、下部構造も撤去されたが、岡谷方にあった岡谷架道橋の跡地には明治時代の石積み橋台が残存し、旧線の痕跡を今に伝えている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2023年11月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
アイバーとは何のことですか?
A
ピントラスと呼ばれる、ピンを用いて部材を結合するトラス橋で用いられる棒状の部材になります。ピンを挿入する部分が目玉のような形をしていることから、アイ(目)バー(棒)と呼ばれます。明治時代のアメリカ製橋梁で多用されましたが、現在も建築構造などで用いられています。ピンを挿入する部分が、列車の振動や材料の劣化などでゆるみやすいという欠点があります。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
アメリカンブリッジ社の銘板は、珍しいんですか?
師匠
アメリカンブリッジ社の橋梁はあちこちで使われたから、いくつか残っているぞ。
小鉄
たとえば?
師匠
レプリカだが、横浜の汽車道という廃線跡の遊歩道に架かっている港1号橋梁と港2号橋梁に取り付けられている。
小鉄
銘板は、必ず取り付けるんですか?
師匠
必ず取り付けるわけではない。初めから銘板のない橋梁もあるし、戦争中の金属供出で外されてしまった橋梁もある。
小鉄
銘鈑に書く内容は決まっているんですか?
師匠
明治時代は特に定められていなかったが、1925(大正14)年に「鋼鉄道橋製作示方書」で基本的な記載事項や書式が制定された。
小鉄
それがこの図ですね。
師匠
これはあくまでも標準図で、銘板にはいろいろな種類があるから奥が深いぞ。
小鉄
師匠は調べ尽くしたんですか?
師匠
まだ一部だけしか把握していないが、『鉄道構造物を探る』という本を講談社で出版した時にいくつか紹介したことがある。
小鉄
さっそく買います……って、これって番宣ですよね。
近畿日本鉄道の前身である大阪電気軌道は、1923(大正12)年に西大寺を経由して橿原神宮前へ至るルートを開業させたが、より短い距離となる大和八木を経由する路線を計画した。そして、最初の区間として1924(大正13)年に足代(現在の布施)~八尾間を国分線として開業させ、翌年には恩智まで達した。この線は信貴山の参詣にも便利で、将来はさらに延伸して伊勢、名古屋方面へ進出するための足がかりとなる路線としても期待され、1927(昭和2)年には大和川橋梁を渡って八木に達し、1929(昭和4)年には桜井まで延伸された。
大和川橋梁は1937(昭和12)年に完成し、支間17.75mの単線上路プレートガーダ×13連を並列して架設した。橋脚は従来の重力式橋脚に代わって、中間梁のある鉄筋コンクリートラーメン構造を採用し、スマートで近代的な橋脚を実現した。桜井以東は、参宮急行電鉄、関西急行電鉄という別会社を設立して、伊勢、名古屋方面への進出を果たした。3社は、戦時体制のもとで合併して近畿日本鉄道が成立し、今日の路線網の基盤を築いた。
しかし、旧関西急行電鉄の路線は狭軌線であったため、標準軌の旧大阪電気軌道、旧参宮急行電鉄の路線と直通運転ができず、津付近の江戸橋(のち参急中川に変更)で乗換えなければならなかった。このため、戦後の1959(昭和34)年に標準軌に統一するための軌間拡幅工事が実施され、翌年には初代ビスタカー(10000系電車)を改良した第2世代の車両として新ビスタカー(10100系電車)が登場し、名阪直通特急としてデビューした。新ビスタカーの新製を記念して近鉄が発行した絵葉書には、安堂~河内国分間に架かる大和川橋梁を颯爽と渡る姿がおさめられた。ビスタカーは、当時としては珍しかった2階建て車両を連結した特急電車として人気を集め近鉄の看板列車となった。近鉄では2階建て車両が好評だったため、1960(昭和35)年には純国産の2階建てバス「ビスタコーチ」を登場させた。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2023年6月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
近鉄の軌間拡幅工事は、伊勢湾台風と関係があるんですか?
A
伊勢湾台風は、1959(昭和34)年9月26日に東海地方に未曾有の災害をもたらし、近鉄名古屋線はほぼ全線にわたって水没・冠水して、不通となりました。一方、名古屋線の軌間拡幅工事は、1957(昭和32)年より木曽川橋梁、揖斐・長良川橋梁の架け替え工事に着手していました。近鉄は、創業50周年を迎える1960(昭和35)年を目標として同年2月の完成をめざして軌間拡幅工事を進めましたが、伊勢湾台風の被害があまりにも甚大であったため、災害復旧を兼ねて軌間拡幅工事を前倒しで行うこととし、中川から段階的に軌間拡幅を実施して、1959(昭和34)年11月27日に米野駅構内で佐伯勇社長が最後の犬釘を打ち込んで軌間拡幅工事が完成し、同年12月12日から名阪直通特急として新ビスタカーが運転を開始しました。さらに1961(昭和36)年3月には、伊勢中川駅付近に短絡線(デルタ線)が竣工し、伊勢中川駅におけるスイッチバック運転が解消されました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
2階建ての電車は珍しいんですか?
師匠
数は少ないが、今でもあちこちで走っているぞ。
小鉄
最初はどこで走ったんですか?
師匠
日本では1904(明治37)年に大阪市電で初めて登場した。
小鉄
ええっ、そんな古くからあるんですか?
師匠
当時は、すでに香港で2階建てのトラムが走っていた。
小鉄
路面電車以外だと、どこが最初ですか?
師匠
そうなると、近鉄のビスタカーだな。
小鉄
今回の車両ですね。
師匠
いや、その前の1958(昭和33)年に初代のビスタカーがデビューした。
小鉄
ってことは、今回のビスタカーは二代目ってことですか?
師匠
そういうことになるな。その後も2階建て車両は近鉄の看板列車となった。
小鉄
国鉄では採用しなかったんですか?
師匠
1985(昭和60)年に登場した100系新幹線電車のグリーン車と食堂車で初めて採用した。
小鉄
懐かしいですね。
師匠
2階建ての食堂車は、今も名古屋市にあるリニア・鉄道館で保存されているぞ。
小鉄
そのあと東北・上越新幹線でも、オール2階建てのMAXが登場しましたね。
師匠
MAXもさいたま市の鉄道博物館で保存されているぞ。
小鉄
博物館へ行けば2階建て新幹線にまた会えるってことですね。
師匠
お前さんが100系新幹線やMAXを知ってるってことは、さては昭和の生まれだな。
長野県から新潟県へ流れ、日本海へと注ぐ信濃川は、日本一の長さを誇る川として越後平野を潤してきたが、しばしば水害をもたらす暴れ川でもあった。このため、大河津(おおこうづ)付近で分岐して日本海へ直接流下する分水路の開削が江戸時代から請願されていた。この計画は、明治維新直後の1869(明治2)年にようやく具体化されたが、1875(明治8)年に中止されてしまった。
その後、1909(明治42)年に内務省の治水事業として工事が再開されたが、ほぼ同時期に新潟と柏崎を結ぶ越後鉄道(のち国有化されて現在の越後線となる)の建設が進められ、1913(大正2)年に開業していた。しかし、大河津~地蔵堂間に大河津分水路が新設されることとなったため、1923(大正12)年に信濃川分水橋梁が完成した。この時に架設されたのは、明治時代に東海道本線などで用いられた支間200フィート(約61m)のイギリス製ダブルワーレントラスで、「信濃川分水路橋果」(「果」は「架」または「梁」の誤植?)と題した絵葉書には、架設がほぼ完了して通水を待つばかりの信濃川分水橋梁の全景がおさめられている。
端柱に記されている「15」という数字は橋梁の連数を示しているが、信濃川分水橋梁は9連で構成されるので、おそらく転用前の橋梁の標記がそのまま残っていたものと推察される。架設時期や15連以上を数える橋梁であったことを考慮すると、1913(大正12)年に架け替えられた東海道本線の天竜川橋梁(19連)から転用された可能性が高い。
大河津分水路は1924(大正13)年に完成したが、工事中に地すべりが発生したり、完成後に自在堰が陥没したため、その後も補修工事が継続された。また、信濃川分水橋梁も老朽化が進み、1949(昭和24)年に架け替えられて、現在に至っている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2018年12月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
橋梁でよく聞く「連数」は、どのように数えるのですか?
A
橋梁の両端部は必ず縁が切れた状態となりますが、これをひとつの単位とした橋梁の数のことです。単純桁はこれが1連となり、3径間を構成する場合は3連となります。連続桁や連続トラスでは、3径間で連続している場合はこれをひとまとめにして1連と数えます。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
師匠、信濃川大河津資料館の近くに「信濃川補修工事誌」って記念碑がありますけど、何を補修したんですか?
師匠
大河津分水路は1922(大正11)年に通水して、1924(大正13)年に竣功式を行なったんだが、1927(昭和2)年6月に自在堰の基礎部に洗掘による空洞が生じて陥没したため、信濃川の本流に水が流れなくなってしまった。
小鉄
どうなったんですか?
師匠
信濃川下流の用水路が枯れて、舟運ができなくなり、逆流した海水で上水道に塩が混じるようになってしまった。
小鉄
内務省の威信がかかっていた工事だから、大変ですね。
師匠
そこで、青山士(あきら)が内務省新潟土木出張所長に着任して、直ちに補修工事を開始した。
小鉄
パナマ運河の建設にも携わった人ですよね。
師匠
お前さんもよく知ってるな。
小鉄
どんな補修工事をしたんですか?
師匠
壊れた自在堰を撤去して、新たに可動堰を完成させた。
小鉄
自在堰と可動堰は何が違うんですか?
師匠
自在堰も広い意味では可動堰になるが、最初に用いられた堰はベアトラップゲートと呼ばれる起伏式の一種で、特殊な設計で機能が不足していた。
小鉄
可動堰では、どこが改良されたんですか?
師匠
新しく設置した可動堰は、上下に門扉を開閉する方式で、止水が容易で信頼性も高かった。
小鉄
記念碑には、「萬象ニ天意ヲ覺ル者ハ幸ナリ」「人類ノ爲メ、國ノ爲メ」という言葉が書かれてますけど。
師匠
青山士の言葉だ。版画家の棟方志功がこの碑を見て「いい言葉だねえ」と感動し、版画として残したほどだ。
小鉄
僕もそのうち名言を残せるように頑張ります。
師匠
お前さんの場合は、「名言」ではなくて「迷言」だろう。