岡山を起点として宇野までを結ぶ延長約32.8kmの宇野線は、四国へ渡るための本四連絡鉄道として建設され、宇野港で宇高連絡船を乗り継いで高松港へと渡っていた。
この宇野線が開業するまで、岡山方面から四国へ至る交通路は、岡山から小型船で旭川を下り、河口にある三蟠(さんばん)港で大型船に乗換えて児島半島を迂回して高松へ至っていた。このため、より四国に近い宇野に鉄道を接続させて高松へ航路で渡る新ルートが要望され、鉄道敷設法の第一期予定線として帝国鉄道庁岡山建設事務所により1907(明治40)年に工事が開始された。
まだ児島湾の干拓事業が進んでいなかったこともあって、湾の西側を大きく迂回するルートが採用され、地形は比較的平坦であったが、宇野に近い八浜~備前田井間に唯一のトンネルとして、延長2155フィート(656.8m)の児島トンネルが建設された。児島湾沿いには軟弱地盤が続いたが、児島トンネルは堅硬な地質であったため、掘削に困難を伴ったと伝えられる。
岡山県による宇野港築港事業も宇野線の建設とほぼ同時に行われ、宇野線と宇高連絡船は1910(明治43)年6月12日に開業した。「宇野線開通記念」の押印がある記念絵葉書には、児島トンネルと宇高連絡船の写真が添えられ、背景には別名「烏城(うじょう)」と呼ばれた岡山城と後楽園の花菖蒲が描かれた。
宇野線のうち岡山~茶屋町間は本四備讃線が開業したのちも本四連絡鉄道として機能し続けているが、茶屋町~宇野間は地域の足として利用され、現在に至っている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2017年11月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
地図を見ると宇野線の路線は、ずいぶん児島半島の西側を迂回していますが、なぜ岡山と宇野の最短距離じゃないんですか?
A
本文にもありますが、児島湾の干拓事業と関係があります。児島半島はもとも吉備児島と呼ばれる島でしたが、奈良時代から小規模な干拓が始まって、江戸時代の初期には本州と陸続きとなって児島半島になりました。明治維新以降の士族授産(幕藩体制の崩壊で失業した武士に生産活動を奨励した)の中で干拓事業が本格化して、宇野線が開通した明治末期頃にはちょうど宇野線のルートのあたりまで干拓が進みました。その後、大正時代~昭和時代と干拓事業が進んで現在の姿になりましたが、宇野線は開業時のままの位置なので、結果的に干拓が本格化する前の児島湾の範囲を示す目印となっています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
宇野線にある田井橋梁は、石積みでできていますが、児島トンネルは石積みと煉瓦積みなんですね。
師匠
田井橋梁は、石積みのように見えるが、実は初期のコンクリートアーチ橋だ。
小鉄
ええっ 写真だと全部石積みですけど……。
師匠
これは、外観を整えるためにコンクリートの表面に石を貼っているだけだ。
小鉄
コンクリート打ち放しのままじゃダメなんですか?
師匠
理由はいろいろ考えられるが、当時はコンクリートをそのまま見せることが躊躇されたようで、石材や煉瓦タイルを表面に貼ることが行われていた。
小鉄
児島トンネルはコンクリートを使わなかったんですか?
師匠
明治時代末期から大正時代にかけては、土木や建築の材料が煉瓦や石材からコンクリートへと変化した時代にあたる。
小鉄
それでコンクリート構造物と煉瓦構造物が混じってるんですね。
師匠
この時代に建設された鉄道路線の土木構造物を調べると、両方を使っていることがわかる。
小鉄
東京にもありますか?
師匠
東京から神田を経て万世橋あたりに至る中央線の高架橋は1919(大正8)年に完成したが、内部は鉄筋コンクリートで表面に煉瓦タイルを貼っている。
小鉄
外観を煉瓦積みで整えることにこだわったんですね。
師匠
当時の工事記録では、明治時代に完成していた東京~新橋間の煉瓦高架橋に合わせて外観を整えたとされる。
小鉄
石材を貼った例もありますか?
師匠
東京と神田の間に架かっている中央線の外濠橋梁は鉄筋コンクリートアーチ橋だが、田井橋梁のように石材を表面に貼って仕上げている。
小鉄
これから、材料の違いと土木の歴史の関係に注意して調べ直してみます。
師匠
土木構造物は見た目だけではなく、見えないところにも工夫があるから、現物だけではなく図面や工事記録にも丹念にあたる必要があるぞ。
小鉄
また宿題が増えましたね。
師匠
そういえば、いろいろと宿題が溜まっていると思うが、少しは解決してるのか?
小鉄
安心してください。見えないところで頑張ってますから。
日本の鉄道は、1872(明治5)年10月14日(旧暦9月12日)に開業式が行なわれて新橋~横浜間が開業し、この日がのちに鉄道記念日となった。このうち、品川~横浜間はそれより4か月前の6月12日(旧暦5月7日)に仮開業し、陸蒸気が牽引する列車が営業運転を開始した。このため、品川駅高輪口にある「品川駅創業記念碑」には、「明治五年五月七日」の日付と仮開業の際の時刻表が記されている(碑は品川駅改良工事に伴い一時撤去中)。
今から約百年前の鉄道開業50周年の際に発行された「鉄道開通五拾年紀念」絵葉書のうち「昔の品川駅」と題した絵葉書には、江戸時代の旅を象徴するキャラクターとして弥次さん喜多さんとおぼしきコンビが描かれ、絵師によって着色された品川駅の絵が添えられた。高輪沖を背景とした品川駅は、現在の品川駅よりも南側の八ツ山橋の北側付近にあり、東側は海岸線であった。
元の写真が不鮮明だったのか、絵葉書を制作した絵師の腕前が今ひとつだったのかは定かでないが、写真では海岸沿いに位置していた品川駅の様子をかろうじて確認できる。また、プラットホームを結んでいる鉄製の跨線橋は、1882(明治15)年に設置されたので、絵葉書の元となった写真はそれ以降の撮影と推察される。この跨線橋の柱には、同年に鉄道寮新橋工場で製造されたばかりの鋳鉄(ちゅうてつ)製の柱が使用され、川崎駅、神奈川駅の跨線橋でも用いられた。
高輪沖は、大正時代に本格的な埋立工事が開始され、品川駅構内も客車操車場を新設するなどして拡張されたほか、1933(昭和8)年には京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)が山側に接続して大きく変化した。
「品川駅創業記念碑」の背面に刻まれた仮開業当時の時刻表によれば、列車は1日2往復のみで、品川~横浜間の所要時間は35分であった(ちなみに現在の京浜東北線の品川~桜木町間の所要時間は約30分)。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2022年11月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
鋳鉄はどんな鉄材料のことですか?
A
鋳鉄は、鋼鉄に比べて炭素が多く含まれ、一般に2.1%以上含まれると鋳鉄とされています。溶かした鋳鉄を型に流し込んで作られたものを鋳物(いもの)と称し、砂型で型をとります。強度は劣りますが、簡易な設備で容易に製造することが可能で、日本では弥生時代にその技術が伝わったとされ、南部鉄器や梵鐘の製作などに用いられました。明治維新以後は、錬鉄や鋼鉄など強度特性に優れた鉄材料へと移行しますが、鉄柱や車両部品など複雑な形状の製造品で用いられました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
品川駅の右側は、海のように見えますけど、あんな場所に海岸線はありませんよね。
師匠
今は埋め立ててしまったから、品川駅からは海は見えないが、鉄道が開業した頃は、ほぼ海岸線に沿っていた。
小鉄
?
師匠
新橋と品川の間は、東海道の街道にそって人家が密集していて、鉄道を通すことが難しかった。
小鉄
それは困りましね。
師匠
そこで考えたのが、海側の高輪沖に築堤を築いて線路を通すことだった。
小鉄
つまり、鉄道を通すために海を埋め立てたってことですか?
師匠
2019(平成31)年に、高輪ゲートウェイ駅付近の工事現場でその築堤が発掘されて話題になった。
小鉄
高輪築堤のことですね。
師匠
その南端に設けられたのが品川停車場だ。当時の地図によれば今より八ツ山橋に近いあたりに位置していたらしい。
小鉄
あっ、地図にも跨線橋が描かれてますよ。
師匠
新橋~横浜間が開業した時は、品川駅と神奈川駅に「駅往還」と称して木製の跨線橋が設けられた。
小鉄
初めは木製だったんですね。
師匠
その後、1882(明治15)年に品川駅と神奈川駅は鉄製の跨線橋に改築され、川崎駅にも鉄製の跨線橋が設置された。
小鉄
新橋工場で製造された鋳鉄柱を使ったんですね。
師匠
その後も、鋳鉄柱を使った跨線橋は明治時代の末くらいまで使用された。
小鉄
そのひとつが、この滋賀県の東海道本線にある河瀬駅の跨線橋ですね。
師匠
河瀬駅は駅を橋上駅に改築した際に跨線橋が廃止され、モニュメントとして柱だけが移築保存されたが、こうした例は全国にいくつかあるぞ。
小鉄
そういえば、最近は橋上駅が多くなって、昔のような幅の狭い跨線橋は少なくなりましたね。
師匠
最近は老朽化やバリアフリー化などで昔ながらの跨線橋が姿を消しつつあるから、今のうちに記録を残しておく必要があるな。
小鉄
調べる時のポイントがありますか?
師匠
柱の間隔がポイントだ。通路の幅と階段の幅である程度規格化されていた。あとは、柱の銘は必ず確認しておくことだ。
小鉄
明治村の鋳鉄柱にも銘がありますね。
師匠
すべての鋳鉄柱に銘があるわけではないが、銘を確認することで製造年や製造所を特定できる。
小鉄
これからは注意して見てみます。
師匠
銘を探すことは構造物調査の基本だから、肝に銘じるように。
小鉄
それって、駄洒落のつもりですか?
師匠
余計なツッコミをするようでは、肝に銘じていないようだな
奈良県橿原市にある橿原神宮は、神武天皇を祀るために1890(明治23)年に創建され、建築家・伊東忠太の設計により完成した。1940(昭和15)年の紀元2600年では、社殿の改築や神域の拡張などの整備工事が行われた。これに合わせて、最寄り駅となる橿原神宮駅の整備や、臨時列車の運転などが実施され、新しい橿原神宮駅駅(駅が重複する「駅駅」を称したが1970(昭和45)年に現在の「橿原神宮前駅」に改称)は、大阪電気軌道、大阪鉄道、鉄道省(接続していなかったが連帯運輸を行っていた)の三社の「綜合駅」として完成した。
紀元2600年を記念して改築された現在の橿原神宮前駅の駅本屋は、大和棟と呼ばれる大和地方の民家に見られる急傾斜の屋根を採用した点に特徴がある。橿原神宮前駅の大和棟は、日本の伝統的な建築様式に新たな解釈を加え、簡潔明快、荘厳かつ清浄な緊張感あふれる造形へと昇華させた点に特徴がある。日本建築の様式美を、見事に現代に甦らせたデザインは、この駅を設計したとされる建築家・村野藤吾の並々ならぬ力量を示している。
橿原神宮前駅は、木造二階建の駅本屋として、1939(昭和14)年に完成し、皇族や要人のための貴賓室を備えた。大空間を支える太い梁の造形などから、一見、鉄筋コンクリート構造のように見えるが、実はすべて木造で、二階部分は大屋根の中に収容されている。屋根を支える小屋組として木造ラチス構造を用い、柱のない大空間を実現した。
のちにモダニズム建築の旗手として戦後の建築界を牽引した村野が、モダニズムを基調としながらも機能一辺倒に陥らず、繊細なディテールを多用して、どこか人間的な要素を残した点に特徴があった。橿原神宮前駅も、威圧感のある屋根で象徴される外観とは逆に、屋内のコンコースは柱の無い大空間を構成しつつ、壁面のレリーフや梁に施された「猪の目模様」の装飾、天窓や扉のディテールに村野らしい美的感覚を見出すことができる(特に「猪の目」はのちの村野藤吾の作品でもしばしば用いられた)。伝統的な和風建築をモダニズムの中でどのように咀嚼すべきか、その回答を帝冠様式という木に竹を接いだような安易な和洋の組み合わせではなく、大和棟を基調とした大胆な造形で示した点に、橿原神宮前駅の真価がある。(小野田滋)(書き下ろし)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
吉野鉄道は、今の何線ですか?
A
近鉄吉野線になります。吉野鉄道は、1912(大正元)年に国鉄線(和歌山線)の吉野口と吉野を結ぶ吉野軽便鉄道として開業しました。吉野軽便鉄道は1913(大正2)年に吉野鉄道と改称し、1923(大正12)年には吉野口~橿原神宮前間、翌年には橿原神宮前~畝傍間の支線(小房(おうさ)線)が開業しました。1929(昭和4)年に大阪電気軌道に吸収合併されて同社の吉野線となりましたが、大阪電気軌道の線路幅は標準軌(1,435mm)であったため乗入れができず、狭軌(1,067mm)を用いていた大阪鉄道と接続し、大阪方面(阿倍野)からの直通列車を走らせました。大阪電気軌道と大阪鉄道はともに大阪と奈良方面を結んでライバル関係にありましたが、最終的に両社は1943(昭和18)年に合併して翌年には近畿日本鉄道となり、大阪電気軌道は現在の近鉄橿原線、大阪鉄道は現在の近鉄南大阪線となりました。なお、小房線は、1945(昭和20)年に旅客営業を休止し、1952(昭和27)年に廃止されました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
「猪の目模様」って、どんな模様ですか?
師匠
ハート型をした模様のことだ。
小鉄
あっ、天井の梁の部分にあるこの模様のことですね。
師匠
イノシシの眼に似ているのでこの名があるとされる。
小鉄
眼というより鼻に似ているようにも見えますけれど……。
師匠
昔から伝わる模様だから、モチーフについては諸説あるが、日本の伝統的な模様のひとつだ。
小鉄
ってことは、ハート模様は日本人が考えたってことですか?
師匠
たまたま形が似ているだけだ。
小鉄
「猪の目模様」には何か特別な意味があるんですか?
師匠
魔除けとして用いられたようで、神社などの古建築や古代の刀装具などにしばしば見られる。
小鉄
そういえば、赤塚不二夫の漫画に出てくる「本官さん」も「猪の目」みたいな目をしてますよね。
師匠
「本官さん」を知っているってことは、さては昭和の生まれだな。
1934(昭和9)年に関西地方を中心に襲った室戸台風、1938(昭和13)年の阪神大水害(細雪水害)、1959(昭和34)年の伊勢湾台風など、大都市を襲った洪水はいくつか知られているが、東京もかつてこうした水害がたびたび襲い、大きな被害をもたらした。中でも1910(明治43)年8月の台風により利根川水系や荒川水系が氾濫し、関東平野一帯は水没してしまい、死者行方不明者は約1,400人を数えた。
特に東京の下町低地の被害は甚大で、「明治四十三年八月都下稀有ノ大洪水」と題した絵葉書には、常磐線三河島駅に停車中の列車に住民が避難している様子が捉えられている。水位はプラットホームよりも低いが、線路は完全に水没して膝まで浸かるほどである。
この洪水は、「天明以来125年目の洪水」(天明の災害は、浅間山の噴火や洪水、東北地方の冷害などが重なり、天明の大飢饉をもたらした)と称され、東京では江戸時代から久しく忘れられかけていた水害への記憶を喚起した。政府はこれを契機として臨時治水調査会を設置し、国の直轄事業によって荒川の改修計画が立案され、現在の荒川放水路が完成した。
東京は、その後も1917(大正6)年に大水害があり、また、1949(昭和24)年のキティ台風や、1958(昭和33)年の狩野川台風などで、江東区を中心として下町の低地は大きな被害を受けた。そして、外郭堤防や水門、排水機場の整備が進み、東京における大規模な水害はようやく過去のものとなった。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2010年6月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
三河島駅について、災害の記録が残っていますか?
A
『四十三年八月水害記要・第一編』鉄道院工務課(1911)という文献によれば、常磐線の田端南千住間は「二哩六十八鎖三哩四十六鎖(三河島駅及其前後)浸水、三河島構内軌條面上一尺一寸餘ニ達ス。」とあって、レール面上約30cmまで水に浸かったようです。このことは、絵葉書の写真で外を歩いている人物の膝あたりまで水に浸かっていることからも理解できます。この区間が不通になったのは「(八月)十一日(午)後三時」開通は「十三日(午)前八時三十分」でした。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
絵葉書の列車のお客さんは、周囲が水に浸かって客車の外に出られないという状況ですか?
師匠
絵葉書のキャプションには「住民汽車中ニ避難ノ惨状」とあるから、乗っているのは駅に停まっていた列車に避難した周辺住民のようだ。
小鉄
つまり、住民の避難所に列車を利用しことですか?
師匠
そういうことになるな。低地で高い建物もほとんどない時代だから、自宅よりも床が高い客車の方が安全だったんだろう。
小鉄
客車もずいぶん小さいから、窮屈そうですね。
師匠
車輪が2軸のみの客車で、「2軸車」とか「単車」とか「マッチ箱」と呼ばれていた。
小鉄
マッチ箱?
師匠
夏目漱石の小説「坊っちゃん」に、「乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。」として登場する。
小鉄
この客車、どこから出入りするんですか?
師匠
イギリス式の客車で、座席ごとに扉があって、扉は外側へ開くようになっていた。
小鉄
あっ、よく見ると側面に扉の取っ手が並んでますね。
師匠
連結器も、古い螺旋式の連結器で、緩衝器が両側に付いている。
小鉄
妻面に取り付けてある筒みたいな物は、トイレか何かですか?
師匠
これは手ブレーキ装置のカバーだ。
小鉄
連結器の右横にある縦のホースも気になりますね。
師匠
あれは、真空ブレーキのホースだ。
小鉄
今の車両とずいぶん違いますね。
師匠
2軸客車は、今も乗ることができるぞ。
小鉄
どこで走ってるんですか?
師匠
愛知県犬山市の明治村館内でSL列車として、「SL東京駅」と「SL名古屋駅」の間を結んでいる。
小鉄
所要時間はどのくらいですか?
師匠
「坊ちゃん」が乗ったマッチ箱と全く同じだ。「ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。」ということで、約5分間だ。
小鉄
リニアより早いじゃないですか!
総武本線の両国駅と中央本線の御茶ノ水駅を結ぶ高架線は、1932(昭和7)年に開通したが、外堀通りと昌平橋通りが交差する昌平橋交差点を斜めに横断して、松住町架道橋が架設された。松住町架道橋は、交差点に橋脚を建てることを避けるため、支問71.96m、主構中心間隔8.50m、上弦材中心までの高さ11.27m、総重量581.469tの巨大な複線下路ブレーストリブ・タイドアーチ橋として設計され、都市部における騒音防止のために、バックルプレートを用いた有道床式とした。
橋梁の上部構造は東京石川島造船所で製造され、施工監理は鉄道省東京第二改良事務所、施工は大林組により行われた。松住町架道橋の架設は、地盤面から足場を組んで架設作業を行なう足場式により行なわれたが、昌平橋交差点は市電も通過する交通の要衝であったため、路面交通を妨げないよう路面上4.85mの空頭を確保することとした。
施工にあたっては車両などの衝突で足場が変形しないよう接地部分をコンクリートで十分に根固めしたほか、落下物を防護するため板囲いと鉄網で足場を囲って万全を期した。また、部材の組立てには、両側の橋台上にクレーンを設置して行われた。足場の組立ては1932(昭和7)年3月下旬に開始され、同年6月下旬までに塗装工事を含めてすべて完成した。
ブレーストリブ・タイドアーチ橋は、道路橋でいくつか建設された実績があるが、鉄道橋ではきわめて数少なく、その後はランガー橋やローゼ橋など、よりスマートなスタイルのアーチ橋が主流となった。「大東京(神田区)省線電車お茶水秋葉原間東洋一の陸橋」と題した絵葉書には、昌平橋交差点の上空を斜めに跨ぐ松住町架道橋の全景がおさめられたが、その勇姿は今も地域のランドマークとして機能している。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2023年1月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
松住町架道橋はトラス橋のようにも見えますが、アーチ橋なんですか?
A
アーチ橋の一種になります。和弓の弦(つる)にあたる部分のように、アーチの端と端を直線の部材(タイ)で緊結して、水平方向の力を引張力として伝達する構造のアーチ橋を「タイドアーチ」と呼んでいます。アーチのリブ(肋骨)材としてブレース(筋交い)を用いていて、ここがトラスを組んでいる部分になります。このため、この形式を「ブレーストリブ・タイドアーチ」と呼んでいて、かつて日本語では「楔形構繋拱」などとも書かれました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
ブレーストリブ・タイドアーチ橋って、舌をかみそうな名前ですね。
師匠
どこかで見た形だと思わんか?
小鉄
あっ、ドボ鉄第76回の八ッ山橋と同じ形ですよね!?
師匠
よく覚えていたな。八ッ山橋は鉄道を跨ぐ道路橋だったが、松住町架道橋は鉄道橋だ。
小鉄
あまり鉄道橋では見ないですよね。
師匠
日本の鉄道橋ではここと、あとは新日鐵くろがね線の枝光橋だけになるな。
小鉄
枝光橋もドボ鉄第36回で紹介済ですね。
師匠
枝光橋は1939(昭和5)年だから、松住町架道橋よりも2年ほど早く完成した。
小鉄
松住町架道橋が日本最初ではないんですね。
師匠
最初ではないが、枝光橋はもう鉄道は通っていないから、現役の鉄道橋では松住町架道橋だけになってしまった。
小鉄
松住町架道橋は、交差点の真上に架かっているから、威圧感が半端ないですね。
師匠
交差点を斜め方向にひとまたぎで横断しなければならないから、アーチ橋くらいしか選択肢はない。
小鉄
上路のトラス橋かアーチ橋でも、うまく解決できそうですけれど?
師匠
そうなると道路の空間が狭くなって、余計に威圧感が増すから、下路を選択して橋梁の下の空間をなるべく広く確保した。
小鉄
そう言えば、昌平橋の交差点をくぐる時に、頭の上にあんな大きな橋が架かっているなんて、今まで気がつきませんでした。
師匠
秋葉原の駅で東京~上野間の高架橋を跨がなければならないから、このあたりは高架橋を含めて高い位置を通過することになった。
小鉄
たしかに、普通の高架橋よりも高い位置を通過してますね。
師匠
今はビルに囲まれてしまっているが、完成した頃は低層の建物ばかりだから、遠くからもよく見えたと思うぞ。
小鉄
ランドマークってことですね。
師匠
ほかに無い特徴的な橋を架けることによって、ランドマークとして機能していたのかもしれないな。
小鉄
松住橋架道橋の手前で神田川を跨いでいる橋脚も変わった形をしてますね。
師匠
神田川橋梁だな。π(パイ)型ラーメンの馬脚(うまあし)と上路プレートガーダを組合わせて、神田川に橋脚を建てないように設計された。
小鉄
このあたりの橋はそれぞれ違った形をしていて面白いですね。
師匠
なぜここにこんな形の橋が架かっているのか、橋の形式にこだわって深掘りすると景色が違って見えるようになるぞ。
黎明期における停車場の乗降場(プラットホーム)屋根を支える小屋組は、木材をトラスで組んだ木骨トラス造であったが、明治時代末~大正時代になると鉄材料が普及し、木骨トラスでは難しかった大空間を実現した。
1889(明治22)年、九州鉄道によって開業した博多駅は、路線網の拡大とともに手狭となり、日露戦争後にその改築計画が具体化した。二代目博多駅の建設は、1906(明治39)年に開始され、翌年の九州鉄道国有化を経て1909(明治42)年に完成した。
「博多停車場プラットホーム」と題した絵葉書は、駅本屋に隣接して設けられた第1乗降場を鹿児島方から撮影した1枚で、鋳鉄柱が整然と並んで小屋組の鉄骨トラスを支え、大空間を確保していることが理解できる。鋳鉄柱は片側22本が用いられ、その門司方に跨線橋の階段を設けた。鋳鉄柱を用いて鉄骨トラスの小屋組を支えて大空間を確保する手法は、すでに工場建築などで用いられていたが、博多駅の乗降場では左右両側の鉄骨をカンチレバー式で大きく張出して軒を構成し、列車の乗降に支障しないよう工夫されている。
二代目博多駅は、1963(昭和38)年に約600m東側に離れた現在の地に移転したため乗降場も解体され、鋳鉄柱の一部が近隣の住吉神社(博多区住吉三丁目)で保管された。その後、2011(平成23)年に完成したJR博多シティの建設にともなって、その屋上に「つばめの杜(もり)ひろば」が設けられ、モニュメントとして再利用された。「ひろば」には、「九州鉄道建設之恩人ヘルマン・ルムシュッテル」の顕彰碑もある。なお、鉄骨造の小屋組を用いた乗降場は、1914(大正3)年に完成した東京駅や京都駅(二代目)でも使用されたが、博多駅ではそれよりもやや早く用いたことになる。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2022年7月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
ルムシュッテルはどんな人ですか
A
ヘルマン・ルムシュッテル(Hermann Rumschöttel/1844~1918)は、お雇い外国人として来日したドイツの鉄道技術者です。ベルリン工科大学を卒業してプロイセン国鉄に在籍しましたが、1887(明治20)年に来日して九州鉄道技師長として九州の鉄道建設を指導し、1892(明治25)年には九州鉄道を辞して東京の駐日ドイツ公使館付の技術顧問となりました。東京では、日本鉄道の高架線計画などに携わり、ベルリンの煉瓦アーチ式高架橋の採用を提案しました。このほか、讃岐鉄道や住友別子鉱山鉄道などにも関与しました。1894(明治27)年に帰国して、機械製造会社の社長や鉄道局の顧問となりました。ルムシュッテルの来日によって、ドイツ流の鉄道技術がもたらされ、特にレール、橋梁、蒸気機関車がドイツから輸入されるようになりました。博多駅にあるレリーフは、鉄道友の会と国鉄門司鉄道管理局によって国鉄88周年記念事業として、1960(昭和35)年に制作されました。元々は博多駅のコンコースにありましたが、2011(平成23)年のJR博多シティ開業時に、その屋上にある「つばめの杜ひろば」の鉄道神社横に移設されました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
博多駅は第49回のドボ鉄でもとりあげたから、久々の登場ですね。
師匠
前回は、駅の移転がテーマだったが、今回は移転前の駅の紹介だ。
小鉄
国有化後の1909(明治42)年に完成したんですね。
師匠
よく知ってるな。九州鉄道は1907(明治40)年に国有化された。
小鉄
博多駅の設計者はわかっているんですか?
師匠
九州鉄道工務課にいた建築技師の松室重光とされているが、松室は1905(明治38)年に京都府技師から九州鉄道に入社して、1908(明治41)年には関東都督府へ移るから微妙なタイミングだ。
小鉄
国の重要文化財になっている門司港駅も同じ頃ですよね。
師匠
現在の門司港駅は1914(大正3)年に完成したが、こちらの設計者も不明だ。
小鉄
松室さんですかね?
師匠
関与していたかもしれないが、確証はない。
小鉄
九州だからドイツ人かもしれないですよ。
師匠
一時はドイツ人が設計したとも言われていたが、どうもルムシュッテルや八幡製鐵所に招かれていたドイツ人技師と混同されているようだ。
小鉄
そう言えば、門司港駅と博多駅は、なんとなく似ているようにも見えますね。
師匠
中央に大広間を設けるスタイルは、駅建築の基本だったから、どうしても似たような姿になるな。
小鉄
でも博多駅の平面図をよく見ると、一二等待合室が駅長室の近くにありますよ。
師匠
当時は、待合室は乗車する車両によって分けられていたから、博多駅では三等と完全に分けようと考えたのかもしれないな。
小鉄
あと、「婦人室」もありますよ。
師匠
今は女性専用車というのがあるが、この頃は婦人専用の待合室があった。
小鉄
それに、出札室が広間の真ん中にあって、集札場が駅の端にありますよ。
師匠
この時代の大規模な駅は、切符を購入して改札をくぐる乗車口と、切符を回収して改札の外へ出る降車口を完全に分けていることが多かった。
小鉄
細かく見ると、駅構内の様子が今とだいぶ違っていることがわかりますね。
師匠
「小荷物取扱」とか「手荷物渡シ場」などという場所も、今の駅には無いな。
小鉄
駅の内部の使い方を調べると、その頃の習慣や鉄道営業の考え方がわかるってことですね。
師匠
初めの頃の駅は、そのあたりの考え方がまとまっていなかったが、大熊喜邦という建築家が1905(明治38)年の『建築雑誌』に「停車場に於ける重要三室の配置並に待合室に就て」という論文を発表しているから、この頃から駅構内の配置が大きな課題になっていたようだ。
小鉄
駅も建物の外観だけでは無くて、その使い方が時代によって変化するんですね。
師匠
駅の内部をどう使っていたかということはあまり調べられていないから、調べる価値はあるぞ。
小鉄
師匠からの宿題がまた増えちゃって、もう満腹ですよ。
師匠
一度に解決しようとせず、「小さいことからコツコツと」が大切だ。
小鉄
それって、西川きよし師匠の決めゼリフですよね。
師匠
同じ「師匠」の格言だ