複雑な地質と峻険な地形を克服して建設されたわが国の鉄道は、いくつかの路線でその後も災害に悩まされることとなった。香川県の多度津と高知県の窪川を結ぶ土讃線も、徳島県と高知県の県境付近で中央構造線に沿った地すべり地帯を通過するため、建設時から災害の要注意箇所として厳重な監視が続けられていた。
「歩危の絶勝」と題した戦前の絵葉書は、吉野川に沿った土讃線・阿波川口~小歩危間の風景を多度津方から撮影したもので、手前に白川橋梁の上路トラス橋が架かり、その向こうには下山トンネルを出たばかりの上り列車が橋梁にさしかかっている。この写真の手前の区問は、しばしば台風の来襲を受け、1945(昭和20)年10月3日から8日にかけて、約1,500立方メートルの土砂が崩壊し、復旧までに約1カ月を要した。
さらに、翌年12月の南海地震でも地すべりを生じるなど安定しなかったため、現場付近に保線区員を常駐させて警戒にあたった。その後も、重大事故には至らなかったものの脱線や線路支障が頻発し、この区間を通過する連合軍輸送列車の運行にも支障した。
このため、阿波川口~西宇(現在の小歩危)間の伊予川橋梁を架替え、延長2,179.6mの山城谷トンネルを新設して災害区間を回避することとし、1948(昭和23)年6月に着工して1950(昭和25)年3月には導坑が貫通して、同年11月4日に新線に切替えた。
国鉄では、土讃線の災害を教訓として、1962(昭和37)年、内外の専門家を集めた土讃線防災対策委員会を設置し、災害のメカニズムや対策、災書危険度に対する考え方などを検討した。さらに1972(昭和47)年に発生した繁藤(しげとう)災害を契機として、四国総局防災対策委員会を設置し、広域防災に対する科学的アプローチがなされるようになった。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2019年10月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
国鉄の土讃線防災対策委員会と四国総局防災対策委員会は、どんな役割を果たしたんですか?
A
かつての土讃線沿線は災害の常襲地帯だったため、1962(昭和37)年には国鉄本社に土讃線防災対策委員会が設置され、島秀雄技師長を委員長(のち藤井松太郎技師長)とする委員会で対策案が検討され、1964(昭和39)年には大歩危~土佐岩原間、大杉~角茂谷間の2か所については抜本的な対策を行う必要があるとした答申を行ないました。国鉄では、この答申に基づいて1966(昭和41)年に大歩危~土佐岩原間の路線変更工事を実施し、1968(昭和43)年に大歩危トンネルが完成しました。さらに大王信号場~土佐北川間の線路変更工事が進められて1972(昭和47)年に大杉トンネルが完成し、翌年に新線に切替えました。しかし、こうした対策工事が進められるいっぽうで、1972(昭和47)年7月5日には繁藤駅構内で大規模な地すべりが発生し、死者行方不明者60名を数える大惨事となり、さらに防災機能を強化することが求められました。このため、1973(昭和48)年には国鉄四国総局内に四国総局防災対策委員会(委員長は香川大学・斎藤実農学部長)が設置されて、1975(昭和50)年に防災対策として大杉~大王信号場間についてトンネルの新設が必要であるとの指摘が盛り込まれ、大豊トンネルを建設して路線変更を行うこととしました。線路変更工事では、大杉トンネル以南の大王信号場、土佐北川駅を含む延長約3.0kmを穴内川右岸から左岸側に移設し、新線には延長2,067mの大豊トンネルが新設されて、1986(昭和61)年に完成しました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
大歩危、小歩危って、誰かがウケ狙いで付けた地名ですか?
師匠
何を言っておる。災害地名のひとつだ。
小鉄
?
師匠
「歩危」という字が、土地の状況をよく表しているぞ。
小鉄
あっ、ほんとだ。「歩く」のが「危険」な場所ってことですね。
師匠
災害地名は、災害を受けやすい場所や、危険な場所を示す地名のことで、全国各地にあるとされている。
小鉄
たとえば?
師匠
東京だと荻窪とか沼袋とか渋谷とか「窪」「沼」「谷」などが付く土地は災害地名だとされているが、少なくとも荻窪あたりは武蔵野台地の平坦地だから、災害が多い土地ではない。
小鉄
たしかに、災害とは縁が無さそうですね。
師匠
地名の起源は災害以外にもいろいろな由来があるから、「窪」「沼」「谷」が付いているからといって、すべてが災害地名という訳ではないぞ。
小鉄
地名の由来も複雑なんですね。
師匠
「歩危」も断崖を示す古語の「歩危(ほき、ほけ)」に由来するとか、「崩壊(ホケ)」とも書くとか、諸説ある。
小鉄
「歩くのが危険」だけじゃないんですね。
師匠
それに、開業した時の駅名は小歩危駅が西宇駅、大歩危駅が阿波赤野駅と土地の名前を付けていて、どちらも災害には関係ない地名だった。
小鉄
地名の由来は、あとから解釈したもっともらしい俗説がひとり歩きしたりするから、鵜呑みにしないように注意が必要ってことですね。
師匠
今日の結論は「災害地名もほどほどに」だな。
モノレールは、別名「単軌鉄道」と呼ばれ、古くからアイデアはあったが、旅客用の公共交通機関として実用化されたのは、1901(明治34)年に開業したドイツのヴッパタール懸垂鉄道が最初とされている。日本でも、戦前から計画があったものの実現せず、1957(昭和32)年に開業した延長0.3kmの東京都交通局による上野動物園の懸垂式モノレールが地方鉄道法の免許を受けた最初のモノレールとなった。
日本における初期のモノレールは、もっぱら動物園や遊園地の娯楽施設として試作的に開業したが、本格的な都市交通機関として最初に営業を開始したのは、1964(昭和39)年に開業した東京モノレールであった。東京モノレールは、東京オリンピックの開催に合わせて、浜松町を起点として羽田空港の間の延長13.0kmを結ぶ交通機関として建設された。モノレールは、軌道桁にぶら下がる懸垂式と、軌道桁を跨ぐ跨座(こざ)式に大別されるが、東京モノレールでは跨座式が採用された。
「モノレールと東京タワー」と題した絵葉書には、東京タワーを背景に快走するモノレールの姿がおさめられ、運河に鉄筋コンクリート構造のT型橋脚を建て、プレストレスト・コンクリート製の軌道桁を車両が跨いでいる。中央にはわが国最初の超高層ビルとして1968(昭和43)年に完成した霞が関ビルの姿も確認でき、絵葉書が昭和40年代の初頭~半ば頃に撮影されたことが推察される。
霞が関ビルを契機として超高層ビルの時代が訪れ、広かった東京の空は、ほどなくして建物で覆われてしまうことになる。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2014年2月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
跨座式モノレールと懸垂式モノレールでは、どんな特徴がありますか?
A
懸垂式は雨や雪が走行面にたまることがないため、天候の影響を受けにくいとされています。また、跨座式は軌道桁を跨ぐだけで構造が単純なので、軌道部分が複雑となる懸垂式よりも建設費が少ないとされています。ちなみに、現時点で懸垂式を採用しているは、国内では千葉市の千葉都市モノレールと、神奈川県(鎌倉市/藤沢市)の湘南モノレールの2社のみで、東京モノレールを含めてすべて跨座式を採用しています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
久しぶりにモノレールの登場ですね。
師匠
これまで湘南モノレールや、奈良ドリームランドのモノレールを紹介してきたが、今回はモノレールが都市鉄道の分野に進出するきっかけとなった、東京モノレールの紹介だ。
小鉄
いよいよ真打ち登場ですね。
師匠
東京モノレールは、1964年に開業したんだが、それまでのモノレールは遊園地や動物園などのごく限られた輸送機関として使われていて、延長も数kmくらいしかなかった。
小鉄
東京モノレールは、浜松町から羽田空港までだから、それまでよりも距離が長かったってことですか?
師匠
開業時の路線長は、延長約13kmだった。
小鉄
それまでの一番長い日本のモノレールはどのくらいだったんですか?
師匠
よみうりランドモノレール(神奈川県)の延長2.9kmだった。
小鉄
一挙に4倍ってことですね。
師匠
これくらいの距離になると、都市鉄道としても立派にその役割を果たすことなるから、東京モノレールはモノレールが都市交通機関としても充分に使えることを証明したことになる。
小鉄
都市モノレールが登場するきっかけになったってことですね。
師匠
当時、都心から羽田空港へ直行できる唯一の鉄道だったから、重宝された。
小鉄
オンリーワンだったんですね。
師匠
厳密には京浜急行の羽田空港駅が1956年に開設されていたが、今の天空橋駅より200mくらい蒲田寄りの場所にあって、羽田空港とはだいぶ離れていたから、名ばかりで空港アクセス鉄道としてはほとんど機能していなかった。
小鉄
今は第1ターミナル駅と第2ターミナル駅がありますよ。
師匠
羽田空港の沖合展開などで、1993年に空港線を延長して羽田空港内へ乗り入れた。
小鉄
東京モノレールにとっては、ライバル出現ですね。
師匠
利用者から見ればアクセスの選択肢が増えるから、より便利になったということになるかな。
小鉄
師匠はいつも、どっちを利用するんですか?
師匠
バスやタクシーを含めていつも気まぐれだ。
小鉄
ルーティンはないんですか?
師匠
あえていうなら、同じ交通機関では戻らないというのが定番かな。
小鉄
師匠らしいこだわりですね。
師匠
違う手段で帰れば、何か新しい発見や出会いがあるかもしれないぞ。
小鉄
なんだか大げさですけど、僕もこれから外食する時は毎回違う店を選ぶようにしてみます。
師匠
お前さんの場合は、単なる食欲だろ。
橿原神宮前(かしはらじんぐうまえ)駅(ドボ鉄113回参照)に隣接する畝傍御陵前(うねびごりょうまえ)駅と橿原神宮西口駅は、橿原神宮前駅と同じ大和棟を用いた駅として同時期に完成し、規模は小さいものの橿原神宮前駅とほぼ同じスタイルを用いた。
このうち、畝傍御陵前駅は、総合駅となる前の橿原神宮前駅があった場所にあたり、神武天皇陵の最寄り駅となった。畝傍御陵前駅には、和歌山線の畝傍と橿原神宮前駅を結ぶ吉野鉄道小房(おうさ)線(大阪電気軌道への合併当初は吉野線の一部)が1928(昭和3)年に接続し、省線からの乗入れ列車が運転された。小房線の旅客営業は1945(昭和20)年に中止され、1952(昭和27)年に正式に廃止された。
橿原神宮前駅の基本設計は建築家の村野藤吾が手がけたが、具体的な設計と施工は大林組により行われた。おそらく、畝傍御陵前駅は橿原神宮西口駅とともに村野の原設計に基づいて大林組がアレンジしたことが推察されるが、具体的な記録は残っていない。
近鉄南大阪線にある橿原神宮西口駅は、橿原神宮裏参道のために大和池尻駅を改築して1940(昭和15)年に完成し、同時に駅名を橿原神宮西口に改称した。橿原神宮に面した北口に駅本屋を設けたが、小規模ながらも橿原神宮前駅や畝傍御陵前駅と同様に大和棟を基調とした。この駅舎は、1999(平成11)年から翌年にかけて、構内踏切の解消とバリアフリー化を目的として、地下自由通路の新設工事が行われた。
総合駅として完成した橿原神宮前駅は、大阪電気軌道橿原線の広軌線と、大阪電気軌道吉野線、大阪鉄道線の狭軌線が接続し、現在も橿原神宮前駅構内の一角に軌間変更設備を設けている。このため、構内の一角に狭軌と標準軌を併設した、珍しい4線軌条がある駅としても知られている。(小野田滋)(書下ろし)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
橿原神宮前駅にある台車振替場は、何のための施設ですか?
A
近鉄南大阪線と吉野線は狭軌線(軌間1,067mm)なのですが、所属車両の全般検査や改造工事を行うための工場(検修車庫)は標準軌線(軌間1,435mm)の大阪線・五位堂にあります。このため、橿原神宮前駅にある台車振替場で狭軌用の台車を外して標準軌用の仮台車に交換し、電動貨車の牽引によって回送します。台車振替場の庫内にはカーリフターがあり、左右両側から車体を持ち上げて車体と台車を切り離し、線路下の横溝(ピット)を利用して台車をトラバーサによって直角方向に隣の線へ抜き取ります。入れ替わりに標準軌の仮台車を装着し、隣の線に外した狭軌の台車は天井クレーンで持ち上げて電動貨車の荷台に載せ、仮台車を履いた車両を連結して約11km離れた五位堂まで回送されます。これらの一連の作業を行うため、台車振替場付近の線路には狭軌と標準軌が併設された珍しい4線軌条が存在します。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
今回は、橿原神宮前駅の続編ですね。
師匠
今回紹介するのは、その隣の駅の畝傍御陵前駅になる。
小鉄
そっくりですね。
師匠
実は、その西隣の橿原神宮西口駅も同じスタイルだ。
小鉄
あっ、ほんとだ。大きさは違いますけど、三兄弟ですね。
師匠
この3駅の駅本屋は、紀元2600年記念でほぼ同時に完成している。
小鉄
つまり設計者が同じってことですか?
師匠
具体的な記録が残っていなので詳細は不明だが、村野藤吾の設計案を基にして大林組がアレンジしたようだ。
小鉄
橿原神宮西口駅もこの時に完成したんですか?
師匠
橿原神宮西口駅は、もともと大和池尻という駅で、1940(昭和15)年に駅舎を改築して駅名も橿原神宮西口に改めた。
小鉄
当時のままの姿ですか?
師匠
2000(平成12)年に駅を改造していて、木造の小屋組を残したまま1階部分を鉄骨造にしている。
小鉄
ってことは、屋根はそのままなんですか?
師匠
ほぼそのままだが、10mほど曳家をして場所を移動した。
小鉄
「ひきや」って何ですか?
師匠
文字通り、建物をそのままの状態で曳いて、移築する方法だ。
小鉄
駅で使うこともあるんですか?
師匠
JRの奈良駅や南海の浜寺公園駅も曳家をして、古い建物を保存した。
小鉄
曳家をすれば、古い建物をそのまま保存できるってことですね。
師匠
移動先の用地を確保することが必要で、規模が大きい建物には向かないという制約はあるが。
小鉄
長い距離の移動も難しそうですね。
師匠
一般の住宅でも時々使われるぞ。
小鉄
一度見てみたいですね。
師匠
YouTubeの動画にいくつか映像が紹介されているぞ。
小鉄
さっそく見てみます。
山梨県大月市にある猿橋は、錦帯橋(山口県)、かずら橋(徳島県)と並ぶ日本三奇橋(三番目については諸説あり)として知られ、いわゆる刎橋(はねばし)の一種として中世末~近世初期には存在していたと伝えられる。1902(明治35)年に鳥沢~大月間が開業した際の中央本線は、鳥沢から桂川の左岸を迂回した後、猿橋の手前で桂川を渡っていた。
「猿橋及東京電燈株式会社八ツ澤発電所第一水道橋」と題した絵葉書には、中央本線の第1桂川橋梁を手前として、八ツ沢発電所の第一号水路橋があり、さらにその奥に猿橋がわずかに見える。第1桂川橋梁は、支間154フィート(46.9m)の単線上路プラットトラスで、下弦材の一部にアイバーを用いたアメリカ製のトラスであった。
第1桂川橋梁の下に白く写る鉄筋コンクリートアーチ橋は、キャプションにもあるように東京電燈(現在の東京電力の源流となった電力会社のひとつ)の八ツ沢発電所第一号水路橋で、1912(明治45)年に完成した。猿橋の姿は、中央本線のトラス橋と八ツ沢発電所の第一号水路橋の間にわずかに覗くだけであるが、当時の中央本線の車窓からはよく見えたと伝えられる。
絵葉書の撮影年代は不明であるが、列車は木造客車のみの編成で、連結部に緩衝器があり、八ツ沢発電所第一号水路橋が完成しているので、大正時代の初期あたりの撮影であると判断される。
中央本線の鳥沢~猿橋間は、複線化工事にあわせて桂川の右岸を短絡する新ルートが建設され、1968(昭和43)年に新線に切替え、新ルートには橋長513mの新桂川橋梁が架設された。第1桂川橋梁のトラスはすでに撤去されたが、廃線跡には橋台やトンネルが現存し、かつて中央本線の列車が走っていた頃の面影をとどめている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2016年12月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
刎橋は、どんな橋ですか?
A
刎橋はいわゆる片持ち梁(かたもちばり:片方の支点だけで支える構造のこと)の原理を用いていて、刎ね木を突き出して、その上に刎ね木を積み重ねながらより長く突き出して橋を構成した橋です。この手法を用いることによって、橋脚を用いずに橋を架けることが可能となります。現在の猿橋は、1984(昭和59)年に江戸末期の姿をイメージして復元した橋で、鋼材に板を張り付けて木橋のように見せています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
桂川って、相模川のことですよね?
師匠
ドボ鉄112回の「メチャメチャになった馬入川(ばにゅうがわ)の鉄橋」のQ&Aでも紹介したが、山梨県では「桂川」、神奈川県では「相模川」と呼んでいて、下流では「馬入川」と呼ばれている。
小鉄
中央本線が渡ったのは山梨県内の「桂川」だったから、その1番目の「第1桂川橋梁」ということなんですね?
師匠
歴史の古い路線では、川沿いに路線を求めることが多かったから、同じ川を何度も渡る路線が多い。
小鉄
中央本線と桂川の関係もそうですね。
師匠
橋梁も、同じ川を何度も渡ることになるから、管理上、第1、第2、第3……と順番を付けて区別していた。
小鉄
第1桂川橋梁があるってことは、第2桂川橋梁もどこかにあるんですね。
師匠
大月~初狩間に第2桂川橋梁が架かっているが、桂川はこのあたりから中央本線と別れて河口湖方面へ南下するから、桂川に架かっているのはこの2橋だけだ。
小鉄
何度も渡る川は全国にありそうですけど、いちばん多く渡るのはどこの川ですか?
師匠
岩手県を流れている閉伊川(へいがわ)にそって盛岡~宮古を結ぶ山田線が走っているが、第1閉伊川橋梁~第34閉伊川橋梁まである。
小鉄
ええっ 34回も同じ川を渡るんですか!
師匠
橋を渡るたびに、車窓の川の向きが左右で逆になる。
小鉄
車窓の景色は川側の方がいいから、いつも川側を選んで座ってるんですが、山田線は忙しいですね。
師匠
あと、桂川を含む相模川は、今のところ全国で唯一、リニアと新幹線と在来線が渡っている川になる。
小鉄
ほんとだ。
師匠
リニアが完成したら、もっと増えることになるが。
小鉄
橋梁の名前も、いろいろと調べると面白そうですね。
師匠
橋梁に限らず、トンネルや駅、踏切などの鉄道施設の名称には、それぞれに由来があるから、そこを深掘りすると鉄道の歴史が見えてくるぞ。
小鉄
鉄道はいろんな沼があって、はまると深そうですけど。
師匠
そこが鉄道の魅力のひとつだ。
小鉄
師匠はあちこちの沼にはまり続けているってことですね。
師匠
鉄道の沼にはまって早50年……って何を言わせるんだ
岡山を起点として宇野までを結ぶ延長約32.8kmの宇野線は、四国へ渡るための本四連絡鉄道として建設され、宇野港で宇高連絡船を乗り継いで高松港へと渡っていた。
この宇野線が開業するまで、岡山方面から四国へ至る交通路は、岡山から小型船で旭川を下り、河口にある三蟠(さんばん)港で大型船に乗換えて児島半島を迂回して高松へ至っていた。このため、より四国に近い宇野に鉄道を接続させて高松へ航路で渡る新ルートが要望され、鉄道敷設法の第一期予定線として帝国鉄道庁岡山建設事務所により1907(明治40)年に工事が開始された。
まだ児島湾の干拓事業が進んでいなかったこともあって、湾の西側を大きく迂回するルートが採用され、地形は比較的平坦であったが、宇野に近い八浜~備前田井間に唯一のトンネルとして、延長2155フィート(656.8m)の児島トンネルが建設された。児島湾沿いには軟弱地盤が続いたが、児島トンネルは堅硬な地質であったため、掘削に困難を伴ったと伝えられる。
岡山県による宇野港築港事業も宇野線の建設とほぼ同時に行われ、宇野線と宇高連絡船は1910(明治43)年6月12日に開業した。「宇野線開通記念」の押印がある記念絵葉書には、児島トンネルと宇高連絡船の写真が添えられ、背景には別名「烏城(うじょう)」と呼ばれた岡山城と後楽園の花菖蒲が描かれた。
宇野線のうち岡山~茶屋町間は本四備讃線が開業したのちも本四連絡鉄道として機能し続けているが、茶屋町~宇野間は地域の足として利用され、現在に至っている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2017年11月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
地図を見ると宇野線の路線は、ずいぶん児島半島の西側を迂回していますが、なぜ岡山と宇野の最短距離じゃないんですか?
A
本文にもありますが、児島湾の干拓事業と関係があります。児島半島はもとも吉備児島と呼ばれる島でしたが、奈良時代から小規模な干拓が始まって、江戸時代の初期には本州と陸続きとなって児島半島になりました。明治維新以降の士族授産(幕藩体制の崩壊で失業した武士に生産活動を奨励した)の中で干拓事業が本格化して、宇野線が開通した明治末期頃にはちょうど宇野線のルートのあたりまで干拓が進みました。その後、大正時代~昭和時代と干拓事業が進んで現在の姿になりましたが、宇野線は開業時のままの位置なので、結果的に干拓が本格化する前の児島湾の範囲を示す目印となっています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
宇野線にある田井橋梁は、石積みでできていますが、児島トンネルは石積みと煉瓦積みなんですね。
師匠
田井橋梁は、石積みのように見えるが、実は初期のコンクリートアーチ橋だ。
小鉄
ええっ 写真だと全部石積みですけど……。
師匠
これは、外観を整えるためにコンクリートの表面に石を貼っているだけだ。
小鉄
コンクリート打ち放しのままじゃダメなんですか?
師匠
理由はいろいろ考えられるが、当時はコンクリートをそのまま見せることが躊躇されたようで、石材や煉瓦タイルを表面に貼ることが行われていた。
小鉄
児島トンネルはコンクリートを使わなかったんですか?
師匠
明治時代末期から大正時代にかけては、土木や建築の材料が煉瓦や石材からコンクリートへと変化した時代にあたる。
小鉄
それでコンクリート構造物と煉瓦構造物が混じってるんですね。
師匠
この時代に建設された鉄道路線の土木構造物を調べると、両方を使っていることがわかる。
小鉄
東京にもありますか?
師匠
東京から神田を経て万世橋あたりに至る中央線の高架橋は1919(大正8)年に完成したが、内部は鉄筋コンクリートで表面に煉瓦タイルを貼っている。
小鉄
外観を煉瓦積みで整えることにこだわったんですね。
師匠
当時の工事記録では、明治時代に完成していた東京~新橋間の煉瓦高架橋に合わせて外観を整えたとされる。
小鉄
石材を貼った例もありますか?
師匠
東京と神田の間に架かっている中央線の外濠橋梁は鉄筋コンクリートアーチ橋だが、田井橋梁のように石材を表面に貼って仕上げている。
小鉄
これから、材料の違いと土木の歴史の関係に注意して調べ直してみます。
師匠
土木構造物は見た目だけではなく、見えないところにも工夫があるから、現物だけではなく図面や工事記録にも丹念にあたる必要があるぞ。
小鉄
また宿題が増えましたね。
師匠
そういえば、いろいろと宿題が溜まっていると思うが、少しは解決してるのか?
小鉄
安心してください。見えないところで頑張ってますから。
日本の鉄道は、1872(明治5)年10月14日(旧暦9月12日)に開業式が行なわれて新橋~横浜間が開業し、この日がのちに鉄道記念日となった。このうち、品川~横浜間はそれより4か月前の6月12日(旧暦5月7日)に仮開業し、陸蒸気が牽引する列車が営業運転を開始した。このため、品川駅高輪口にある「品川駅創業記念碑」には、「明治五年五月七日」の日付と仮開業の際の時刻表が記されている(碑は品川駅改良工事に伴い一時撤去中)。
今から約百年前の鉄道開業50周年の際に発行された「鉄道開通五拾年紀念」絵葉書のうち「昔の品川駅」と題した絵葉書には、江戸時代の旅を象徴するキャラクターとして弥次さん喜多さんとおぼしきコンビが描かれ、絵師によって着色された品川駅の絵が添えられた。高輪沖を背景とした品川駅は、現在の品川駅よりも南側の八ツ山橋の北側付近にあり、東側は海岸線であった。
元の写真が不鮮明だったのか、絵葉書を制作した絵師の腕前が今ひとつだったのかは定かでないが、写真では海岸沿いに位置していた品川駅の様子をかろうじて確認できる。また、プラットホームを結んでいる鉄製の跨線橋は、1882(明治15)年に設置されたので、絵葉書の元となった写真はそれ以降の撮影と推察される。この跨線橋の柱には、同年に鉄道寮新橋工場で製造されたばかりの鋳鉄(ちゅうてつ)製の柱が使用され、川崎駅、神奈川駅の跨線橋でも用いられた。
高輪沖は、大正時代に本格的な埋立工事が開始され、品川駅構内も客車操車場を新設するなどして拡張されたほか、1933(昭和8)年には京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)が山側に接続して大きく変化した。
「品川駅創業記念碑」の背面に刻まれた仮開業当時の時刻表によれば、列車は1日2往復のみで、品川~横浜間の所要時間は35分であった(ちなみに現在の京浜東北線の品川~桜木町間の所要時間は約30分)。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2022年11月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
鋳鉄はどんな鉄材料のことですか?
A
鋳鉄は、鋼鉄に比べて炭素が多く含まれ、一般に2.1%以上含まれると鋳鉄とされています。溶かした鋳鉄を型に流し込んで作られたものを鋳物(いもの)と称し、砂型で型をとります。強度は劣りますが、簡易な設備で容易に製造することが可能で、日本では弥生時代にその技術が伝わったとされ、南部鉄器や梵鐘の製作などに用いられました。明治維新以後は、錬鉄や鋼鉄など強度特性に優れた鉄材料へと移行しますが、鉄柱や車両部品など複雑な形状の製造品で用いられました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
品川駅の右側は、海のように見えますけど、あんな場所に海岸線はありませんよね。
師匠
今は埋め立ててしまったから、品川駅からは海は見えないが、鉄道が開業した頃は、ほぼ海岸線に沿っていた。
小鉄
?
師匠
新橋と品川の間は、東海道の街道にそって人家が密集していて、鉄道を通すことが難しかった。
小鉄
それは困りましね。
師匠
そこで考えたのが、海側の高輪沖に築堤を築いて線路を通すことだった。
小鉄
つまり、鉄道を通すために海を埋め立てたってことですか?
師匠
2019(平成31)年に、高輪ゲートウェイ駅付近の工事現場でその築堤が発掘されて話題になった。
小鉄
高輪築堤のことですね。
師匠
その南端に設けられたのが品川停車場だ。当時の地図によれば今より八ツ山橋に近いあたりに位置していたらしい。
小鉄
あっ、地図にも跨線橋が描かれてますよ。
師匠
新橋~横浜間が開業した時は、品川駅と神奈川駅に「駅往還」と称して木製の跨線橋が設けられた。
小鉄
初めは木製だったんですね。
師匠
その後、1882(明治15)年に品川駅と神奈川駅は鉄製の跨線橋に改築され、川崎駅にも鉄製の跨線橋が設置された。
小鉄
新橋工場で製造された鋳鉄柱を使ったんですね。
師匠
その後も、鋳鉄柱を使った跨線橋は明治時代の末くらいまで使用された。
小鉄
そのひとつが、この滋賀県の東海道本線にある河瀬駅の跨線橋ですね。
師匠
河瀬駅は駅を橋上駅に改築した際に跨線橋が廃止され、モニュメントとして柱だけが移築保存されたが、こうした例は全国にいくつかあるぞ。
小鉄
そういえば、最近は橋上駅が多くなって、昔のような幅の狭い跨線橋は少なくなりましたね。
師匠
最近は老朽化やバリアフリー化などで昔ながらの跨線橋が姿を消しつつあるから、今のうちに記録を残しておく必要があるな。
小鉄
調べる時のポイントがありますか?
師匠
柱の間隔がポイントだ。通路の幅と階段の幅である程度規格化されていた。あとは、柱の銘は必ず確認しておくことだ。
小鉄
明治村の鋳鉄柱にも銘がありますね。
師匠
すべての鋳鉄柱に銘があるわけではないが、銘を確認することで製造年や製造所を特定できる。
小鉄
これからは注意して見てみます。
師匠
銘を探すことは構造物調査の基本だから、肝に銘じるように。
小鉄
それって、駄洒落のつもりですか?
師匠
余計なツッコミをするようでは、肝に銘じていないようだな