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ドボ鉄167民衆駅の普及

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 火, 2025-10-07 23:00

 「民衆駅」という言葉は、もはや鉄道用語としても死語になってしまったが、1949(昭和24)年に日本国有鉄道が成立して間もない頃に創作された言葉である。民衆駅は、戦災によって荒廃した駅を地元有力者などの支援を受けて国鉄と共同出資し、駅舎を商業施設として利用するとともに、建物の整備を行うことを目的として各地に誕生した。駅と商業施設を併設することは、すでに戦前の私鉄で試みられ、ターミナルデパートとして大都市の私鉄ターミナル駅に設けられた。最初に「民衆駅」として建設されたのは1950(昭和25)年の豊橋駅で、以後、池袋駅西口(1950)、秋葉原駅(1951)、尾張一宮駅(1952)、門司駅(1952)と続いた。
 広島駅は、1922(大正11)年に完成した鉄筋コンクリート造の駅舎が1945(昭和20)年の原爆によって被爆し、何とか耐えたものの屋根は焼け落ち、躯体には亀裂が生じるなど無惨な姿となった。ただちに補強工事や、木造による出札広間の拡張などの応急処置が行われたものの脆弱な状態が続き、1960(昭和35)年頃からこれを民衆駅として改築する機運が高まった。
1963(昭和38)年には事業主体となる株式会社として広島ステーションビルが設立され、1964(昭和39)年に着工した。新しい駅舎は、鉄骨鉄筋コンクリート構造、地上7階、地下1階という規模で、駅施設のほかに、店舗、食堂街、映画館、ホテル、屋上遊園地、浴場、駐車場などを備えた。工事は、日本国有鉄道下関工事局の監理、安井建築設計事務所の設計、大林組+藤田組の施工により1965(昭和40)年11月に完成した。
 今回紹介する絵葉書には、完成したばかりの真新しい広島駅が写り、黒いルーバと白い壁面とのコントラストが印象的である。国鉄の民衆駅で培(つちか)われたノウハウは、現在のJRグループにおける駅ビル事業に継承された。
 その後の広島駅は、1975(昭和50)年に山陽新幹線が開業し、2012(平成24)年から2017(平成19)年にかけてペデストリアンデッキの新設や自由通路、橋上駅舎化などの改良工事が行われた。また、1965(昭和40)年に民衆駅として完成した駅ビルも半世紀以上を経て改築されるこことなり、2025(令和7)年3月には新しい駅ビルとして地上9階(ホテル棟は20階)、地下1階の「minamoa(ミナモア)」が開業した。新しい駅ビルの2階には、広島電鉄市内線の路面電車も乗り入れを開始し、交通の結節点としてより新しい駅ビルの姿を示した。(小野田滋)(書き下ろし)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

鉄筋コンクリート構造の駅舎が登場するのは、関東大震災がきっかけですか?

A

広島駅の鉄筋コンクリート駅舎は、関東大震災が発生する1年前の1922(大正11)年に完成していますから、関東大震災より前になります。鉄道省では、1907(明治40)年に完成した山陰本線の島田川暗渠というアーチ橋で最初に鉄筋コンクリート構造を用い、鉄道建築でも1911(明治44)年に国府津機関庫が鉄筋コンクリート構造で完成するなど、関東大都震災の発生以前から鉄筋コンクリート構造の実用化に取り組んでいました。広島駅に続いて新宿駅や岡山駅などが鉄筋コンクリート構造で完成しましたが、新宿駅は建設中に関東大震災に遭遇しました。地震によって壁面に大きなひび割れが生じるなどの被害を受けましたが倒壊には至らず、補修ののちに1925(大正14)年に完成しました。鉄筋コンクリート構造は、耐震性、耐火性、耐久性に優れた構造として発展しますが、木造建築のように増改築が容易ではなく、当時は貴重な資材であった鋼材を用いたため、昭和戦前時代までは大規模な駅や庁舎建築に限られました。(小野田滋)

”広島駅(広島県広島市)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

広島市の路面電車は、市電とは違うんですか?

師匠

大都市の路面電車がほとんど都営や市営だったから、都電・市電のことを路面電車と思っている人も多いが、広島市や豊橋市、長崎市など、いくつかの都市では民間の鉄道事業者が経営している。だから、厳密には市電ではない。

小鉄

つまり、市電は市営電車の略ってことですか?

師匠

狭い意味ではそうなるが、「市民のための電車」「市街地を走る電車」という意味も込められているから、そのあたりは文脈に応じて適当に使い分けられている。

小鉄

路面電車が駅ビルの2階に乗り入れるのは、珍しいんですか?

師匠

1998(平成10)年に北九州モノレールが小倉駅ビルの2階に乗り入れを開始したが、路面電車としては全国で初めてだ。

小鉄

乗り換えが便利になりますね。

師匠

広島駅も小倉駅も橋上駅だから、2階で乗り換えできるメリットは大きい。

小鉄

路面電車は、改札口を通らずに気軽に乗れるのが特徴だから、相性もいいですね。

師匠

路面電車とのアクセス向上は、富山駅や岡山駅などでも取り組まれたぞ。

小鉄

最近の路面電車は、話題が豊富ですね。

師匠

ひと頃は、「時代遅れの交通機関」として扱われていたが、いろいろな取り組みでイメージもだいぶ変わってきたな。

小鉄

師匠も「時代遅れ」になりそうだから、早めにイメチェンした方がいいですよ。

師匠


ドボ鉄166お茶の水橋と路面電車

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 火, 2025-10-07 23:00

 御茶ノ水駅の西口で神田川と中央本線を跨いでいる道路橋のお茶の水橋は、1891(明治24)年に初代の橋梁が架設された。設計は1881(明治14)年に東京大学理学部を卒業して東京府技師となった原龍太(1854~1912)で、支間45.7m、主構中心間隔6.1m、主構中心高さ7.6mという緒元の、ピン結合による上路プラットトラスを主径間とし、前後の側径間に支間11.0mの上路プレートガーダを用いて完成した。
 当時のお茶の水橋には鉄道が接続していなかったが、1904(明治37)年12月には甲武鉄道市街線の御茶ノ水駅が南橋詰の西側に開業し、翌年より東京電気鉄道の電車がお茶の水橋の併用軌道を渡って東竹町(順天堂前)へと線路を伸ばした。
 「(東京名所)御茶の水橋」と題した絵葉書にはこの初代のお茶の水橋の上を路面電車が渡り、その後方には東京女子高等師範学校の校舎が建つ。東京女子高等師範学校は現在のお茶の水女子大学の前身で、1932(昭和7)年に茗荷谷へ移転して現在は東京科学大学湯島キャンパス(医学部、歯学部)の敷地となっている。甲武鉄道は1906(明治39)年に国有化され、東京電気鉄道も同年に東京鉄道となったのち1911(明治44)年に東京市に買収された。
 初代のお茶の水橋は、1931(昭和6)年に現在の鋼ラーメン構造の橋梁に架け替えられた。また、中央本線の御茶ノ水駅は、1932(昭和7)年にお茶の水橋の西側から東側の現在の位置へ移転し、総武本線からの電車が両国方面から新しい高架線に乗り入れて複々線化された。
 お茶の水橋を渡る都電は1944(昭和19)年に廃止されたが、2019(令和元)年に舗装工事を行なったところ軌道敷とレールが発見されて話題となった。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年8月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q1

東京電気鉄道は、どんな会社ですか?

A1

東京電気鉄道は、もともと東京の広尾橋際(東京府豊多摩郡渋谷村)から荏原郡目黒村、同池上村を経て川崎(神奈川県橘樹郡御幸村(たちばなぐんみゆきむら))を結ぶための川崎電気鉄道として、1897(明治30)年に軌道条例に基づいて特許を取得しましたが、この路線は実現しないままに終わりました。その後、1900(明治33)年に社名を東京電気鉄道と改称して、1904(明治37)年に開業した土橋~御茶ノ水間を皮切りに、旧江戸城外濠をほぼ1周する路線を開業させました。このため、東京電気鉄道の路線網は「外濠線」とも称されました。1906(明治39)年には、東京市内に路面電車網を敷設した東京電車鉄道(電車)、東京市街鉄道(街鉄)と合併して東京鉄道となり、1911(明治44)年に東京市によって買収されて東京市電(1943(昭和18)年の都政施行により「都電」)が成立しました。(小野田滋)

Q2

古い絵葉書をよく見ると、初代の御茶ノ水駅はお茶の水橋の西側にあったように見えますが、今の御茶ノ水駅とは場所が違うんですか?

A2

御茶ノ水駅は、1904(明治37)年に甲武鉄道の駅として開業しますが、駅舎もプラットホームもお茶の水橋の西側に建設されました。駅舎の設計は、横河工務所とされています。関東大震災後の帝都復興事業で、1927(昭和2)年に聖橋(ひじりばし)が完成して、お茶の水橋も1931(昭和6)年に現在の橋に架け換えられました。聖橋の絵葉書では、まだお茶の水橋は古いままですから、架け換える直前の姿ということになります。御茶ノ水駅は、御茶ノ水~両国間の完成時に大規模な改良工事を行って、1932(昭和7)年にお茶の水橋の東側の現在の位置に移転しました。初代・御茶ノ水駅のあったあたりには、現在、神田警察署のお茶の水交番が建っています。(小野田滋)

”お茶の水橋(東京都千代田区/文京区)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

本文の最後に「軌道敷とレールが発見されて話題となった」ってありますけど、その後はどうなったんですか?

師匠

お茶の水橋都電レール保存会などの尽力であちこちに引き取られたようだが、そのひとつが千葉県船橋市にある日本大学理工学部の科学技術史料センター(CSTミュージアム)という展示施設で保存されいて、自由に見学できる。

小鉄

この敷石とレールの部分ですね。

師匠

あと、2種類のレールが屋内に展示されているぞ。

小鉄

普通の鉄道とずいぶんレールの形が違いますが、何か理由があるんですか?

師匠

基本的に2種類のレールがあって、ひとつは普通のレールとほとんど同じ形だが、もうひとつは溝レールという独特の形をしている。

小鉄

この鳥みたいな断面のレールですね。

師匠

まず、普通のレールの方だが、「ハイティレール」「T形レール」「特高レール」などと呼ばれるレールで、「軌条身」と呼ばれる柱の部分が細くできている。

小鉄

ほんとだ。

師匠

路面電車では、路面を保護するために敷石を敷くから、その厚さと均(なら)しコンクリートの厚さを考慮すると、高さ180mmくらいのレールになる。

小鉄

だったらそのハイティレールを使えば十分じゃないですか?

師匠

しかし、ハイティレールを使うと、車輪のフランジを通過させるためのすき間を設けなくてはならず、自動車の通過で軌道構造が壊れやすくなり、工事も難しくなる。

小鉄

それで、溝レールを使うんですね。

師匠

溝レールは、「溝形レール」「グルーヴレール(groove rail)」「溝レール」「溝軌条」などとも呼ばれているが、形が特殊だから高価で、レールが摩耗すると車輪が輪縁路と呼ばれる溝に直接載りながら走るから乗り心地が悪くなり、騒音などの問題も発生して寿命が短い。それに小石が挟まって脱線の原因になりやすい。

小鉄

道路側にとっては溝形レールが良くて、鉄道側にとってはハイティレールが良いってことですか?

師匠

1923(大正12)年の「軌道建設規程」という省令では、市街地の併用軌道で交通が特に頻繁な場所、ポイントを設置する場所では溝レールを用いることとしていた。

小鉄

路面電車は電車が小さいだけかと思ってましたけど、レールなどにもいろいろ工夫があるんですね。

師匠

そういえば、広島電鉄の路面電車は、新しく完成した広島駅ビルの2階から発着するようになって、話題となっているぞ。

小鉄

「ドボ鉄」の取材で、ぜひ行かせてください。

師匠

それなら、もう行ってきたぞ。

小鉄

ええっ お土産のもみじ饅頭、まだもらってないですよ。

師匠

土産話なら山ほどあるから、心配するな。

小鉄


ドボ鉄164東京駅の完成

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 月, 2025-09-08 22:47

 新橋と上野を高架鉄道で結び、その中間に中央停車場を設けることは、東京市区改正計画(東京の都市計画)で審議され、1889(明治22)年に告示された。この計画にそって、浜松町付近から分岐して、中央停車場に至る高架鉄道が建設され、ドイツから技術者を招いて工事が進められ、1910(明治43)年に呉服橋仮駅(東京駅未開業のため設置された仮駅で現在の呉服橋通り付近にあった)まで全通した。中央停車場も1914(大正3)年に完成し、「東京駅」と名付けられた。
 東京駅の開業を記念して鉄道院東京改良事務所が発行した「東京停車場」と題した絵葉書には、東京駅を正面から捉えた写真と、開業時の構内平面図が描かれた。当時の駅本屋は、中央を皇室口とし、南ドームを乗車口、北ドームを降車口として使用した。乗降場(プラットホーム)は島式×4面で構成され、丸の内側の第1乗降場と第2乗降場の2面を電車線用(山手線・京浜線)、八重洲側の第3乗降場と第4乗降場の2面を列車線用(東海道本線)に用いた。
 東京駅の乗降場は、新幹線の乗降場の増設などで増減や転用を繰り返し、現在では中央本線の重層部分を含めて、在来線5面、東北・上越・北陸新幹線2面、東海道新幹線3面の乗降場が使用されている(地下線を除く)。第2乗降場として建設された現在の5番・6番線プラットホームには、開業時の鋳鉄製柱や架線柱、煉瓦積みのプラットホーム擁壁などがわずかに残り、開業時の面影を今に伝えている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2012年11月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

フランツ・バルツァーはどんな人物ですか

A

 フランツ・バルツァーは、1857(安政4)年5月29日にザクセン王国(現在のドイツ・ザクセン州)の首都ドレスデンで生まれました。プロシア国有鉄道の建築科第一回国家試験を受験して採用され、ベルリン市街高架鉄道の改良工事に携わったのち、1884(明治17)年にシンケル奨励賞を受賞して、在外研究員としてイギリスに渡り、さらに翌年には国費でアメリカへ派遣されて見聞を広めました。1892(明治25)年には、ベルリン高等工業学校の助教授となったほか、ケルン駅の改良工事にもあたりました。
 1896(明治29)年、ヨーロッパに派遣された鉄道局監理課技師の野村龍太郎は、ベルリン留学中の田中正平の協力を得てバルツァーを日本に招聘することとし、1898(明治31)年3月に来日して、勅任官待遇(本省局長クラス)で高架鉄道と中央停車場の設計にあたりました。また、日本建築に強い関心を示し、建築家の木子清敬(きこ・きよよし)、伊東忠太と親交を深め、この二人を通じて日本建築の知識を吸収しました。
 バルツァーの任期は3年間でしたが、さらに2年を延長し、合計5年間にわたって高架鉄道と中央停車場の設計に従事しました。そして,1903(明治36)年2月に帰国の途に就き、同年11月には日本における成果を「Die Hochbahn von Tokio(東京の高架鉄道)」と題して『Z-VDI(ドイツ技術者協会誌)』に連載して、高架鉄道や中央停車場の計画から設計に至る考え方について詳細に報告しました。バルツァーはこの報告書の中で、日本の建築家が西洋建築に傾倒していることを批判し、「新しい様式の中にこれらの要素(日本の伝統建築様式)を活いかすことによって、日本建築がふたたび尊重されるようあらゆる努力をすることが、日本の建築家の義務である。」と喝破しました。
 そして、中央停車場本屋として入母屋破風や唐破風で構成される純日本風建築を提案しましたが、中央停車場の建築設計を引き継いだ辰野金吾によって否定され、クィーン・アン様式を基調とした現在の東京駅の姿に設計変更されました。ただし、中央通路を皇室専用とした駅構内の通路の配置は辰野も名案として絶賛し、原案のまま東京駅の設計に反映されました。
 日本から帰国したバルツァーは、1905(明治38)年4月にプロシア国鉄シュテティン管理局監督長官に就任し、1906(明治39)年に拓殖省の技術顧問となり、1907(明治40)年よりドイツ領東アフリカ、ドイツ領西アフリカや他のヨーロッパ諸国の植民地の鉄道を調査しました。
1914(大正3)年、第一次世界大戦の勃発にともなってドイツ軍兵士として応召し、中隊長となって予備歩兵連隊を率いましたが、西部戦線で負傷しました。バルツァーが計画した中央停車場は、同年12月に東京駅として開業しましたが、皮肉なことにその開業式典は山東省の青島攻略でドイツ軍に勝利した神尾光臣陸軍中将の凱旋帰国を兼ねていました。
 その後、1920(大正9)年にベルリン高等工業学校の名誉教授となり、1927(昭和2)年9月13日,ヴィスバーデンの自邸で逝去しました。鉄道省では現地の駐在官を葬儀に派遣して献花し、帝国鉄道協会(現在の日本交通協会)からは弔電が送られました。(小野田滋)

”東京駅(東京都千代田区)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

東京駅は左右対称だと思ってましたけど、こうして正面から見ると、南口は少し長いんですね。

師匠

開業した時の東京駅は、南口が乗車専用口、北口が降車専用口として使われていた。

小鉄

乗る時と降りる時で、改札口が別だったってことですか?

師匠

その通りだ。南口は乗車専用口だから、待合室や売店、食堂、ホテルなどがあった。

小鉄

乗車の前は、いろいろと準備が必要ですよね。

師匠

それに当時の列車は、発車時刻まで改札口が閉鎖されていて、待合室で待っていなければならなかった。

小鉄

今の駅は、自由に入れますよね。

師匠

それに比べて北口は降りるだけだから、いろいろな施設は必要なかった。

小鉄

「電車口」って何ですか?

師匠

当時の電車は編成が短かったから、プラットホームも列車線に比べて短かった。そこで、電車口を設けて通勤客の専用口とした。

小鉄

バルツァーの紹介文で「純日本風建築は否定されたが中央通路を皇室専用とした駅構内の通路の配置は原案のまま東京駅の設計に反映された」とありますが、どういうことですか?

師匠

バルツァーは日本建築の独自性を高く評価していて、日本風のデザインの駅を提案した。

小鉄

この神社のような建物ですね。

師匠

しかし、辰野金吾はこれを否定して、新たに洋風の駅を設計した。

小鉄

だけど、通路の配置はバルツァーの提案を受け入れたってことですか?

師匠

図を比較するとわかるが、ほぼ同じ位置に通路を設けている。

小鉄

あっ、ほんとだ。

師匠

バルツァーの設計思想が、今も受け継がれているという証拠だ。

小鉄

それにしても、東京駅を真正面から撮影した絵葉書は、たくさんあったんですね。

師匠

横に長い駅だったから、全景を1枚の絵葉書におさめると、どうしても天地に余白ができてしまう。

小鉄

だから、余白を利用して構内の平面図とか、工事の概要とか、国有鉄道の営業成績だとかを紹介していたんですね。

師匠

東京駅は人気が高かったから、いろいろな種類の絵葉書が発行された。

小鉄

「映える駅」ってことですね。

師匠

無理に若者言葉を使わなくても、お前さんが昭和生まれだということは、今までのドボ鉄でとっくにバレてるぞ。

ドボ鉄165室戸台風と風害

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 月, 2025-09-08 22:46

 昭和の三大台風のひとつである室戸台風(他に枕崎台風、伊勢湾台風)は、1934(昭和9)年9月21日に高知県室戸岬に上陸したのち、淡路島上空を通過して京阪神地区を襲い、若狭湾へと抜けた。室戸岬上陸時の気圧は684水銀柱ミリメートル(約912hPa)を記録し、最大瞬間風速は60m/sに達した(風速計故障のため上限値の記録、別記録では68m/sとも)。
 台風の通過により、岡山県、鳥取県、京都府北部では豪雨による水害が発生し、京阪神地区では暴風雨が吹き荒れて家屋が損壊し、列車が脱線転覆した。全国の死者は2,866名、行方不明者は200名、負傷者は15,361名、建物被害は475,634戸、船舶被害は27,595隻に及んだ(東京天文台編『理科年表』丸善(1962)による)。
東海道本線の瀬田~石山間の瀬田川橋梁では、東京発、下関行の下り急行第7列車が強風によって脱線転覆し、3両目以下の9両の客車が横転した。倒れた側には上り線の橋梁があったため落下は免れたものの、死者11名(即死6名、病院収容後死亡4名、加療中死亡1名)、負傷者216名に達した(『昭和九年度・鉄道省年報』鉄道省(1935)による)。「(関西地方大風水害)瀬田川鉄橋上で急行旅客列車顚覆」と題した絵葉書には、上り線側に横転した客車や、変形したレールがおさめられた。
 鉄道ではこのほか、東海道本線の摂津富田駅で列車が脱線したほか、東海道本線の野洲川橋梁で貨物列車が落橋した。また、私鉄では大阪電気軌道(現在の近鉄奈良線)の電車が、今里~布施間で強風により横転し、20名が負傷した。強風による建物の倒壊や損壊も相次ぎ、送電線の電柱倒壊や断線によって大規模な停電が発生した。鉄道の復旧工事は隣接する名古屋鉄道局や門司鉄道局からの応援を得て、瀬田川橋梁は9月24日、他の区間も一部を除いて10月初旬までにはほぼ復旧した。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2019年6月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

室戸台風の被害調査は、土木学会でも取り組まれたんですか?

A

土木学会では、1934(昭和9)年10月に中川吉造(元内務技監、第18代土木学会会長)を委員長とする関西地方風水害調査委員会を組織し、第1部「気象、被害状況」、第2部「河川、運河、灌漑、砂防」、第3部「港湾、海岸」、第4部「道路、道路橋」、第5部「鉄道、軌道、鉄道橋」、第6部「電気工作物」、第7部「土地、建築物」、第8部「上下水道其他」の専門分野に分けて調査を開始しました。瀬田川橋梁の被害については、上路プレートガーダ上であったため遮蔽物が無く全風圧が直接車体に作用したこと、開床式の橋梁上であったため下から上向きの風圧を受けたことなどその原因を指摘し、対策として、風速が大きくなった場合は長大橋梁や築堤上での列車運転を避けること、台風時に列車が停止する場合はその位置が危険でない場所を選ぶことなどを勧告しました。土木学会の調査結果は、『昭和9年関西地方風水害調査報告』としてまとめられ、1936(昭和11)年に土木学会より出版されました。(小野田滋)

”東海道本線・瀬田~石山間(滋賀県大津市)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

室戸台風って、前にもドボ鉄で紹介しましたよね。

師匠

ドボ鉄31回の「室戸台風の来襲」で、岡山の旭川橋梁の被害を紹介したことがある。

小鉄

今回は瀬田川だから、だいぶ東になりますね。

師匠

台風は、最初に四国の室戸岬付近に上陸して、四国を北東方向に進んで、大阪、琵琶湖を通過した。

小鉄

瀬田川橋梁で脱線した第7列車は、どんな列車だったんですか?

師匠

東京を23時ちょうどに出発する下関行きの急行列車で、大津駅には翌朝9時35分に到着予定で、下関駅には21時ちょうどに到着予定だった。しかし、風雨で遅れが生じて、瀬田川橋梁の事故は9時35分に発生した。

小鉄

ということは、夜行列車だったんですか?

師匠

そうだ。夜行の急行列車だから、寝台車や食堂車も連結していた。

小鉄

機関車の形式は何だったんですか?

師匠

C53形蒸気機関車の73号だった。

小鉄

脱線した客車は、廃車になったんですか?

師匠

脱線した9両の客車のうち、8両は現役に復帰したが、最後尾のマイネフ37200形一等寝台車は70度も傾いてしまって廃車になった。

小鉄

たしかに、調査記録でも11両目だけ傾きが大きいですね。

師匠

いったん廃車にはなったんだが、1937(昭和12)年に鉄道省大井工場でマヤ39900形試験車に改造されて復活した。

小鉄

師匠は車両にも詳しいんですね。

師匠

脱線した第7列車の編成もわかるぞ。客車は先頭からスユ36003、2両目がスハ32711、3両目がスハ32674で……。

小鉄

師匠の蘊蓄(ウンチク)が長くなりそうなので、この辺で失礼します。

ドボ鉄162ラーメン高架橋の登場

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 木, 2025-08-07 23:07

 山手線の環状運転は、当初から意図していたわけではなく、いくつかの路線をつなぎ合わせているうちに、結果的に環状線が成立した。このため、線路名称としての山手線は、品川を起点として渋谷、新宿、池袋を経て田端が終点となり、品川駅1番線ホームの線路際に0キロポストが建植されている(ドボ鉄076回「ゴジラの初上陸」参照)。山手線の形成過程については他著に譲るが、1919(大正8)年に神田駅が開業したものの、当初は中央線のプラットホームのみであった。このため、環状運転を行うために最後まで残った区間が東京~上野間であった。
 東京~上野間の高架線のうち、神田川付近~上野間は1923(大正12)年1月に着工したが、同年9月の関東大震災後によって工事が遅延したため、山手線の環状運転が開始されたのは1925(大正14)年11月1日のことであった。この時代になると鉄筋コンクリートの技術が進歩し、ラーメン構造の設計法も確立しつつあった。鉄筋コンクリートラーメン構造は耐震性に優れ、震災後における鉄道高架橋にふさわしい構造物として登場した。東京~上野間の高架橋は、鉄道省としては本格的なラーメン高架橋の最初の適用例となり、のち鉄道高架橋の造形の規範となった。また、一部の高架橋では高架下の利用を促すために、地下室を備えた。
 「高架線側面」と題した絵葉書では、完成間近い秋葉原~御徒町間の高架橋がそびえ、彼方には高架駅として新設された御徒町駅と上野公園の森が見える。地上の線路は、上野~秋葉原間を結んでいた貨物線で、工事用とおぼしき側線が分岐している。
 高架橋のうち、御徒町~上野間の高架下は、昭和時代の戦後期になるとアメ横が形成され、小売店がひしめく繁華街として連日にぎわっている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年5月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

よく「ラーメン構造」という言葉が出てきますが、どんな構造ですか?

A

橋梁の構造の一種で、橋梁下部構造(橋脚や橋台)を含めてすべてを連続させて剛結合した構造をラーメンと呼んでいます。ラーメンは、変形が拘束されるため内部に複雜な力が加わり、一般の桁橋やアーチ橋よりも設計計算が難しくなりますが、耐震性や経済性に優れているため、特に鉄筋コンクリート高架橋やボックスカルバート(函渠)の構造として用いられています。また、外力に対する抵抗力は桁構造よりも強く、より薄肉で経済的な構造物を実現できるというメリットがあります。ちなみにラーメン(Rahmen)はドイツ語で「額縁」「窓枠」などを意味する言葉で、食べるラーメンとは全く関係はありません。また、英語ではリジッドフレーム(rigid frame/剛結された枠)と称していて、「ラーメン」では通じません。(小野田滋)

”東京上野間市街高架線(東京都・千代田区/台東区)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

師匠、山手線は昔から東京を一周していたんじゃなかったんですか?

師匠

本文にもあるが、いろいろな線を接続しながら環状線になった。

小鉄

その最後の区間が、今回の東京~上野間の高架線ってことですね。

師匠

その通りだ。

小鉄

それまでは、どうしていたんですか?

師匠

電車の車両基地は中央線の中野にあって、中央本線は東京~国分寺間が電化されていた。

小鉄

ってことは、中央本線の電車は新宿、四ツ谷を経由して東京へ乗り入れできたんですね。

師匠

そのまま東京から品川、渋谷を通ってふたたび新宿に着き、池袋、田端を経由して上野が終着だった。

小鉄

東京~上野間が完成していなかったから、中央本線と山手線で往復運転していたんですね。

師匠

平仮名の「の」の字のようなルートで運転していたから、「のの字運転」とも呼ばれていた。

小鉄

あっ、ほんとだ。

師匠

山手線が環状運転を開始して、今年でちょうど百周年になる。

小鉄

もうそんなに経つんですか。

師匠

百年以上前の山手線を知る人はいなくなってしまったから、ほとんどの人は最初から環状線だったと思っている。

小鉄

「ま~るい緑の山手線~♪」って歌が有名だから、勘違いしてました。

師匠

それは某カメラ量販店のCMソングだ。しかもアメリカの「リパブリック賛歌」という歌の替え歌だから、山手線のための曲ではないぞ。

小鉄

それも勘違いしてました。

師匠

「リパブリック賛歌」はいろいろな替え歌があって、「権兵衛さんの赤ちゃんが風邪ひいた~♪」とか「お玉じゃくしはカエルの子~♪」とか……

小鉄

師匠の蘊蓄(ウンチク)が長くなりそうなので、この辺で失礼します。

ドボ鉄163日本最長のケーブルカー

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 木, 2025-08-07 23:07

 ケーブルカーは、日本語で「鋼索鉄道」と呼ばれ、急勾配を登攀するための鉄道の一種である。普通の鉄道と同様に2本のレールを使うが、車両には動力装置が無いため自走はできず、地上にある動力装置と車両をケーブルでつないで引っ張り、左右のレールの中央にはケーブルをガイドするための滑車がある。
 京都の比叡山には、京都市側と大津市側の両方にケーブルカーがあり、京都市側のケーブルカーは、京福電気鉄道鋼索線と称し、1925(大正14)年に京都電燈鋼索線として西塔橋(現・ケーブル八瀬)~四明ヶ嶽(現・ケーブル比叡)の延長1,435mが開業した(一般には「叡山ケーブル」と呼ばれている)。さらに1928(昭和3)年には京福電気鉄道叡山ロープウェイ(開業時は比叡山空中ケーブルと称した)によってロープ比叡~比叡山山頂間が結ばれた。
 これに対して大津市側は、1927(昭和2)年に、比叡山鉄道として坂本(現・ケーブル坂本)~叡山中堂(現・ケーブル延暦寺)間の延長2,025mが開業し、一般には「坂本ケーブル」と呼ばれている。延長は、日本のケーブルカーとしては最も長く(2番目は六甲ケーブルの1,764m)、勾配は333‰(水平距離100mで高さ33.3mを登る勾配)、高低差は約480mあり、その中間には裳立山遊園地駅(現在のもたて山駅)、ほうらい丘駅の2駅が設置された。
 「琵琶湖畔叡山ケーブルカー坂本駅」と題した絵葉書には、麓(ふもと)にある起点駅の坂本駅の外観がおさめられ、その背後にケーブルカーの車両が見える。坂本駅と山頂のケーブル延暦寺駅は、ともに1927(昭和2)年の開業時に完成した洋風の建築である。叡山中堂駅は、仏教にちなんだと思われる数珠(ビード/複数形で「ビーズ」)で縁取りした独特の装飾を室内に施し、垂直線を強調した細長い窓にアール・デコの影響が見られる。これらの2駅は、1997(平成9)年に国の登録有形文化財に登録された。(小野田滋)(書き下ろし)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

ケーブルカーの特徴を教えてください。

A

ケーブルカーは、国によってロープウェイを含める場合もありますが、日本ではロープウェイは「索道」と呼ばれ、ケーブルカーはいわゆる「鋼索鉄道」に区分しています。また、日本では交走式と呼ばれる釣瓶(つるべ)井戸のように一組の車両をケーブルの先につなげて交互に上下さる方式が一般的ですが、サンフランシスコのケーブルカーのように鋼索を掴(つか)む循環式と呼ばれる方式などもあります。ケーブルカーは、普通の鉄道では登ることができない急勾配で使われますが、速度が遅く、多数の車両を連結できないことなど、大量輸送には適していません。このため、勾配が急で、限られた短い区間のみを往復する小容量の交通機関として用いられ、ロープウェイとともにもっぱら観光地で利用されています。また、荷役運搬のみに使用される貨物専用のケーブルカーはインクラインと呼ばれ、日本では琵琶湖疏水のインクラインが有名です。(小野田滋)

”比叡山鉄道ケーブル坂本駅(滋賀県・大津市)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

師匠はケーブルカーに乗ったことがありますか?

師匠

もちろんだ。眼下に広がる絶景を楽しみながら、山頂をめざす時の高揚感は格別だ。

小鉄

テンション上げまくりってことですね。

師匠

路線が短いから目立たないが、全国各地にあるから乗ってみるといいぞ。

小鉄

東京の近くだと、どこにありますか?

師匠

高尾山の高尾登山電鉄とか、御岳山の御岳登山鉄道があるぞ。

小鉄

日本ではどこか一番古いんですか?

師匠

奈良県にある近鉄の生駒ケーブル宝山寺線が最初で、1918(大正7)年に開業した。

小鉄

そういえば「フニクリ・フニクラ」って曲に「登山電車ができたので、誰でも登れる~♪」という歌詞がありますが、ひょっとしてケーブルカーのことですか?

師匠

「フニクリ・フニクラ」は、イタリアのヴェスヴィオ火山のケーブルカー会社のCMソングとして作曲された。世界最初のCMソングとされている。

小鉄

どうりで、登山電車に乗りたくなる歌ですよね。

師匠

「フニクリ・フニクラ」の替え歌もいくつかあって、「鬼のパンツ」が有名だ。

小鉄

あっ、それ知ってますよ。「鬼のパンツは、いいパンツ、つよいぞ~、つよいぞ~♪」ですよね。

師匠

「鬼のパンツ」を知ってるってことは、さては昭和の生まれだな。

ドボ鉄161日本最初の市営モノレール

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 月, 2025-07-07 22:59

 1964(昭和39)年に東京モノレールが開業して、都市鉄道としてのモノレールに注目が集まると、各地でその導入に向けた動きが活発となった。姫路市では、姫路駅と観光地である手柄山を結ぶ交通機関としてモノレールを導入することとし、アメリカのロッキード社の特許に基づく、跨座式のモノレールを導入した。ロッキード社は、航空機の製造で知られているが、当時はモノレールの開発にも取組んでいて、鉄車輪を用いた跨座式(「ロッキード式」と称された)が特徴であった。
 モノレールの路線は、姫路と手柄山の延長約1.6kmで、1965(昭和40)年に着工し、手柄山で開催された姫路大博覧会に合せて翌年5月17日に開業した。事業は、姫路市交通局により行われ、全国で初の「市営のモノレール」事業としてスタートした。「姫路大観」という当時の観光絵葉書集には、国宝・姫路城を背景としたモノレールの姿がおさめられ、新旧の名所が対比された。
 姫路市営モノレールは、さらに臨海工業地帯への延伸を計画したものの実現に至らず、輸送量は減少を続けたため、開業8年後の1974(昭和49)年4月11日をもって運転を休止し、1979(昭和54)年には正式に廃止された。
 モノレールの廃止後も軌道桁などの構造物はほぼそのままの姿で残っていたが、近年になって大部分が撤去され、姫路駅の西側にいくつかの橋脚が残るのみとなってしまった。終点の手柄山駅の構内は手柄山交流ステーションとしてモノレールの展示室に整備され、プラットホームの跡には2両の車両が保存されている。
 姫路モノレールの施設群は、「戦後姫路の躍進と大志の結集体」として、2020(令和2)年に土木学会が認定する選奨土木遺産に選ばれた。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年11月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

手柄山交流ステーションには、何が展示されているんですか?

A

かつて走っていた4両の車両のうち、両運転台式として登場した200形の201号と202号の2両(川崎航空機工業製)が保存されているほか、ジオラマや当時の写真パネル、モノレールの部品などが展示されています。屋外にはモノレールの台車部分も保存されていて、ロッキード式モノレールの仕組みを理解できます。ちなみに、手柄山交流ステーションは、山陽電鉄手柄山駅から徒歩約15分の手柄山中央公園内にあります。(小野田滋)

”姫路市営モノレール(兵庫県姫路市)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

ロッキードって、あの戦闘機で有名なメーカーですか?

師匠

その昔、ロッキード事件という政財界を巻き込む疑獄事件があって、世間を騒がせたあのロッキード社だ。

小鉄

でも、姫路のモノレールは丸顔のゆるキャラ風デザインで、ぜんぜんロッキードっぽくないですよ。

師匠

まあ、戦闘機のイメージが強いからそう思うだけだ。

小鉄

ロッキード式モノレールの特徴は何ですか?

師匠

跨座式モノレールの一種だが、走行部分に鉄製のレールと鉄車輪を使って走行する。

小鉄

鉄のレールと車輪だったら、普通の鉄道と同じじゃないですか?

師匠

モノレールだから、レールは軌道桁の中央に1本だけあって、駆動車輪はその上に1輪だけ乗っている。

小鉄

一輪車ってことですか?

師匠

それだけでは倒れてしまうから、両側から安定車輪でレールを挟んで、さらに下部にも安定車輪を設けて車体を安定させている。

小鉄

ロッキード式モノレールは、ほかでも使われたんですか?

師匠

小田急の向ヶ丘遊園モノレール線で、1966(昭和41)年~2000(平成12)年まで運行されていた。

小鉄

1966(昭和41)年開業だと、姫路市と同じ年ですよ。

師匠

向ヶ丘遊園が4月23日で、姫路が5月17日だから、向ヶ丘遊園がわずかに先だった。

小鉄

その後は使われなかったんですか?

師匠

跨座式モノレールには、ゴムタイヤを使用する東芝式、アルウェーグ式と、鉄輪を使用するロッキード式が存在したが、日本モノレール協会によって1968(昭和43)年にはゴムタイヤを使った日本跨座式に規格が統一された。

小鉄

あっ思い出しました。ドボ鉄99回の奈良ドリームランドのモノレールは東芝式、ドボ鉄138回の東京モノレールはアルウェーグ式だったですよね。

師匠

よく覚えていたな。

小鉄

ということは、ロッキード式は向ケ丘遊園と姫路市だけだったってことですか?

師匠

そうなるな。日本跨座式は、1970(昭和45)年の大阪万博のモノレールで実用化されて、以後の跨座式モノレールはこの方式に統一された。

小鉄

そういえば、師匠は万博に行きましたか?

師匠

2回見に行ったぞ。

小鉄

ええっ、いつの間に2回も

師匠

当時はまだ中学生だったが、太陽の塔を見てそれから月の石を見て……。

小鉄

そっちの万博じゃなくて、今年の万博ですよ。

ドボ鉄160支笏湖畔のダブルワーレントラス

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 月, 2025-07-07 22:59

 王子製紙苫小牧工場専用鉄道(一般に「王子軽便鉄道・山線」などと称する)は、1908(明治41)年に苫小牧貯木場へ支笏湖周辺の森林資源を運搬し、千歳川の河畔に建設された工場専用の水力発電所を結ぶ鉄道として開業した。山線は、軌間762mmの軽便鉄道で、千歳川を渡るために木製のトラス橋が架設された。
 山線では1922(大正11)年より旅客輸送を開始したが、いわゆる地方鉄道法に基づく鉄道ではなく、あくまでも観光客や地元の便宜のために旅客輸送を行う鉄道として機能した。腐朽した木製トラス橋も1924(大正12)年に函館本線の第1空知川橋梁で使用されていたイギリスのパテントシャフト社製の支間200フィート(60.96m)の鋼製ダブルワーレントラス橋を転用して架替え、第1千歳川鉄橋として使用を開始した。
 「鉄橋よりフップス岳を望む」と題した絵葉書には、千歳川を跨ぐ千歳川第1鉄橋と、山線の線路が写っているが、この対岸に湖畔駅があり、手前に分岐する線路はいわゆるデルタ線を構成して、転車台を使わずに蒸気機関車の方向転換を行っていた。なお、「フップス岳」は、支笏湖の南にそびえる「風不死岳(ふっぷしだけ)」のことで、アイヌ語の「トドマツのある所」にちなんでいる。
 王子軽便鉄道山線は1951(昭和26)年に廃止されたが、廃線跡はサイクリングロードに再利用された。山線の鉄橋も千歳市に払い下げられたのち歩道橋となり、2018(平成30)年には土木学会の選奨土木遺産に認定された。また、2020(令和2)年には近傍に⼭線の歴史的役割や先⼈の努⼒を伝えるための施設として「王⼦軽便鉄道ミュージアム・⼭線湖畔驛」が開設され、支笏湖温泉や支笏湖親水公園、支笏湖展望台などとともに、新たな観光スポットとなっている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2023年8月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

第1空知川橋梁は、どんな橋梁だったのですか?

A

1898(明治31)年に北海道鉄道部によって上川線(現在の函館本線)砂川~滝川間に完成しました。今回の青図で紹介するように、砂川方から径間30フィート(9.14m)の上路プレートガーダ+径間200フィートの下路ダブルワーレントラス+径間60フィート(18.29m)の上路プレートガーダ×2連+径間40フィート(12.19m)の上路プレートガーダ×2連の全6径間で橋長は439フィート(133.81m)でしたが、1916(大正5)年5月7日~8日の水害で8日14時に第1橋脚が洗掘により転倒したため第1径間のプレートガーダと第2径間のトラスが落橋しました。このため、仮橋脚を設けてトラスを元の位置に戻して同年5月23日3時に仮復旧しましたが、これを機会に新しい橋梁に架け替えることとなり、「函館本線第一空知川橋梁改築其他」工事として、鉄道院北海道管理局により1917(大正6)年2月に着手して、1919(大正8)年8月に竣功しました。災害時の平面図と写真によれば、当時の径間構成は砂川方から径間30フィートの上路プレートガーダ+径間200フィートの下路ダブルワーレントラス+径間100フィート(30.48m)の下路プラットトラス×2連+径間60フィートの上路プレートガーダ×4連の全8径間で橋長は712フィート(217.02m)と推察され、施工時期等は不明ですが、河川改修または災害により、滝川方の第3径間~第8径間を拡幅したようです。今回紹介した災害時の写真を見ると、径間200フィートダブルワーレントラスの次に径間100フィートのプラットトラスが架かっているのがわかります。(小野田滋)

”支笏洞爺国立公園支笏湖地区・山線鉄橋(北海道千歳市)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

王子製紙の専用鉄道は、森林鉄道ですか?

師匠

森林資源を運搬する産業用の鉄道を一般に「森林鉄道」と総称しているから、森林鉄道に含まれることになる。

小鉄

普通の鉄道と何が違うんですか?

師匠

私鉄のように地方鉄道法に基づいて認可された、いわゆる普通鉄道ではない。また、山岳地の急峻な地形に建設されるから、急曲線や急勾配が多い。

小鉄

そうなると構造物も普通鉄道と違ってくるってことですか?

師匠

簡易な設備で建設されるから、レールの幅も狭かったり、木橋を使ったりする場合もある。

小鉄

普通鉄道じゃないとすると、どこが運営してるんですか?

師匠

それぞれの森林を管理している組織になる。一番多いのは国有林で、林野庁の営林署が管理するが、大学の演習林や、王子製紙のような製紙会社なども所有していた。

小鉄

お客さんは運ばなかったんですか?

師匠

基本的に材木を運搬するための専用鉄道だから時刻表にも掲載されず、鉄道業としての一般の利用は認められていなかったが、山間部の地域の足として通学などに利用していた森林鉄道もある。

小鉄

今はもう使っていないんですか?

師匠

トラック輸送に転換されて、昭和30年代の後半から急速に廃止されてしまった。

小鉄

今も残ってるんですか?

師匠

保存鉄道を除くと、国有林では鹿児島県屋久島の安房(あんぼう)森林鉄道のみが現存している。

小鉄

それは残念ですね。

師匠

森林鉄道の廃線跡は全国に残っているが、2009(平成21)年には高知県の魚梁瀬(やなせ)森林鉄道のトンネルや橋梁が国の重要文化財に指定された。

小鉄

今は、地域の文化財としての価値があるってことですね。

師匠

森林鉄道は山間僻地に多かったから、過疎地活性化のための観光資源としての利活用が期待されている。

小鉄

山線鉄橋もそのひとつですね。

師匠

支笏湖の近くでは、「千歳川の王子製紙水力発電施設群」も土木学会の選奨土木遺産に認定されているから、素材はいろいろと揃っているぞ。

小鉄

ストーリーが描けますね。

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