メインコンテンツに移動
土木学会 土木図書館委員会 ドボ博小委員会 土木学会 土木図書館委員会
ドボ博小委員会

メインメニュー

  • オンライン土木博物館 ドボ博
  • 土木図書館
  • 土木図書館委員会
  • 土木学会ホーム

ドボ博小委員会メニュー

  • ドボ博
  • ホーム

現在地

ホーム

ニュースアグリゲータ

ドボ鉄164東京駅の完成

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 月, 2025-09-08 22:47

 新橋と上野を高架鉄道で結び、その中間に中央停車場を設けることは、東京市区改正計画(東京の都市計画)で審議され、1889(明治22)年に告示された。この計画にそって、浜松町付近から分岐して、中央停車場に至る高架鉄道が建設され、ドイツから技術者を招いて工事が進められ、1910(明治43)年に呉服橋仮駅(東京駅未開業のため設置された仮駅で現在の呉服橋通り付近にあった)まで全通した。中央停車場も1914(大正3)年に完成し、「東京駅」と名付けられた。
 東京駅の開業を記念して鉄道院東京改良事務所が発行した「東京停車場」と題した絵葉書には、東京駅を正面から捉えた写真と、開業時の構内平面図が描かれた。当時の駅本屋は、中央を皇室口とし、南ドームを乗車口、北ドームを降車口として使用した。乗降場(プラットホーム)は島式×4面で構成され、丸の内側の第1乗降場と第2乗降場の2面を電車線用(山手線・京浜線)、八重洲側の第3乗降場と第4乗降場の2面を列車線用(東海道本線)に用いた。
 東京駅の乗降場は、新幹線の乗降場の増設などで増減や転用を繰り返し、現在では中央本線の重層部分を含めて、在来線5面、東北・上越・北陸新幹線2面、東海道新幹線3面の乗降場が使用されている(地下線を除く)。第2乗降場として建設された現在の5番・6番線プラットホームには、開業時の鋳鉄製柱や架線柱、煉瓦積みのプラットホーム擁壁などがわずかに残り、開業時の面影を今に伝えている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2012年11月号掲載)

 

この物件へいく

Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

フランツ・バルツァーはどんな人物ですか

A

 フランツ・バルツァーは、1857(安政4)年5月29日にザクセン王国(現在のドイツ・ザクセン州)の首都ドレスデンで生まれました。プロシア国有鉄道の建築科第一回国家試験を受験して採用され、ベルリン市街高架鉄道の改良工事に携わったのち、1884(明治17)年にシンケル奨励賞を受賞して、在外研究員としてイギリスに渡り、さらに翌年には国費でアメリカへ派遣されて見聞を広めました。1892(明治25)年には、ベルリン高等工業学校の助教授となったほか、ケルン駅の改良工事にもあたりました。
 1896(明治29)年、ヨーロッパに派遣された鉄道局監理課技師の野村龍太郎は、ベルリン留学中の田中正平の協力を得てバルツァーを日本に招聘することとし、1898(明治31)年3月に来日して、勅任官待遇(本省局長クラス)で高架鉄道と中央停車場の設計にあたりました。また、日本建築に強い関心を示し、建築家の木子清敬(きこ・きよよし)、伊東忠太と親交を深め、この二人を通じて日本建築の知識を吸収しました。
 バルツァーの任期は3年間でしたが、さらに2年を延長し、合計5年間にわたって高架鉄道と中央停車場の設計に従事しました。そして,1903(明治36)年2月に帰国の途に就き、同年11月には日本における成果を「Die Hochbahn von Tokio(東京の高架鉄道)」と題して『Z-VDI(ドイツ技術者協会誌)』に連載して、高架鉄道や中央停車場の計画から設計に至る考え方について詳細に報告しました。バルツァーはこの報告書の中で、日本の建築家が西洋建築に傾倒していることを批判し、「新しい様式の中にこれらの要素(日本の伝統建築様式)を活いかすことによって、日本建築がふたたび尊重されるようあらゆる努力をすることが、日本の建築家の義務である。」と喝破しました。
 そして、中央停車場本屋として入母屋破風や唐破風で構成される純日本風建築を提案しましたが、中央停車場の建築設計を引き継いだ辰野金吾によって否定され、クィーン・アン様式を基調とした現在の東京駅の姿に設計変更されました。ただし、中央通路を皇室専用とした駅構内の通路の配置は辰野も名案として絶賛し、原案のまま東京駅の設計に反映されました。
 日本から帰国したバルツァーは、1905(明治38)年4月にプロシア国鉄シュテティン管理局監督長官に就任し、1906(明治39)年に拓殖省の技術顧問となり、1907(明治40)年よりドイツ領東アフリカ、ドイツ領西アフリカや他のヨーロッパ諸国の植民地の鉄道を調査しました。
1914(大正3)年、第一次世界大戦の勃発にともなってドイツ軍兵士として応召し、中隊長となって予備歩兵連隊を率いましたが、西部戦線で負傷しました。バルツァーが計画した中央停車場は、同年12月に東京駅として開業しましたが、皮肉なことにその開業式典は山東省の青島攻略でドイツ軍に勝利した神尾光臣陸軍中将の凱旋帰国を兼ねていました。
 その後、1920(大正9)年にベルリン高等工業学校の名誉教授となり、1927(昭和2)年9月13日,ヴィスバーデンの自邸で逝去しました。鉄道省では現地の駐在官を葬儀に派遣して献花し、帝国鉄道協会(現在の日本交通協会)からは弔電が送られました。(小野田滋)

”東京駅(東京都千代田区)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

東京駅は左右対称だと思ってましたけど、こうして正面から見ると、南口は少し長いんですね。

師匠

開業した時の東京駅は、南口が乗車専用口、北口が降車専用口として使われていた。

小鉄

乗る時と降りる時で、改札口が別だったってことですか?

師匠

その通りだ。南口は乗車専用口だから、待合室や売店、食堂、ホテルなどがあった。

小鉄

乗車の前は、いろいろと準備が必要ですよね。

師匠

それに当時の列車は、発車時刻まで改札口が閉鎖されていて、待合室で待っていなければならなかった。

小鉄

今の駅は、自由に入れますよね。

師匠

それに比べて北口は降りるだけだから、いろいろな施設は必要なかった。

小鉄

「電車口」って何ですか?

師匠

当時の電車は編成が短かったから、プラットホームも列車線に比べて短かった。そこで、電車口を設けて通勤客の専用口とした。

小鉄

バルツァーの紹介文で「純日本風建築は否定されたが中央通路を皇室専用とした駅構内の通路の配置は原案のまま東京駅の設計に反映された」とありますが、どういうことですか?

師匠

バルツァーは日本建築の独自性を高く評価していて、日本風のデザインの駅を提案した。

小鉄

この神社のような建物ですね。

師匠

しかし、辰野金吾はこれを否定して、新たに洋風の駅を設計した。

小鉄

だけど、通路の配置はバルツァーの提案を受け入れたってことですか?

師匠

図を比較するとわかるが、ほぼ同じ位置に通路を設けている。

小鉄

あっ、ほんとだ。

師匠

バルツァーの設計思想が、今も受け継がれているという証拠だ。

小鉄

それにしても、東京駅を真正面から撮影した絵葉書は、たくさんあったんですね。

師匠

横に長い駅だったから、全景を1枚の絵葉書におさめると、どうしても天地に余白ができてしまう。

小鉄

だから、余白を利用して構内の平面図とか、工事の概要とか、国有鉄道の営業成績だとかを紹介していたんですね。

師匠

東京駅は人気が高かったから、いろいろな種類の絵葉書が発行された。

小鉄

「映える駅」ってことですね。

師匠

無理に若者言葉を使わなくても、お前さんが昭和生まれだということは、今までのドボ鉄でとっくにバレてるぞ。

ドボ鉄165室戸台風と風害

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 月, 2025-09-08 22:46

 昭和の三大台風のひとつである室戸台風(他に枕崎台風、伊勢湾台風)は、1934(昭和9)年9月21日に高知県室戸岬に上陸したのち、淡路島上空を通過して京阪神地区を襲い、若狭湾へと抜けた。室戸岬上陸時の気圧は684水銀柱ミリメートル(約912hPa)を記録し、最大瞬間風速は60m/sに達した(風速計故障のため上限値の記録、別記録では68m/sとも)。
 台風の通過により、岡山県、鳥取県、京都府北部では豪雨による水害が発生し、京阪神地区では暴風雨が吹き荒れて家屋が損壊し、列車が脱線転覆した。全国の死者は2,866名、行方不明者は200名、負傷者は15,361名、建物被害は475,634戸、船舶被害は27,595隻に及んだ(東京天文台編『理科年表』丸善(1962)による)。
東海道本線の瀬田~石山間の瀬田川橋梁では、東京発、下関行の下り急行第7列車が強風によって脱線転覆し、3両目以下の9両の客車が横転した。倒れた側には上り線の橋梁があったため落下は免れたものの、死者11名(即死6名、病院収容後死亡4名、加療中死亡1名)、負傷者216名に達した(『昭和九年度・鉄道省年報』鉄道省(1935)による)。「(関西地方大風水害)瀬田川鉄橋上で急行旅客列車顚覆」と題した絵葉書には、上り線側に横転した客車や、変形したレールがおさめられた。
 鉄道ではこのほか、東海道本線の摂津富田駅で列車が脱線したほか、東海道本線の野洲川橋梁で貨物列車が落橋した。また、私鉄では大阪電気軌道(現在の近鉄奈良線)の電車が、今里~布施間で強風により横転し、20名が負傷した。強風による建物の倒壊や損壊も相次ぎ、送電線の電柱倒壊や断線によって大規模な停電が発生した。鉄道の復旧工事は隣接する名古屋鉄道局や門司鉄道局からの応援を得て、瀬田川橋梁は9月24日、他の区間も一部を除いて10月初旬までにはほぼ復旧した。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2019年6月号掲載)

 

この物件へいく

Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

室戸台風の被害調査は、土木学会でも取り組まれたんですか?

A

土木学会では、1934(昭和9)年10月に中川吉造(元内務技監、第18代土木学会会長)を委員長とする関西地方風水害調査委員会を組織し、第1部「気象、被害状況」、第2部「河川、運河、灌漑、砂防」、第3部「港湾、海岸」、第4部「道路、道路橋」、第5部「鉄道、軌道、鉄道橋」、第6部「電気工作物」、第7部「土地、建築物」、第8部「上下水道其他」の専門分野に分けて調査を開始しました。瀬田川橋梁の被害については、上路プレートガーダ上であったため遮蔽物が無く全風圧が直接車体に作用したこと、開床式の橋梁上であったため下から上向きの風圧を受けたことなどその原因を指摘し、対策として、風速が大きくなった場合は長大橋梁や築堤上での列車運転を避けること、台風時に列車が停止する場合はその位置が危険でない場所を選ぶことなどを勧告しました。土木学会の調査結果は、『昭和9年関西地方風水害調査報告』としてまとめられ、1936(昭和11)年に土木学会より出版されました。(小野田滋)

”東海道本線・瀬田~石山間(滋賀県大津市)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

室戸台風って、前にもドボ鉄で紹介しましたよね。

師匠

ドボ鉄31回の「室戸台風の来襲」で、岡山の旭川橋梁の被害を紹介したことがある。

小鉄

今回は瀬田川だから、だいぶ東になりますね。

師匠

台風は、最初に四国の室戸岬付近に上陸して、四国を北東方向に進んで、大阪、琵琶湖を通過した。

小鉄

瀬田川橋梁で脱線した第7列車は、どんな列車だったんですか?

師匠

東京を23時ちょうどに出発する下関行きの急行列車で、大津駅には翌朝9時35分に到着予定で、下関駅には21時ちょうどに到着予定だった。しかし、風雨で遅れが生じて、瀬田川橋梁の事故は9時35分に発生した。

小鉄

ということは、夜行列車だったんですか?

師匠

そうだ。夜行の急行列車だから、寝台車や食堂車も連結していた。

小鉄

機関車の形式は何だったんですか?

師匠

C53形蒸気機関車の73号だった。

小鉄

脱線した客車は、廃車になったんですか?

師匠

脱線した9両の客車のうち、8両は現役に復帰したが、最後尾のマイネフ37200形一等寝台車は70度も傾いてしまって廃車になった。

小鉄

たしかに、調査記録でも11両目だけ傾きが大きいですね。

師匠

いったん廃車にはなったんだが、1937(昭和12)年に鉄道省大井工場でマヤ39900形試験車に改造されて復活した。

小鉄

師匠は車両にも詳しいんですね。

師匠

脱線した第7列車の編成もわかるぞ。客車は先頭からスユ36003、2両目がスハ32711、3両目がスハ32674で……。

小鉄

師匠の蘊蓄(ウンチク)が長くなりそうなので、この辺で失礼します。

ドボ鉄162ラーメン高架橋の登場

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 木, 2025-08-07 23:07

 山手線の環状運転は、当初から意図していたわけではなく、いくつかの路線をつなぎ合わせているうちに、結果的に環状線が成立した。このため、線路名称としての山手線は、品川を起点として渋谷、新宿、池袋を経て田端が終点となり、品川駅1番線ホームの線路際に0キロポストが建植されている(ドボ鉄076回「ゴジラの初上陸」参照)。山手線の形成過程については他著に譲るが、1919(大正8)年に神田駅が開業したものの、当初は中央線のプラットホームのみであった。このため、環状運転を行うために最後まで残った区間が東京~上野間であった。
 東京~上野間の高架線のうち、神田川付近~上野間は1923(大正12)年1月に着工したが、同年9月の関東大震災後によって工事が遅延したため、山手線の環状運転が開始されたのは1925(大正14)年11月1日のことであった。この時代になると鉄筋コンクリートの技術が進歩し、ラーメン構造の設計法も確立しつつあった。鉄筋コンクリートラーメン構造は耐震性に優れ、震災後における鉄道高架橋にふさわしい構造物として登場した。東京~上野間の高架橋は、鉄道省としては本格的なラーメン高架橋の最初の適用例となり、のち鉄道高架橋の造形の規範となった。また、一部の高架橋では高架下の利用を促すために、地下室を備えた。
 「高架線側面」と題した絵葉書では、完成間近い秋葉原~御徒町間の高架橋がそびえ、彼方には高架駅として新設された御徒町駅と上野公園の森が見える。地上の線路は、上野~秋葉原間を結んでいた貨物線で、工事用とおぼしき側線が分岐している。
 高架橋のうち、御徒町~上野間の高架下は、昭和時代の戦後期になるとアメ横が形成され、小売店がひしめく繁華街として連日にぎわっている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年5月号掲載)

 

この物件へいく

Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

よく「ラーメン構造」という言葉が出てきますが、どんな構造ですか?

A

橋梁の構造の一種で、橋梁下部構造(橋脚や橋台)を含めてすべてを連続させて剛結合した構造をラーメンと呼んでいます。ラーメンは、変形が拘束されるため内部に複雜な力が加わり、一般の桁橋やアーチ橋よりも設計計算が難しくなりますが、耐震性や経済性に優れているため、特に鉄筋コンクリート高架橋やボックスカルバート(函渠)の構造として用いられています。また、外力に対する抵抗力は桁構造よりも強く、より薄肉で経済的な構造物を実現できるというメリットがあります。ちなみにラーメン(Rahmen)はドイツ語で「額縁」「窓枠」などを意味する言葉で、食べるラーメンとは全く関係はありません。また、英語ではリジッドフレーム(rigid frame/剛結された枠)と称していて、「ラーメン」では通じません。(小野田滋)

”東京上野間市街高架線(東京都・千代田区/台東区)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

師匠、山手線は昔から東京を一周していたんじゃなかったんですか?

師匠

本文にもあるが、いろいろな線を接続しながら環状線になった。

小鉄

その最後の区間が、今回の東京~上野間の高架線ってことですね。

師匠

その通りだ。

小鉄

それまでは、どうしていたんですか?

師匠

電車の車両基地は中央線の中野にあって、中央本線は東京~国分寺間が電化されていた。

小鉄

ってことは、中央本線の電車は新宿、四ツ谷を経由して東京へ乗り入れできたんですね。

師匠

そのまま東京から品川、渋谷を通ってふたたび新宿に着き、池袋、田端を経由して上野が終着だった。

小鉄

東京~上野間が完成していなかったから、中央本線と山手線で往復運転していたんですね。

師匠

平仮名の「の」の字のようなルートで運転していたから、「のの字運転」とも呼ばれていた。

小鉄

あっ、ほんとだ。

師匠

山手線が環状運転を開始して、今年でちょうど百周年になる。

小鉄

もうそんなに経つんですか。

師匠

百年以上前の山手線を知る人はいなくなってしまったから、ほとんどの人は最初から環状線だったと思っている。

小鉄

「ま~るい緑の山手線~♪」って歌が有名だから、勘違いしてました。

師匠

それは某カメラ量販店のCMソングだ。しかもアメリカの「リパブリック賛歌」という歌の替え歌だから、山手線のための曲ではないぞ。

小鉄

それも勘違いしてました。

師匠

「リパブリック賛歌」はいろいろな替え歌があって、「権兵衛さんの赤ちゃんが風邪ひいた~♪」とか「お玉じゃくしはカエルの子~♪」とか……

小鉄

師匠の蘊蓄(ウンチク)が長くなりそうなので、この辺で失礼します。

ドボ鉄163日本最長のケーブルカー

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 木, 2025-08-07 23:07

 ケーブルカーは、日本語で「鋼索鉄道」と呼ばれ、急勾配を登攀するための鉄道の一種である。普通の鉄道と同様に2本のレールを使うが、車両には動力装置が無いため自走はできず、地上にある動力装置と車両をケーブルでつないで引っ張り、左右のレールの中央にはケーブルをガイドするための滑車がある。
 京都の比叡山には、京都市側と大津市側の両方にケーブルカーがあり、京都市側のケーブルカーは、京福電気鉄道鋼索線と称し、1925(大正14)年に京都電燈鋼索線として西塔橋(現・ケーブル八瀬)~四明ヶ嶽(現・ケーブル比叡)の延長1,435mが開業した(一般には「叡山ケーブル」と呼ばれている)。さらに1928(昭和3)年には京福電気鉄道叡山ロープウェイ(開業時は比叡山空中ケーブルと称した)によってロープ比叡~比叡山山頂間が結ばれた。
 これに対して大津市側は、1927(昭和2)年に、比叡山鉄道として坂本(現・ケーブル坂本)~叡山中堂(現・ケーブル延暦寺)間の延長2,025mが開業し、一般には「坂本ケーブル」と呼ばれている。延長は、日本のケーブルカーとしては最も長く(2番目は六甲ケーブルの1,764m)、勾配は333‰(水平距離100mで高さ33.3mを登る勾配)、高低差は約480mあり、その中間には裳立山遊園地駅(現在のもたて山駅)、ほうらい丘駅の2駅が設置された。
 「琵琶湖畔叡山ケーブルカー坂本駅」と題した絵葉書には、麓(ふもと)にある起点駅の坂本駅の外観がおさめられ、その背後にケーブルカーの車両が見える。坂本駅と山頂のケーブル延暦寺駅は、ともに1927(昭和2)年の開業時に完成した洋風の建築である。叡山中堂駅は、仏教にちなんだと思われる数珠(ビード/複数形で「ビーズ」)で縁取りした独特の装飾を室内に施し、垂直線を強調した細長い窓にアール・デコの影響が見られる。これらの2駅は、1997(平成9)年に国の登録有形文化財に登録された。(小野田滋)(書き下ろし)

 

この物件へいく

Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

ケーブルカーの特徴を教えてください。

A

ケーブルカーは、国によってロープウェイを含める場合もありますが、日本ではロープウェイは「索道」と呼ばれ、ケーブルカーはいわゆる「鋼索鉄道」に区分しています。また、日本では交走式と呼ばれる釣瓶(つるべ)井戸のように一組の車両をケーブルの先につなげて交互に上下さる方式が一般的ですが、サンフランシスコのケーブルカーのように鋼索を掴(つか)む循環式と呼ばれる方式などもあります。ケーブルカーは、普通の鉄道では登ることができない急勾配で使われますが、速度が遅く、多数の車両を連結できないことなど、大量輸送には適していません。このため、勾配が急で、限られた短い区間のみを往復する小容量の交通機関として用いられ、ロープウェイとともにもっぱら観光地で利用されています。また、荷役運搬のみに使用される貨物専用のケーブルカーはインクラインと呼ばれ、日本では琵琶湖疏水のインクラインが有名です。(小野田滋)

”比叡山鉄道ケーブル坂本駅(滋賀県・大津市)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

師匠はケーブルカーに乗ったことがありますか?

師匠

もちろんだ。眼下に広がる絶景を楽しみながら、山頂をめざす時の高揚感は格別だ。

小鉄

テンション上げまくりってことですね。

師匠

路線が短いから目立たないが、全国各地にあるから乗ってみるといいぞ。

小鉄

東京の近くだと、どこにありますか?

師匠

高尾山の高尾登山電鉄とか、御岳山の御岳登山鉄道があるぞ。

小鉄

日本ではどこか一番古いんですか?

師匠

奈良県にある近鉄の生駒ケーブル宝山寺線が最初で、1918(大正7)年に開業した。

小鉄

そういえば「フニクリ・フニクラ」って曲に「登山電車ができたので、誰でも登れる~♪」という歌詞がありますが、ひょっとしてケーブルカーのことですか?

師匠

「フニクリ・フニクラ」は、イタリアのヴェスヴィオ火山のケーブルカー会社のCMソングとして作曲された。世界最初のCMソングとされている。

小鉄

どうりで、登山電車に乗りたくなる歌ですよね。

師匠

「フニクリ・フニクラ」の替え歌もいくつかあって、「鬼のパンツ」が有名だ。

小鉄

あっ、それ知ってますよ。「鬼のパンツは、いいパンツ、つよいぞ~、つよいぞ~♪」ですよね。

師匠

「鬼のパンツ」を知ってるってことは、さては昭和の生まれだな。

ドボ鉄161日本最初の市営モノレール

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 月, 2025-07-07 22:59

 1964(昭和39)年に東京モノレールが開業して、都市鉄道としてのモノレールに注目が集まると、各地でその導入に向けた動きが活発となった。姫路市では、姫路駅と観光地である手柄山を結ぶ交通機関としてモノレールを導入することとし、アメリカのロッキード社の特許に基づく、跨座式のモノレールを導入した。ロッキード社は、航空機の製造で知られているが、当時はモノレールの開発にも取組んでいて、鉄車輪を用いた跨座式(「ロッキード式」と称された)が特徴であった。
 モノレールの路線は、姫路と手柄山の延長約1.6kmで、1965(昭和40)年に着工し、手柄山で開催された姫路大博覧会に合せて翌年5月17日に開業した。事業は、姫路市交通局により行われ、全国で初の「市営のモノレール」事業としてスタートした。「姫路大観」という当時の観光絵葉書集には、国宝・姫路城を背景としたモノレールの姿がおさめられ、新旧の名所が対比された。
 姫路市営モノレールは、さらに臨海工業地帯への延伸を計画したものの実現に至らず、輸送量は減少を続けたため、開業8年後の1974(昭和49)年4月11日をもって運転を休止し、1979(昭和54)年には正式に廃止された。
 モノレールの廃止後も軌道桁などの構造物はほぼそのままの姿で残っていたが、近年になって大部分が撤去され、姫路駅の西側にいくつかの橋脚が残るのみとなってしまった。終点の手柄山駅の構内は手柄山交流ステーションとしてモノレールの展示室に整備され、プラットホームの跡には2両の車両が保存されている。
 姫路モノレールの施設群は、「戦後姫路の躍進と大志の結集体」として、2020(令和2)年に土木学会が認定する選奨土木遺産に選ばれた。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年11月号掲載)

 

この物件へいく

Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

手柄山交流ステーションには、何が展示されているんですか?

A

かつて走っていた4両の車両のうち、両運転台式として登場した200形の201号と202号の2両(川崎航空機工業製)が保存されているほか、ジオラマや当時の写真パネル、モノレールの部品などが展示されています。屋外にはモノレールの台車部分も保存されていて、ロッキード式モノレールの仕組みを理解できます。ちなみに、手柄山交流ステーションは、山陽電鉄手柄山駅から徒歩約15分の手柄山中央公園内にあります。(小野田滋)

”姫路市営モノレール(兵庫県姫路市)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

ロッキードって、あの戦闘機で有名なメーカーですか?

師匠

その昔、ロッキード事件という政財界を巻き込む疑獄事件があって、世間を騒がせたあのロッキード社だ。

小鉄

でも、姫路のモノレールは丸顔のゆるキャラ風デザインで、ぜんぜんロッキードっぽくないですよ。

師匠

まあ、戦闘機のイメージが強いからそう思うだけだ。

小鉄

ロッキード式モノレールの特徴は何ですか?

師匠

跨座式モノレールの一種だが、走行部分に鉄製のレールと鉄車輪を使って走行する。

小鉄

鉄のレールと車輪だったら、普通の鉄道と同じじゃないですか?

師匠

モノレールだから、レールは軌道桁の中央に1本だけあって、駆動車輪はその上に1輪だけ乗っている。

小鉄

一輪車ってことですか?

師匠

それだけでは倒れてしまうから、両側から安定車輪でレールを挟んで、さらに下部にも安定車輪を設けて車体を安定させている。

小鉄

ロッキード式モノレールは、ほかでも使われたんですか?

師匠

小田急の向ヶ丘遊園モノレール線で、1966(昭和41)年~2000(平成12)年まで運行されていた。

小鉄

1966(昭和41)年開業だと、姫路市と同じ年ですよ。

師匠

向ヶ丘遊園が4月23日で、姫路が5月17日だから、向ヶ丘遊園がわずかに先だった。

小鉄

その後は使われなかったんですか?

師匠

跨座式モノレールには、ゴムタイヤを使用する東芝式、アルウェーグ式と、鉄輪を使用するロッキード式が存在したが、日本モノレール協会によって1968(昭和43)年にはゴムタイヤを使った日本跨座式に規格が統一された。

小鉄

あっ思い出しました。ドボ鉄99回の奈良ドリームランドのモノレールは東芝式、ドボ鉄138回の東京モノレールはアルウェーグ式だったですよね。

師匠

よく覚えていたな。

小鉄

ということは、ロッキード式は向ケ丘遊園と姫路市だけだったってことですか?

師匠

そうなるな。日本跨座式は、1970(昭和45)年の大阪万博のモノレールで実用化されて、以後の跨座式モノレールはこの方式に統一された。

小鉄

そういえば、師匠は万博に行きましたか?

師匠

2回見に行ったぞ。

小鉄

ええっ、いつの間に2回も

師匠

当時はまだ中学生だったが、太陽の塔を見てそれから月の石を見て……。

小鉄

そっちの万博じゃなくて、今年の万博ですよ。

ドボ鉄160支笏湖畔のダブルワーレントラス

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 月, 2025-07-07 22:59

 王子製紙苫小牧工場専用鉄道(一般に「王子軽便鉄道・山線」などと称する)は、1908(明治41)年に苫小牧貯木場へ支笏湖周辺の森林資源を運搬し、千歳川の河畔に建設された工場専用の水力発電所を結ぶ鉄道として開業した。山線は、軌間762mmの軽便鉄道で、千歳川を渡るために木製のトラス橋が架設された。
 山線では1922(大正11)年より旅客輸送を開始したが、いわゆる地方鉄道法に基づく鉄道ではなく、あくまでも観光客や地元の便宜のために旅客輸送を行う鉄道として機能した。腐朽した木製トラス橋も1924(大正12)年に函館本線の第1空知川橋梁で使用されていたイギリスのパテントシャフト社製の支間200フィート(60.96m)の鋼製ダブルワーレントラス橋を転用して架替え、第1千歳川鉄橋として使用を開始した。
 「鉄橋よりフップス岳を望む」と題した絵葉書には、千歳川を跨ぐ千歳川第1鉄橋と、山線の線路が写っているが、この対岸に湖畔駅があり、手前に分岐する線路はいわゆるデルタ線を構成して、転車台を使わずに蒸気機関車の方向転換を行っていた。なお、「フップス岳」は、支笏湖の南にそびえる「風不死岳(ふっぷしだけ)」のことで、アイヌ語の「トドマツのある所」にちなんでいる。
 王子軽便鉄道山線は1951(昭和26)年に廃止されたが、廃線跡はサイクリングロードに再利用された。山線の鉄橋も千歳市に払い下げられたのち歩道橋となり、2018(平成30)年には土木学会の選奨土木遺産に認定された。また、2020(令和2)年には近傍に⼭線の歴史的役割や先⼈の努⼒を伝えるための施設として「王⼦軽便鉄道ミュージアム・⼭線湖畔驛」が開設され、支笏湖温泉や支笏湖親水公園、支笏湖展望台などとともに、新たな観光スポットとなっている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2023年8月号掲載)

 

この物件へいく

Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

第1空知川橋梁は、どんな橋梁だったのですか?

A

1898(明治31)年に北海道鉄道部によって上川線(現在の函館本線)砂川~滝川間に完成しました。今回の青図で紹介するように、砂川方から径間30フィート(9.14m)の上路プレートガーダ+径間200フィートの下路ダブルワーレントラス+径間60フィート(18.29m)の上路プレートガーダ×2連+径間40フィート(12.19m)の上路プレートガーダ×2連の全6径間で橋長は439フィート(133.81m)でしたが、1916(大正5)年5月7日~8日の水害で8日14時に第1橋脚が洗掘により転倒したため第1径間のプレートガーダと第2径間のトラスが落橋しました。このため、仮橋脚を設けてトラスを元の位置に戻して同年5月23日3時に仮復旧しましたが、これを機会に新しい橋梁に架け替えることとなり、「函館本線第一空知川橋梁改築其他」工事として、鉄道院北海道管理局により1917(大正6)年2月に着手して、1919(大正8)年8月に竣功しました。災害時の平面図と写真によれば、当時の径間構成は砂川方から径間30フィートの上路プレートガーダ+径間200フィートの下路ダブルワーレントラス+径間100フィート(30.48m)の下路プラットトラス×2連+径間60フィートの上路プレートガーダ×4連の全8径間で橋長は712フィート(217.02m)と推察され、施工時期等は不明ですが、河川改修または災害により、滝川方の第3径間~第8径間を拡幅したようです。今回紹介した災害時の写真を見ると、径間200フィートダブルワーレントラスの次に径間100フィートのプラットトラスが架かっているのがわかります。(小野田滋)

”支笏洞爺国立公園支笏湖地区・山線鉄橋(北海道千歳市)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

王子製紙の専用鉄道は、森林鉄道ですか?

師匠

森林資源を運搬する産業用の鉄道を一般に「森林鉄道」と総称しているから、森林鉄道に含まれることになる。

小鉄

普通の鉄道と何が違うんですか?

師匠

私鉄のように地方鉄道法に基づいて認可された、いわゆる普通鉄道ではない。また、山岳地の急峻な地形に建設されるから、急曲線や急勾配が多い。

小鉄

そうなると構造物も普通鉄道と違ってくるってことですか?

師匠

簡易な設備で建設されるから、レールの幅も狭かったり、木橋を使ったりする場合もある。

小鉄

普通鉄道じゃないとすると、どこが運営してるんですか?

師匠

それぞれの森林を管理している組織になる。一番多いのは国有林で、林野庁の営林署が管理するが、大学の演習林や、王子製紙のような製紙会社なども所有していた。

小鉄

お客さんは運ばなかったんですか?

師匠

基本的に材木を運搬するための専用鉄道だから時刻表にも掲載されず、鉄道業としての一般の利用は認められていなかったが、山間部の地域の足として通学などに利用していた森林鉄道もある。

小鉄

今はもう使っていないんですか?

師匠

トラック輸送に転換されて、昭和30年代の後半から急速に廃止されてしまった。

小鉄

今も残ってるんですか?

師匠

保存鉄道を除くと、国有林では鹿児島県屋久島の安房(あんぼう)森林鉄道のみが現存している。

小鉄

それは残念ですね。

師匠

森林鉄道の廃線跡は全国に残っているが、2009(平成21)年には高知県の魚梁瀬(やなせ)森林鉄道のトンネルや橋梁が国の重要文化財に指定された。

小鉄

今は、地域の文化財としての価値があるってことですね。

師匠

森林鉄道は山間僻地に多かったから、過疎地活性化のための観光資源としての利活用が期待されている。

小鉄

山線鉄橋もそのひとつですね。

師匠

支笏湖の近くでは、「千歳川の王子製紙水力発電施設群」も土木学会の選奨土木遺産に認定されているから、素材はいろいろと揃っているぞ。

小鉄

ストーリーが描けますね。

ドボ鉄159本州四国連絡橋の建設

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 土, 2025-06-07 23:11

 本州四国連絡橋の建設は、1970(昭和45)年に本州四国連絡橋公団が設立されて本格化し、神戸・鳴門ルート、児島・坂出ルート、尾道・今治ルートの3ルートで瀬戸内海を渡ることとなった。このうち、児島・坂出ルートは、道路と鉄道の併用橋として建設され、宇高連絡船に代わって、宇野線の茶屋町から分岐して予讃線の宇多津へ至る本四備讃線の建設が開始された。
 四国方は、予讃線と接続して高松方面と松山・高知方面に分岐するため、いわゆるデルタ線を構成することとなった。「宇多津地区で建設中の本四備讃線」と題した絵葉書は、1986(昭和61)年に国鉄建設局が発行した「土木学会表彰受賞記念絵葉書」の一枚で、当時の建設状況を示している。本四連絡橋はほぼ完成しているが、与島以南の北備讃瀬戸大橋と南備讃瀬戸大橋はまだ閉合しておらず、手前のデルタ線を構成する高架橋も大東川橋梁などいくつかの橋梁が未完成である。写真右側に伸びる高架橋が高松方面への連絡線、写真左側に伸びる高架橋が丸亀方面への連絡線で、手前の高架橋は予讃線の新線である。
 変形量の大きい長大吊橋や斜張橋に列車を走らせることは未経験で、たわみによって生じる角折れや、温度変化による伸縮を考慮した「緩衝桁軌道伸縮装置」を開発することによってこれを克服した。本四備讃線の完成は、国鉄分割・民営化の約1年後となり、1988(昭和63)年4月10日に開業して、宇高連絡船は廃止された。香川県坂出市の瀬戸大橋記念公園には、瀬戸大橋記念館や本四連絡橋を一望できる高さ108mの瀬戸大橋タワーがあり、野外の展示広場には、瀬戸大橋のメインケーブル、架設工事に用いられた建設機械などが展示されている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年9月号掲載)

 

この物件へいく

Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

瀬戸大橋記念館にある銅像は誰ですか?

A

瀬戸内海に橋を架けることを最初に提唱した大久保諶之丞(おおくぼ・じんのじょう:1849~1891)の全身像と、本州四国連絡橋公団の坂出工事事務所初代所長だった杉田秀夫(すぎた・ひでお:1931~1993)の胸像です。大久保諶之丞は県会議員で、1889(明治22)年5月23日の讃岐鉄道開通式で、「塩飽諸島を橋台となし、山陽鉄道に架橋連結せしめなば、常に風波の憂ひなく、午後に浦戸の釣を垂れ、夕に敦賀の納涼を得ん。」と瀬戸内海に架橋する構想を提唱しました。この演説は、瀬戸内海に架橋することを公言した最初とされ、1883(明治16)年に完成したニューヨークのブルックリン橋に影響を受けたとする説もあります。杉田秀夫は土木技術者で、日本国有鉄道から日本鉄道建設公団を経て本州四国連絡橋公団へ移り、初代坂出工事事務所長としてBB7Aアンカレイジの建設などを指揮しました。潜水士の免許を取得して自ら海へ潜り、基礎岩盤を確認するなど、その行動力は多くの人々から敬慕されました。(小野田滋)

”予讃線・坂出~宇多津間(香川県綾歌郡宇多津町)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

師匠。よく考えたら、鉄道の吊橋ってあまり見ないですけれど、何か理由があるんですか?

師匠

時々、イラストなどで吊橋を渡る蒸気機関車が描かれたりしているが、現実にはあり得ない風景だ。

小鉄

吊橋と鉄道は相性が悪いってことですか?

師匠

その通り。吊橋は荷重を載せたときの変形量が大きいから、ミリ単位でレールを管理している鉄道を通過させることは難しい。

小鉄

でも本四連絡橋では実現したんですよね。

師匠

その工夫が緩衝桁軌道伸縮装置だ。

小鉄

写真だけではよくわかりませんけど。

師匠

吊橋は温度の伸縮や荷重によるたわみで大きく変形する。

小鉄

たしかに、吊橋を渡る時は、グラグラ揺れますよね。

師匠

特に吊橋の端部は角折れという変形や大きな伸縮が生じるから、その変形を分散したり伸縮を吸収して、列車が安全に通過できるように開発された特殊な桁が緩衝桁軌道伸縮装置だ。

小鉄

写真で紹介されている「BB7A躯体竣工記念碑」って、何の記念碑ですか?

師匠

南備讃瀬戸大橋の南側アンカレイジの記念碑だ。碑文によれば、当時の世界最大のコンクリート構造物で、その最終コンクリートを用いて記念碑を建てたそうだ。

小鉄

アンカレイジって何ですか?

師匠

吊橋のケーブルを固定するための巨大なブロックのことだ。

小鉄

このコンクリートの塊ですね。「BB7A」は何の意味ですか?

師匠

瀬戸大橋では、下津井瀬戸大橋を「SB」、櫃石島橋を「HB」、与島橋を「YB」とイニシャルに基づく略号で表し、北備讃瀬戸大橋は「NBB」、北備讃瀬戸大橋は「SBB」と称した。

小鉄

でも「BB」ですよ。

師匠

北備讃瀬戸大橋と南備讃瀬戸大橋は連続して架けられたこともあって、図にあるように下部構造は橋台と橋脚をまとめて、岡山方から1~7の番号を続けて付けて、橋の略号も「BB」のみとした。

小鉄

わかった!「A」はアンカレイジの略ですね。

師匠

よく気がついたな。瀬戸大橋タワーの展望室から、BB7Aアンカレイジがよく見えるぞ。

小鉄

BB7Aの記念碑はどこにあるんですか?

師匠

BB7Aアンカレイジの西側にある 沙弥ナカンダ浜という浜辺に、ひっそりと建っている。

小鉄

瀬戸大橋記念公園のあたりは、ドボ博的な見所が多くて、満腹ですね。

師匠

うどんと骨付き鶏だけじゃないぞ。

ドボ鉄158 AKIBAにそびえる高架橋

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 土, 2025-06-07 23:08

 御茶ノ水駅と両国駅の間を高架線で結び、中央本線と総武本線の直通運転を行おうとする計画は、関東大震災後の震災復興計画の中で具体化され、東京市の区画整理事業とあわせて進められることとなった。高架橋本体の工事は1931(昭和6)年2月に失業救済事業として鉄道省によって開始され、総延長3.6kmを7工区に分割して行われた。
 このうち、御茶ノ水~秋葉原間の万世橋工区は、延長わずか325mであったが、開脚式の鋼ラーメン橋脚を用いた神田川橋梁、ブレーストリブタイドアーチによる松住町架道橋、中央通りを跨ぐ御成街道架道橋など、特徴的な構造物がいくつか建設された。工事は鉄道省東京第二改良事務所の監督、大林組の施工により行われ、1932(昭和7)年5月に完成した。
 「お茶の水両国間東洋一の大陸橋」と題した戦前の絵葉書には、御成街道架道橋を手前にして、高さ12.5mの旅篭町高架橋があたりを睥睨(へいげい)するかのごとく聳(そび)えている。旅篭町高架橋の後方には松住町架道橋が架かり、さらにその左側には駿河台のランドマークであったニコライ堂を遠望することができる。
 戦災によって灰燼に帰した秋葉原であったが、戦後になって電器商が集まり、露店を広げるようになった。これらはほどなく、GHQの露店撤廃令によって高架下へ整理されたが、3階建のビルに相当する高架橋は、店舗として有効に活用された。今や AKIBAと呼ばれ、世界にその名を知られる秋葉原であるが、電気街へと発展するきっかけを作った高架橋は、時代の変化を見守りつつ今も健在である。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2008年2月号掲載)

 

この物件へいく

Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

秋葉原の高架橋はずいぶん高い位置にありますが、なぜこんなに高いんですか?

A

東京駅と上野駅を結ぶ高架線が1925(大正14)年に完成していたので、1932(昭和7)年に完成した御茶ノ水~両国間の高架線はさらにその上を跨ぐことになりました。また、御茶ノ水駅は、台地から平地へ至る台地の「際(きわ)」に位置したため、地形的にも高い位置から低地の両国へ向かって高架線を建設することになりました。(小野田滋)

”総武本線・御茶ノ水~秋葉原間(東京都千代田区)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

今月の絵葉書ですけど、ほんとに秋葉原ですか?

師匠

今から90年くらい前の絵葉書だ。この時代は高いビルがなかったから今と全く違う景色だった。

小鉄

遠くに聳えている、大きな建物はニコライ堂ですね?

師匠

そうだ。かつて東京のランドマークとして、どの方向からもよく見えた。

小鉄

今はビルが建っていて見えませんよね。

師匠

この絵葉書で今も変わらないのは、高架線とニコライ堂くらいだな。

小鉄

前回とりあげた地下鉄の万世橋仮駅は。どこにあったんですか?

師匠

ここには写っていないが、御成街道架道橋の少し南側のあたりだ。

小鉄

秋葉原なのに、ぜんぜん電気街じゃないですよ。

師匠

本文にもあるが、電気街として発展するのは、昭和時代の戦後になってからだ。

小鉄

昔からあると思ってました。

師匠

いくつかの商店は昭和戦前期に創業していたが、しばらくはラジオ部品を扱う店が多かった。

小鉄

部品を買って、自分でラジオを組み立てるってことですか?

師匠

5球スーパーとか高1ラジオとか……懐かしいな。

小鉄

スーパー?高校1年?

師匠

何を言っておる。真空管ラジオの種類のことだ。

小鉄

トランジスタより前の時代ですね。

師匠

電気製品が「家電」として大量生産されて普及するのは、昭和30年代になってからだ。

小鉄

「テレビ、冷蔵庫、洗濯機」ですね。

師匠

三種の神器を知ってるってことは、さては昭和の生まれだな。

土木学会 土木図書館委員会 ドボ博小委員会 アグリゲータ を購読

(c)Japan Society of Civil Engineers