鉄道車両を動かすための動力は、主として電気か内燃機関が用いられているが、珍しい動力として、今回紹介する「人力」がある。
人力を動力とする鉄道は、「人車鉄道」と総称され、特別な施設を必要としない簡易な輸送機関として全国各地で普及したが、栃木県下は特に多く、宇都宮軌道運輸(のち宇都宮石材軌道)、那須人車軌道、岩舟人車鉄道、鍋山人車鉄道、野州人車鉄道、乙女(おとめ)人車軌道、喜連川(きつれがわ)人車鉄道の各社が存在した。
1896(明治29)年に設立された宇都宮軌道運輸は、地元で産出する大谷石(おおやいし)を出荷することを主目的とし、軌間610mm(2フィート)を用いて翌年より西原町~荒針間の延長6.3kmで営業を開始した。石材の運搬には手押しのトロッコを用いたほか、旅客用として数人を乗せた客車を、1人または2人で手押しした。
1906(明治39)年には競合する野州人車鉄道と合併して宇都宮石材軌道と改称し、大谷石の採掘、運搬、販売を一貫して行なう地元企業として発展した。人車鉄道の軌間が一般の鉄道とは異なっていたため、鉄道院(国有鉄道)日光線の鶴田駅で院線との貨車の直通を行うこととし、鶴田~荒針間に軌間1,067mmの軽便線を敷設して、1915(大正4)年より連絡運輸を開始した。
「大谷行人車鉄道」と題した絵葉書には、軌間610mmの軌道を中心として、右側に車夫が押す客車が写り、左側には貨物用の台車と加工済みの大谷石が見える。人車鉄道は、ほどなく普及する自動車の登場で、大正時代~昭和時代戦前期には姿を消し、宇都宮石材軌道は1928(昭和3)年、軌道線の一部にガソリン動車を導入したのち、1931(昭和6)年には東武鉄道に買収された。東武鉄道では、軽便線を同社宇都宮線の西川田を起点とする大谷線として改良し、人車鉄道を前身とする路線は軌道線として継承されたが、1952(昭和27)年に軌道線は廃止され、軽便線も1964(昭和39)年に廃止された。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2023年12月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
人力だけで車両が動かせるんですか?
A
人力を用いた交通機関としては道路用の人力車が有名で、今でも観光用として観光地で利用されています。人力車も人車鉄道も、自動車が普及する以前の交通機関として重宝されました。どちらも最初のひと押しはある程度の力が必要ですが、あとは慣性の法則で転がるので大きな力は必要ありません。特に、鉄のレールと鉄の車輪を組み合わせた鉄道は、車輪とレールの間の転がり抵抗や摩擦係数が小さいため、軽い車両であれば人力だけでも転がすことができます。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
最近、宇都宮市には路面電車が開業したとかで、話題になってますけど。
師匠
2023(令和5)年8月26日に開業した宇都宮ライトレールのことだな。
小鉄
人車鉄道と同じルートですか?
師匠
宇都宮石材軌道の路線は、宇都宮市の西側だったが、宇都宮ライトレールは宇都宮駅東口と芳賀・高根沢工業団地の間の東側を結んでいる。
小鉄
つまり、東北新幹線をはさんで宇都宮石材軌道の反対側ってことですね。
師匠
宇都宮ライトレールの公式ポータルサイトによれば、将来計画として宇都宮駅西口方面へ延伸して、大谷街道を北西に進んで教育会館前へ至る約5kmのルートが公表されているぞ。
小鉄
人車鉄道と、ほぼ同じルートになるんですね。
師匠
教育会館前から大谷まではまだ4kmくらいの距離があるが、本社があった材木町あたりを通るはずだから、人車鉄道の復活といえないこともないな。
小鉄
歴史は繰り返すんですね。
師匠
今から楽しみだな。
日本で最初の電気鉄道は、1890(明治23)年に東京の上野公園で開催された第3回内国勧業博覧会で、2両のアメリカ製路面電車が公開されたことに始まる。営業用の電車は1895(明治28)年に開業した京都電気鉄道が最初で、京都駅付近の東洞院塩小路下ルと伏見の伏見下油掛間の延長6.4kmを結んだ。
「京都七條停車場」と題した絵葉書には、京都駅を背にして京都電気鉄道の電車が滞留しているが、当時の京都駅は現在よりもやや北の七条通りに面して建っていた。電車は車体長約8mの小型車両で、運転室は屋根があるのみでオープンデッキとなっていた。集電装置はポール式で、屋根上のトロリーポールによって架空線式で電気を供給していた。
京都電気鉄道は軌間1,067mmの狭軌を用いたが、1912(明治45)年に開業した京都市営電車は広軌(軌間1,435mm)を採用したため、京都の路面電車は狭軌線と広軌線が混在することとなった。京都電気鉄道は、1918(大正7)年に京都市に買収されて京都市電の路線となったが一部を除いて改軌は行われず、狭軌のままで存続した。このため元京都電気鉄道の電車の車体番号には狭軌(narrow gauge)を示す「N」の記号を付与し、「N電」の愛称で京都市民から親しまれた。
京都市電の狭軌線区間は1961(昭和36)年に廃止され、残る広軌線の区間も1978(昭和53)年に全廃されて京都市内から路面電車の姿が消えた。代替となる京都市営地下鉄が開業するのは、その3年後の1981(昭和56)年のことであった。
1961(昭和36)年に廃車となったN電のうち1両(2号電車)がゆかりの平安神宮に保存され、2020(令和2)年には国の重要文化財に指定された。同車は、平安神宮神苑内で保存されていたが、2025(令和7)年2月19日に応天門近くへ移設され、1年後の公開に向けて修復作業が進められている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年4月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
京都に最初の電気鉄道が開業したいきさつは何ですか?
A
明治維新以後の京都市は遷都によって都の地位を東京に奪われたため、その勢いを失いかけていましたが、1890(明治23)年に琵琶湖疏水が完成し、翌年に完成した蹴上の水力発電所によって電力供給事業を開始しました(「ドボ鉄」第115回参照)。アメリカの電気事業の実情を視察した地元財界の高木文平(1843~1910)は、水力発電を利用した公共事業として電気鉄道に着目し、帰国後の1892(明治25)年に京都市内に電気鉄道を敷設しようと考えました。こうして1894(明治27)年に京都電気鉄道が設立され、1895(明治28)年2月1日に日本で最初の営業用路面電車の路線として、官設鉄道京都駅(東洞院塩小路下ル)から伏見(伏見下油掛)に至る伏見線が開業しました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
師匠。平安神宮に、何で京都市電の電車が保存されているんですか?
師匠
1895(明治28)年に、平安神宮で第4回内国勧業博覧会が開催されたんだが、この時に2番目に開業した路線として京都停車場から平安神宮付近の岡崎へ至る線が開業した。
小鉄
「内国勧業博覧会」ってあまり聞き慣れないですけど、万博と同じですか?
師匠
万博は国際博覧会だが、内国勧業博覧会は明治政府が主催した日本国内の博覧会のことだ。国内の産業新興や輸出品の育成を目的としていた。だから特に「勧業」と称していた。
小鉄
万博の国内版ってことですね。
師匠
そういうことになるかな。一般の博覧会は、珍品や名品を展示することが目的だったが、勧業博覧会は産業の奨励が目的だった。
小鉄
平安神宮も何か関係あるんですか?
師匠
第4回内国勧業博覧会は平安遷都1100年を記念して、京都で開催されることになった。
小鉄
東京遷都が実現していなければ、「1100年の都」ってことですね。
師匠
平安神宮は、遷都1100年を記念して、平安遷都を行った桓武天皇を祀る神社として1895(明治28)年に創建された。
小鉄
「平安」だから、平安時代から続いている古い神社かと思っていました。
師匠
1906(明治39)年には、京都市の「京都市三大事業」が開始されたが、その起工式は平安神宮で開催された。
小鉄
「京都市三大事業」って何ですか?
師匠
「第二琵琶湖疏水の開削」「上水道の整備」「市電を含む道路の拡張・整備」の三事業のことだ。
小鉄
なるほど。そういう縁で平安神宮に市電が保存されることになったんですね。
師匠
平安神宮も京都の電車も、同じ年に誕生したことになるな。
小鉄
京都は古い伝統の街かと思っていましたが、新しい事業にも挑戦していたんですね。
師匠
東京遷都のショックが、都を再生させたことになるな。
小鉄
水力発電と電気鉄道は、その象徴ってことですね。
紀勢本線の松阪駅は、津~山田(現在の伊勢市)を結んだ私設鉄道の参宮鉄道によって1893(明治26)年に開業し、1907(明治40)年に国有化されて参宮線となった。タイトルに「三重県松阪 中央省線 並ニ名松線 右参急 左松電」と書かれた絵葉書は、昭和戦前期の松阪駅の構内を撮影した一枚で、「参急」は参宮急行電鉄、「松電」は松阪電気鉄道の略である。
国有化後の松阪駅には、1912(大正元)年に軌間762mmの松阪軽便鉄道が開業し、櫛田川上流の大石へ線路を伸ばした。同社は1927(昭和2)年に電化されて翌年には社名を松阪電気鉄道とし、戦後は三重交通大石線となったが、三重電気鉄道に分社化されたのち1964(昭和39)年に廃止された。
一方、1929(昭和4)年に鉄道省の名松線が松阪を起点として開業し、雲出川をさかのぼって名張をめざしたが、途中の伊勢奥津までを結んだにとどまった。参宮急行電鉄は、大阪と伊勢方面を直通する軌間1,435mmの電気鉄道として1930(昭和5)年に松阪駅の東側に駅を設け、現在の近鉄山田線となった。それぞれの松阪駅は隣接していたが、国鉄線、松阪電気鉄道、参宮急行電鉄では軌間が異なるため、列車の直通運転はできなかった。1959(昭和34)年には紀勢本線が全通したため、松阪を含む参宮線の亀山~多紀間は紀勢本線へ編入され、現在に至っている。
写真の左端には松阪電気鉄道の松阪駅があり、長大な跨線橋が右端に新設された参宮急行電鉄の松阪駅へと伸びている。構内の中央には蒸気機関車の時代を象徴する給水塔が建ち、8620形蒸気機関車が牽引する旅客列車が松阪駅を後にし、踏切では荷馬車が列車の通過を待っている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年3月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
最初に松阪駅を開業した参宮鉄道は、どんな会社ですか?
A
参宮鉄道は、伊勢神宮への参拝客を運ぶために設立された鉄道で、1893(明治26)年に津~宮川間が開業し、1897(明治30)年に宮川~山田(現在の伊勢市)間が延仲開業しました。鉄道国有法によって1907(明治40)年に国に買収されて参宮線となり、国有化後の1911(明治44)年に山田~鳥羽間が延長開業しました。本文にもあるように、1959(昭和34)年に紀勢本線が全通したため、亀山~多紀間は紀勢本線へ編入されて現在に至っています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
この松阪駅前にある「驛鈴」(えきれい)のモニュメントって何ですか?
師匠
ああ、本居宣長だな。
小鉄
本居宣長って、江戸時代の人物ですよね。「驛」ってあるから松阪駅と関係あるのかと思いましたけど……。
師匠
「驛鈴」は律令制の時代に、地方へ出張する官吏が携行した鈴のことだ。
小鉄
なんで江戸時代の本居宣長と関係あるんですか?
師匠
本居宣長は、国学者として「古事記」を研究した人物で、松阪の出身だ。
小鉄
「驛鈴」とどこでつながるんですか?
師匠
12代浜田藩(現在の島根県)主の松平康定が、「古事記伝」を著した本居宣長が鈴の収集家と知って、「驛鈴」を贈ったといわれている。
小鉄
つまり殿様からの贈り物ってことですか。
師匠
そのエピソードにちなんで、松阪駅前に駅鈴のモニュメントが設置された。
小鉄
駅と関係があるわけではないんですね。
師匠
駅はその都市の玄関だから、その都市を象徴するモニュメントを設置する例が多い。
小鉄
松阪といえば松阪牛だと思ってました。
師匠
やっぱり食べる方か………。
1872(明治5)年に新橋~横浜間で日本最初の鉄道が開業したが、当時の横浜駅は現在の根岸線・桜木町駅のあたりにあった。この時点で線路をさらに西へ伸ばす計画はなかったが、乗降場は新橋駅のように完全な行止まり式の頭端ホームとせず、片側に寄せて通過線を確保することにより将来の延伸に備えた。
1887(明治20)年には現在の東海道本線の一部となる横浜~国府津間が開業したが、横浜駅から先は通過式ではなく、スイッチバックで程ヶ谷(現在の保土ヶ谷)方面へ至ることとした。このため、横浜駅で機関車を付替える必要が生じ、輸送上の隘路となった。
その後、日清戦争を契機として1894(明治27)年に神奈川~程ヶ谷間を短絡する軍用貨物線が建設され、1898(明治31)年には旅客列車も通過するようになった。さらに1915(大正4)年には、東海道本線を軍用貨物線のやや東側の高島町付近を経由するルートに新設して2代目の横浜駅を新築・移転し、初代の横浜駅は桜木町駅に改称された。
「横浜停車場」と題した絵葉書は、この際に完成した2代目の横浜駅を撮影したもので、前年に開業した東京駅よりも規模は小さかったが、中央にピナクル(小尖塔)を設けた煉瓦造のルネサンス風建築として完成し、駅前を高島~保土ケ谷間の貨物線が高架橋で通過した。
この改良工事によって、スイッチバック運転は解消されたが、8年後に発生した関東大震災で被災し、復旧ののち1928(昭和3)年には現在の地へ再移転した。このため、2代目の横浜駅はわずか13年の使用で姿を消したが、2006(平成18)年にマンションを建設した際に2代目駅本屋の基礎部分が発掘され、その一部が現地で保存されている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年2月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
鉄道が開業した時の横浜停車場は、将来、線路が西へ伸びることを前提として建設してなかったんですか?
A
本文でも触れていますが、いちおう先に伸ばせるようになっていました。始発となる東京の新橋停車場は頭端式と呼ばれる行止まりのプラットホームでしたが、横浜停車場はホームを駅の中心軸からシフトして、いちばん南側の線路は将来先に伸ばせるように考慮していました。しかし、三浦半島の丘陵地を横断するためには難工事となることが予想され、結果的に旧東海道の程ヶ谷、戸塚を経て大船へ至るルートが選択されました。このため、東海道本線にスイッチバックが生じてしまいました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
2代目横浜駅の絵葉書ですが、駅前に橋のようなものが横断してますけど、何ですか?
師匠
ああ、あれは貨物線の高架橋だ。
小鉄
どこを結んでたんですか?
師匠
東海道本線の鶴見から分岐する東海道本線の貨物支線で、高島貨物駅から新港埠頭を経て横浜税関へ至る貨物線と、東海道線の程ヶ谷方面へ至る貨物線が分岐していた。
小鉄
貨物列車のための高架橋だったんですね。
師匠
二代目の横浜駅は、東京駅と同じ年に完成した。
小鉄
何となく東京駅と似てますが、辰野金吾の設計ですか?
師匠
辰野金吾ではなく、当時の鉄道院に在籍した久野節や長谷川馨、佐伯貫一が携わっていたようだ。
小鉄
そういえば、尖塔は東京駅には無いですね。
師匠
東京駅も、最初の辰野金吾案では中央に尖塔があったんだが、最終案では採用されなかった。
小鉄
でも横浜駅では尖塔にこだわったんですね。
師匠
特に長谷川馨は尖塔にこだわっていて、原宿駅はその代表作だ。
小鉄
ほかに東京駅と違う点は何かありますか?
師匠
2代目の横浜駅の改札口は2階にあった。
小鉄
あっ、ほんとだ。「階上平面図」に改札口が描いてありますよ。
師匠
それと東京駅と違って、東海道本線の列車線、貨物線、京浜電車線に囲まれた三角形の平面に建設された。
小鉄
たしかに、正面は東京駅と同じように横長に見えますけど、平面図で見るとずいぶん変わった形の建物だったんですね。
師匠
跨線橋の配置なども独特だ。
小鉄
駅は正面だけでは判断できないってことですね。
師匠
駅は、建築としての駅の建物だけに注目しがちだが、肝腎の機能は駅の構内を含めた全体のレイアウトにある。
小鉄
なるほど。
師匠
そこが駅の歴史を調べる時の、土木と建築の視点の違いだ。
小鉄
今回の横浜駅も、土木の目線で見ると突っ込みどころがいろいろありますね。
師匠
ある意味では東京駅よりも興味深いぞ。
初期の高架鉄道は、新線として高架線を建設することを目的としていたが、都市の拡大とともに既設の鉄道路線を高架化する高架化工事が行われるようになった。現在では「連続立体交差事業」として各地で行われ、高架化以外にも地下化される場合もあるが、どちらも都市内における踏切の解消を目的とし、安全でスムーズな都市交通を実現することによって、鉄道線路で分断されていた都市の一体化を促す役割を果たした。
常磐線の田端~土浦間は、1896(明治29)年に日本鉄道の土浦線として開業し、のちに隅田川貨物駅を設けて常磐炭の輸送路として機能した。関東大震災などを契機として東京の郊外が都市として発展すると旅客輸送量も急速に拡大し、常磐線の上野~松戸間を電化して電車列車を走らせ、フリーケンシーの向上を図ることなった。さらに、田端方面からの貨物列車と日暮里方面からの旅客列車が合流する三河島駅付近を高架化し、踏切の解消を図ることとした。工事は、鉄道省東京改良事務所により、1936(昭和11)年に完成した。
「三河島大踏切道」と題した絵葉書には、改良工事前の三河島大踏切と、改良工事後の第1三河島架道橋が対比された。三河島大踏切は、三河島駅の東側で尾竹橋通りと交差する場所にあり、自動車や自転車が普及するとともに混雑を極めるようになった。このため、1929(昭和4)年には、門扉を横にスライドする電動式踏切門扉が導入され、警手がその先端に乗って開閉操作を行ったが、下の「改良工事施行前」の写真では複々線の線路と門扉の一部を確認できる。
在来線の高架化工事は、関西の東海道本線神戸市街高架橋、城東線(現在の大阪環状線の一部区間)でも行われたが、本格的に行われるのは、昭和戦後期になってからであった。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年1月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
地平の在来線を高架化する工事はいつ頃から行われていたんですか?
A
はじめの頃の高架鉄道は、新線を建設する場合のみに限られていましたが、1931(昭和6)年に完成した神戸市内市街線第一期工事(東灘~鷹取間)を契機として在来線を高架とする改良工事が行われるようになりました。基本的に在来線に隣接して高架橋を建設し、線路を切り替えて完成します。最初は大都市圏に限られていましたが、現在では連続立体交差事業として全国各地で行われています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
三河島駅には、昇開式の踏切があったんですね。
師匠
今は遮断桿を使う踏切がほとんどだが、かつては昇開式や門扉式などいくつかの種類があった。
小鉄
昇開式って、最近もどこかで見たような気がしますが……。
師匠
関西地方の駅のプラットホームじゃないかな?
小鉄
あっ、大阪駅で見ました。格闘技のリングみたいで、びっくりしました。
師匠
あれは昇降式ホーム柵とか昇降ロープ式ホーム柵などと呼ばれているが、スタイルとしては昇開式の踏切と同じだ。
小鉄
何で普通の扉式にしなかったんですか?
師匠
大阪駅のプラットホームは、通勤形から特急形までいろいろな種類の列車が発着して、それぞれ扉の位置が違うから、ある程度の幅を一度に遮断する昇開式ホーム柵を採用した。
小鉄
たしかに車両によって扉の位置が違いますね。
師匠
昇降式ホーム柵は首都圏でも東急田園都市線のつきみの駅とか相模鉄道の弥生台駅でも使われているぞ。
小鉄
関東にもあるんですね。さっそく見に行きます。
宇土半島の先端に位置する三角(みすみ)西港(完成時は「三角港」)は、明治政府が推進した港湾の近代化計画にそって実現し、宮城県の野蒜(のびる)港、福井県の三国港とともに明治の三大築港事業と称された。三角西港の建設は、オランダ人のアントニー・トーマス・ルベルタス・ローウェンホルスト・ムルデル(Anthonie Thomas Lubertus Rouwenhorst Mulder/1848~1901)の調査に基づいて進められ、1887(明治20)年に開港した。
ムルデルの計画では、道路や鉄道との接続も考慮されていたが、鉄道の接続は後回しにされ、宇土~三角間を結ぶ三角線が九州鉄道によって開業するのは、1899(明治32)年になってからであった。最初の駅は仮駅で、1903(明治36)年に、埋立地の完成とともに現在地へ移転したが、三角西港からは約2kmも離れていた。山と海に阻まれて三角西港への延伸は困難で、三角西港の周辺も貨物施設を設けるための平地に乏しかった。
「延び行く三角港の一部」と題した絵葉書には、三角駅の構内と隣接する三角東港の風景がおさめられた。三角駅に隣接して建設された三角東港は、天草方面への航路の玄関口として機能し、三角西港は鉄道のアクセスがなく、船舶の大型化に対応できなかったため廃れてしまった。他の三大築港事業も、野蒜港は完成間もない頃の暴風雨で損壊し、三国港は堆砂の問題に悩まされ続けた。また、内航重視の内務省と外貿重視の外務省との軋轢や、船舶の急速な大型化などもあって、三大事業は期待された役割を果たすことのないままに終わった。
最初に完成した三角西港の周辺には明治時代の築港による石積みの護岸や水路、道路橋などの遺構が残り、土木学会選奨土木遺産、国重要文化財となったのち、2015(平成27)年には世界遺産「明治日本の産業革命遺産、製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産のひとつとなり、現在に至っている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2023年9月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
明治時代の日本の土木工事を指導したオランダ人はムルデル以外にもいるんですか?
A
オランダは国土の大部分が平坦で軟弱な地盤の低地で、その半分をいわゆるゼロメートル地帯が占めています。このため、オランダでは治水技術が発達し、来日したオランダ人技術者は主に河川や砂防、港湾などの分野の技術指導にあたりました。ムルデル以外にも、コルネリス・ヨハネス・ファン・ドールン(Cornelis Johannes van Doorn/1837年~1906)、ヨハニス・デ・レーケ(デ・レイケとも/Johannis de Rijke/1842~1913)、ジョージ・アーノルド・エッセル(エッシャーとも/George Arnold Escher/1843~1939)など、合計13名が1872年~1909年にかけて来日しました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
三角とか三国とか野蒜とかに大きな港を整備する計画があったんですね。
師匠
幕末には神奈川(横浜)、箱館(函館)、長崎、兵庫(神戸)が開港場となって明治元年には新潟が指定され、外国との貿易が始まったが、それまで千石船を前提としていた日本の港では対応できなかった。
小鉄
それで港の近代化が急がれたんですね。
師匠
「天然の良港」という言葉があるが、港は波浪の影響を受けにくい内海や湾で、船が座礁しないよう水深も確保され、錨を固定しやすい海底地質であることなどが条件になる。
小鉄
港はハードルが高いんですね。
師匠
それで東京の近くの横浜、大阪の近くの神戸が港湾都市として発展することになつた。
小鉄
東京港や大阪港もありますよ。
師匠
東京も大阪も大きな河川の河口近くだったから遠浅で、大規模な浚渫工事ができるようになる大正時代以降に港として整備された。
小鉄
鉄道はイギリス人技師の指導を受けたって聞きましたけど、港はオランダ人技師だったんですか?
師匠
港湾や治水事業では、日本の平地と自然条件が似ているオランダ人技師が活躍した。
小鉄
そういえば「これは川ではない、滝だ!」と驚いたオランダ人がいたそうですね。
師匠
ああ、誰が言い出したかは諸説あるようだが、北陸地方の河川調査をした際に、日本の急勾配河川に驚いたとされている。
小鉄
いくらなんでも「滝」は大げさですよね。
師匠
日本に住んでいると気がつかないが、日本の河川は海外に比べて急勾配だ。平地のオランダではこんな急勾配の河川は無いから、「滝」という表現も大げさでは無いぞ。
小鉄
勾配が緩いオランダの河川の技術では、対応できなくなったってことですか?
師匠
日本の特殊な自然条件が明らかになって、低水工事(低水制)から高水工事(高水制)へと移行した。
小鉄
低水工事?
師匠
河川を利用することを前提とした工事を低水工事、洪水から防御することを優先した工事を高水工事と称している。
小鉄
それでオランダ人技術者も帰国したんですね。
師匠
土木工事は自然を相手にするから、自然条件によって工事の方法も変えなければならない。
小鉄
自分の国でうまくできたけれど、日本では使えなかった技術もあるってことですね。
師匠
外国から導入したけれど、日本で試してうまく使えなかった土木技術もいろいろあるから、そこを深掘りすると何かが見えてくるかも知れないぞ。