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ドボ鉄161日本最初の市営モノレール

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 月, 2025-07-07 22:59

 1964(昭和39)年に東京モノレールが開業して、都市鉄道としてのモノレールに注目が集まると、各地でその導入に向けた動きが活発となった。姫路市では、姫路駅と観光地である手柄山を結ぶ交通機関としてモノレールを導入することとし、アメリカのロッキード社の特許に基づく、跨座式のモノレールを導入した。ロッキード社は、航空機の製造で知られているが、当時はモノレールの開発にも取組んでいて、鉄車輪を用いた跨座式(「ロッキード式」と称された)が特徴であった。
 モノレールの路線は、姫路と手柄山の延長約1.6kmで、1965(昭和40)年に着工し、手柄山で開催された姫路大博覧会に合せて翌年5月17日に開業した。事業は、姫路市交通局により行われ、全国で初の「市営のモノレール」事業としてスタートした。「姫路大観」という当時の観光絵葉書集には、国宝・姫路城を背景としたモノレールの姿がおさめられ、新旧の名所が対比された。
 姫路市営モノレールは、さらに臨海工業地帯への延伸を計画したものの実現に至らず、輸送量は減少を続けたため、開業8年後の1974(昭和49)年4月11日をもって運転を休止し、1979(昭和54)年には正式に廃止された。
 モノレールの廃止後も軌道桁などの構造物はほぼそのままの姿で残っていたが、近年になって大部分が撤去され、姫路駅の西側にいくつかの橋脚が残るのみとなってしまった。終点の手柄山駅の構内は手柄山交流ステーションとしてモノレールの展示室に整備され、プラットホームの跡には2両の車両が保存されている。
 姫路モノレールの施設群は、「戦後姫路の躍進と大志の結集体」として、2020(令和2)年に土木学会が認定する選奨土木遺産に選ばれた。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年11月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

手柄山交流ステーションには、何が展示されているんですか?

A

かつて走っていた4両の車両のうち、両運転台式として登場した200形の201号と202号の2両(川崎航空機工業製)が保存されているほか、ジオラマや当時の写真パネル、モノレールの部品などが展示されています。屋外にはモノレールの台車部分も保存されていて、ロッキード式モノレールの仕組みを理解できます。ちなみに、手柄山交流ステーションは、山陽電鉄手柄山駅から徒歩約15分の手柄山中央公園内にあります。(小野田滋)

”姫路市営モノレール(兵庫県姫路市)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

ロッキードって、あの戦闘機で有名なメーカーですか?

師匠

その昔、ロッキード事件という政財界を巻き込む疑獄事件があって、世間を騒がせたあのロッキード社だ。

小鉄

でも、姫路のモノレールは丸顔のゆるキャラ風デザインで、ぜんぜんロッキードっぽくないですよ。

師匠

まあ、戦闘機のイメージが強いからそう思うだけだ。

小鉄

ロッキード式モノレールの特徴は何ですか?

師匠

跨座式モノレールの一種だが、走行部分に鉄製のレールと鉄車輪を使って走行する。

小鉄

鉄のレールと車輪だったら、普通の鉄道と同じじゃないですか?

師匠

モノレールだから、レールは軌道桁の中央に1本だけあって、駆動車輪はその上に1輪だけ乗っている。

小鉄

一輪車ってことですか?

師匠

それだけでは倒れてしまうから、両側から安定車輪でレールを挟んで、さらに下部にも安定車輪を設けて車体を安定させている。

小鉄

ロッキード式モノレールは、ほかでも使われたんですか?

師匠

小田急の向ヶ丘遊園モノレール線で、1966(昭和41)年~2000(平成12)年まで運行されていた。

小鉄

1966(昭和41)年開業だと、姫路市と同じ年ですよ。

師匠

向ヶ丘遊園が4月23日で、姫路が5月17日だから、向ヶ丘遊園がわずかに先だった。

小鉄

その後は使われなかったんですか?

師匠

跨座式モノレールには、ゴムタイヤを使用する東芝式、アルウェーグ式と、鉄輪を使用するロッキード式が存在したが、日本モノレール協会によって1968(昭和43)年にはゴムタイヤを使った日本跨座式に規格が統一された。

小鉄

あっ思い出しました。ドボ鉄99回の奈良ドリームランドのモノレールは東芝式、ドボ鉄138回の東京モノレールはアルウェーグ式だったですよね。

師匠

よく覚えていたな。

小鉄

ということは、ロッキード式は向ケ丘遊園と姫路市だけだったってことですか?

師匠

そうなるな。日本跨座式は、1970(昭和45)年の大阪万博のモノレールで実用化されて、以後の跨座式モノレールはこの方式に統一された。

小鉄

そういえば、師匠は万博に行きましたか?

師匠

2回見に行ったぞ。

小鉄

ええっ、いつの間に2回も

師匠

当時はまだ中学生だったが、太陽の塔を見てそれから月の石を見て……。

小鉄

そっちの万博じゃなくて、今年の万博ですよ。

ドボ鉄160支笏湖畔のダブルワーレントラス

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 月, 2025-07-07 22:59

 王子製紙苫小牧工場専用鉄道(一般に「王子軽便鉄道・山線」などと称する)は、1908(明治41)年に苫小牧貯木場へ支笏湖周辺の森林資源を運搬し、千歳川の河畔に建設された工場専用の水力発電所を結ぶ鉄道として開業した。山線は、軌間762mmの軽便鉄道で、千歳川を渡るために木製のトラス橋が架設された。
 山線では1922(大正11)年より旅客輸送を開始したが、いわゆる地方鉄道法に基づく鉄道ではなく、あくまでも観光客や地元の便宜のために旅客輸送を行う鉄道として機能した。腐朽した木製トラス橋も1924(大正12)年に函館本線の第1空知川橋梁で使用されていたイギリスのパテントシャフト社製の支間200フィート(60.96m)の鋼製ダブルワーレントラス橋を転用して架替え、第1千歳川鉄橋として使用を開始した。
 「鉄橋よりフップス岳を望む」と題した絵葉書には、千歳川を跨ぐ千歳川第1鉄橋と、山線の線路が写っているが、この対岸に湖畔駅があり、手前に分岐する線路はいわゆるデルタ線を構成して、転車台を使わずに蒸気機関車の方向転換を行っていた。なお、「フップス岳」は、支笏湖の南にそびえる「風不死岳(ふっぷしだけ)」のことで、アイヌ語の「トドマツのある所」にちなんでいる。
 王子軽便鉄道山線は1951(昭和26)年に廃止されたが、廃線跡はサイクリングロードに再利用された。山線の鉄橋も千歳市に払い下げられたのち歩道橋となり、2018(平成30)年には土木学会の選奨土木遺産に認定された。また、2020(令和2)年には近傍に⼭線の歴史的役割や先⼈の努⼒を伝えるための施設として「王⼦軽便鉄道ミュージアム・⼭線湖畔驛」が開設され、支笏湖温泉や支笏湖親水公園、支笏湖展望台などとともに、新たな観光スポットとなっている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2023年8月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

第1空知川橋梁は、どんな橋梁だったのですか?

A

1898(明治31)年に北海道鉄道部によって上川線(現在の函館本線)砂川~滝川間に完成しました。今回の青図で紹介するように、砂川方から径間30フィート(9.14m)の上路プレートガーダ+径間200フィートの下路ダブルワーレントラス+径間60フィート(18.29m)の上路プレートガーダ×2連+径間40フィート(12.19m)の上路プレートガーダ×2連の全6径間で橋長は439フィート(133.81m)でしたが、1916(大正5)年5月7日~8日の水害で8日14時に第1橋脚が洗掘により転倒したため第1径間のプレートガーダと第2径間のトラスが落橋しました。このため、仮橋脚を設けてトラスを元の位置に戻して同年5月23日3時に仮復旧しましたが、これを機会に新しい橋梁に架け替えることとなり、「函館本線第一空知川橋梁改築其他」工事として、鉄道院北海道管理局により1917(大正6)年2月に着手して、1919(大正8)年8月に竣功しました。災害時の平面図と写真によれば、当時の径間構成は砂川方から径間30フィートの上路プレートガーダ+径間200フィートの下路ダブルワーレントラス+径間100フィート(30.48m)の下路プラットトラス×2連+径間60フィートの上路プレートガーダ×4連の全8径間で橋長は712フィート(217.02m)と推察され、施工時期等は不明ですが、河川改修または災害により、滝川方の第3径間~第8径間を拡幅したようです。今回紹介した災害時の写真を見ると、径間200フィートダブルワーレントラスの次に径間100フィートのプラットトラスが架かっているのがわかります。(小野田滋)

”支笏洞爺国立公園支笏湖地区・山線鉄橋(北海道千歳市)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

王子製紙の専用鉄道は、森林鉄道ですか?

師匠

森林資源を運搬する産業用の鉄道を一般に「森林鉄道」と総称しているから、森林鉄道に含まれることになる。

小鉄

普通の鉄道と何が違うんですか?

師匠

私鉄のように地方鉄道法に基づいて認可された、いわゆる普通鉄道ではない。また、山岳地の急峻な地形に建設されるから、急曲線や急勾配が多い。

小鉄

そうなると構造物も普通鉄道と違ってくるってことですか?

師匠

簡易な設備で建設されるから、レールの幅も狭かったり、木橋を使ったりする場合もある。

小鉄

普通鉄道じゃないとすると、どこが運営してるんですか?

師匠

それぞれの森林を管理している組織になる。一番多いのは国有林で、林野庁の営林署が管理するが、大学の演習林や、王子製紙のような製紙会社なども所有していた。

小鉄

お客さんは運ばなかったんですか?

師匠

基本的に材木を運搬するための専用鉄道だから時刻表にも掲載されず、鉄道業としての一般の利用は認められていなかったが、山間部の地域の足として通学などに利用していた森林鉄道もある。

小鉄

今はもう使っていないんですか?

師匠

トラック輸送に転換されて、昭和30年代の後半から急速に廃止されてしまった。

小鉄

今も残ってるんですか?

師匠

保存鉄道を除くと、国有林では鹿児島県屋久島の安房(あんぼう)森林鉄道のみが現存している。

小鉄

それは残念ですね。

師匠

森林鉄道の廃線跡は全国に残っているが、2009(平成21)年には高知県の魚梁瀬(やなせ)森林鉄道のトンネルや橋梁が国の重要文化財に指定された。

小鉄

今は、地域の文化財としての価値があるってことですね。

師匠

森林鉄道は山間僻地に多かったから、過疎地活性化のための観光資源としての利活用が期待されている。

小鉄

山線鉄橋もそのひとつですね。

師匠

支笏湖の近くでは、「千歳川の王子製紙水力発電施設群」も土木学会の選奨土木遺産に認定されているから、素材はいろいろと揃っているぞ。

小鉄

ストーリーが描けますね。

ドボ鉄159本州四国連絡橋の建設

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 土, 2025-06-07 23:11

 本州四国連絡橋の建設は、1970(昭和45)年に本州四国連絡橋公団が設立されて本格化し、神戸・鳴門ルート、児島・坂出ルート、尾道・今治ルートの3ルートで瀬戸内海を渡ることとなった。このうち、児島・坂出ルートは、道路と鉄道の併用橋として建設され、宇高連絡船に代わって、宇野線の茶屋町から分岐して予讃線の宇多津へ至る本四備讃線の建設が開始された。
 四国方は、予讃線と接続して高松方面と松山・高知方面に分岐するため、いわゆるデルタ線を構成することとなった。「宇多津地区で建設中の本四備讃線」と題した絵葉書は、1986(昭和61)年に国鉄建設局が発行した「土木学会表彰受賞記念絵葉書」の一枚で、当時の建設状況を示している。本四連絡橋はほぼ完成しているが、与島以南の北備讃瀬戸大橋と南備讃瀬戸大橋はまだ閉合しておらず、手前のデルタ線を構成する高架橋も大東川橋梁などいくつかの橋梁が未完成である。写真右側に伸びる高架橋が高松方面への連絡線、写真左側に伸びる高架橋が丸亀方面への連絡線で、手前の高架橋は予讃線の新線である。
 変形量の大きい長大吊橋や斜張橋に列車を走らせることは未経験で、たわみによって生じる角折れや、温度変化による伸縮を考慮した「緩衝桁軌道伸縮装置」を開発することによってこれを克服した。本四備讃線の完成は、国鉄分割・民営化の約1年後となり、1988(昭和63)年4月10日に開業して、宇高連絡船は廃止された。香川県坂出市の瀬戸大橋記念公園には、瀬戸大橋記念館や本四連絡橋を一望できる高さ108mの瀬戸大橋タワーがあり、野外の展示広場には、瀬戸大橋のメインケーブル、架設工事に用いられた建設機械などが展示されている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年9月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

瀬戸大橋記念館にある銅像は誰ですか?

A

瀬戸内海に橋を架けることを最初に提唱した大久保諶之丞(おおくぼ・じんのじょう:1849~1891)の全身像と、本州四国連絡橋公団の坂出工事事務所初代所長だった杉田秀夫(すぎた・ひでお:1931~1993)の胸像です。大久保諶之丞は県会議員で、1889(明治22)年5月23日の讃岐鉄道開通式で、「塩飽諸島を橋台となし、山陽鉄道に架橋連結せしめなば、常に風波の憂ひなく、午後に浦戸の釣を垂れ、夕に敦賀の納涼を得ん。」と瀬戸内海に架橋する構想を提唱しました。この演説は、瀬戸内海に架橋することを公言した最初とされ、1883(明治16)年に完成したニューヨークのブルックリン橋に影響を受けたとする説もあります。杉田秀夫は土木技術者で、日本国有鉄道から日本鉄道建設公団を経て本州四国連絡橋公団へ移り、初代坂出工事事務所長としてBB7Aアンカレイジの建設などを指揮しました。潜水士の免許を取得して自ら海へ潜り、基礎岩盤を確認するなど、その行動力は多くの人々から敬慕されました。(小野田滋)

”予讃線・坂出~宇多津間(香川県綾歌郡宇多津町)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

師匠。よく考えたら、鉄道の吊橋ってあまり見ないですけれど、何か理由があるんですか?

師匠

時々、イラストなどで吊橋を渡る蒸気機関車が描かれたりしているが、現実にはあり得ない風景だ。

小鉄

吊橋と鉄道は相性が悪いってことですか?

師匠

その通り。吊橋は荷重を載せたときの変形量が大きいから、ミリ単位でレールを管理している鉄道を通過させることは難しい。

小鉄

でも本四連絡橋では実現したんですよね。

師匠

その工夫が緩衝桁軌道伸縮装置だ。

小鉄

写真だけではよくわかりませんけど。

師匠

吊橋は温度の伸縮や荷重によるたわみで大きく変形する。

小鉄

たしかに、吊橋を渡る時は、グラグラ揺れますよね。

師匠

特に吊橋の端部は角折れという変形や大きな伸縮が生じるから、その変形を分散したり伸縮を吸収して、列車が安全に通過できるように開発された特殊な桁が緩衝桁軌道伸縮装置だ。

小鉄

写真で紹介されている「BB7A躯体竣工記念碑」って、何の記念碑ですか?

師匠

南備讃瀬戸大橋の南側アンカレイジの記念碑だ。碑文によれば、当時の世界最大のコンクリート構造物で、その最終コンクリートを用いて記念碑を建てたそうだ。

小鉄

アンカレイジって何ですか?

師匠

吊橋のケーブルを固定するための巨大なブロックのことだ。

小鉄

このコンクリートの塊ですね。「BB7A」は何の意味ですか?

師匠

瀬戸大橋では、下津井瀬戸大橋を「SB」、櫃石島橋を「HB」、与島橋を「YB」とイニシャルに基づく略号で表し、北備讃瀬戸大橋は「NBB」、北備讃瀬戸大橋は「SBB」と称した。

小鉄

でも「BB」ですよ。

師匠

北備讃瀬戸大橋と南備讃瀬戸大橋は連続して架けられたこともあって、図にあるように下部構造は橋台と橋脚をまとめて、岡山方から1~7の番号を続けて付けて、橋の略号も「BB」のみとした。

小鉄

わかった!「A」はアンカレイジの略ですね。

師匠

よく気がついたな。瀬戸大橋タワーの展望室から、BB7Aアンカレイジがよく見えるぞ。

小鉄

BB7Aの記念碑はどこにあるんですか?

師匠

BB7Aアンカレイジの西側にある 沙弥ナカンダ浜という浜辺に、ひっそりと建っている。

小鉄

瀬戸大橋記念公園のあたりは、ドボ博的な見所が多くて、満腹ですね。

師匠

うどんと骨付き鶏だけじゃないぞ。

ドボ鉄158 AKIBAにそびえる高架橋

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 土, 2025-06-07 23:08

 御茶ノ水駅と両国駅の間を高架線で結び、中央本線と総武本線の直通運転を行おうとする計画は、関東大震災後の震災復興計画の中で具体化され、東京市の区画整理事業とあわせて進められることとなった。高架橋本体の工事は1931(昭和6)年2月に失業救済事業として鉄道省によって開始され、総延長3.6kmを7工区に分割して行われた。
 このうち、御茶ノ水~秋葉原間の万世橋工区は、延長わずか325mであったが、開脚式の鋼ラーメン橋脚を用いた神田川橋梁、ブレーストリブタイドアーチによる松住町架道橋、中央通りを跨ぐ御成街道架道橋など、特徴的な構造物がいくつか建設された。工事は鉄道省東京第二改良事務所の監督、大林組の施工により行われ、1932(昭和7)年5月に完成した。
 「お茶の水両国間東洋一の大陸橋」と題した戦前の絵葉書には、御成街道架道橋を手前にして、高さ12.5mの旅篭町高架橋があたりを睥睨(へいげい)するかのごとく聳(そび)えている。旅篭町高架橋の後方には松住町架道橋が架かり、さらにその左側には駿河台のランドマークであったニコライ堂を遠望することができる。
 戦災によって灰燼に帰した秋葉原であったが、戦後になって電器商が集まり、露店を広げるようになった。これらはほどなく、GHQの露店撤廃令によって高架下へ整理されたが、3階建のビルに相当する高架橋は、店舗として有効に活用された。今や AKIBAと呼ばれ、世界にその名を知られる秋葉原であるが、電気街へと発展するきっかけを作った高架橋は、時代の変化を見守りつつ今も健在である。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2008年2月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

秋葉原の高架橋はずいぶん高い位置にありますが、なぜこんなに高いんですか?

A

東京駅と上野駅を結ぶ高架線が1925(大正14)年に完成していたので、1932(昭和7)年に完成した御茶ノ水~両国間の高架線はさらにその上を跨ぐことになりました。また、御茶ノ水駅は、台地から平地へ至る台地の「際(きわ)」に位置したため、地形的にも高い位置から低地の両国へ向かって高架線を建設することになりました。(小野田滋)

”総武本線・御茶ノ水~秋葉原間(東京都千代田区)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

今月の絵葉書ですけど、ほんとに秋葉原ですか?

師匠

今から90年くらい前の絵葉書だ。この時代は高いビルがなかったから今と全く違う景色だった。

小鉄

遠くに聳えている、大きな建物はニコライ堂ですね?

師匠

そうだ。かつて東京のランドマークとして、どの方向からもよく見えた。

小鉄

今はビルが建っていて見えませんよね。

師匠

この絵葉書で今も変わらないのは、高架線とニコライ堂くらいだな。

小鉄

前回とりあげた地下鉄の万世橋仮駅は。どこにあったんですか?

師匠

ここには写っていないが、御成街道架道橋の少し南側のあたりだ。

小鉄

秋葉原なのに、ぜんぜん電気街じゃないですよ。

師匠

本文にもあるが、電気街として発展するのは、昭和時代の戦後になってからだ。

小鉄

昔からあると思ってました。

師匠

いくつかの商店は昭和戦前期に創業していたが、しばらくはラジオ部品を扱う店が多かった。

小鉄

部品を買って、自分でラジオを組み立てるってことですか?

師匠

5球スーパーとか高1ラジオとか……懐かしいな。

小鉄

スーパー?高校1年?

師匠

何を言っておる。真空管ラジオの種類のことだ。

小鉄

トランジスタより前の時代ですね。

師匠

電気製品が「家電」として大量生産されて普及するのは、昭和30年代になってからだ。

小鉄

「テレビ、冷蔵庫、洗濯機」ですね。

師匠

三種の神器を知ってるってことは、さては昭和の生まれだな。

ドボ鉄157大阪臨港線の開通

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 木, 2025-05-08 22:09

 大阪臨港線は、今宮から分岐して、弁天町~大正間の境川信号場を経て大阪港へと至る貨物専用線として、1928(昭和3)年に開業した。このうち今宮~大正間は1961(昭和36)年に大阪環状線の一部となったが、貨物専用線区間はJR貨物に継承されたのち、2004(平成16)年に貨物輸送が休止され、2006(平成18)年に廃止された。
 大阪港は、淀川の河口部に位置したため堆積物が多く遠浅で、大型船舶を入港させるためには浚渫するなどして港を整備しなければならなかった。大阪市では、1897(明治30)年に第一次修築事業に着手し、1929(昭和4)年には天保山の大桟橋や大正内港を完成させ、さらに1928(昭和3)年には第二次修築事業に着手した。
 この事業に併せて大阪港へ至る貨物専用鉄道として大阪臨港線が建設されることとなり、今宮~築港操車場に至る本線8.4kmと側線8.2kmは鉄道省が負担し、築港操車場~大阪港に至る本線2.7kmと側線5.8kmの建設費は大阪市が負担した。経由地は、木津川や尻無川の河川舟運に支障しないよう、大正付近を迂回して西へ延びるルートが選択された。
 鉄道省大阪改良事務所(のちの国鉄大阪工事局)が発行した「大阪臨港線開通絵葉書」の1枚には、大正付近のラーメン高架橋と木津川に架かる複線ダブルワーレントラスの木津川橋梁の写真が紹介され、背景には沿線の象徴として大正橋(道路橋)と大阪瓦斯のガス工場が描かれた。
 大阪環状線の建設にあたり、木津川橋梁はほぼ同一設計の岩崎運河橋梁ととともにそのままの姿で利用されたが、高架橋は一部を改築し、現在も大阪の鉄道輸送を支え続けている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年6月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

大阪港の整備が遅れたのは何か理由があるんですか?

A

本文にもありますが、淀川の河口部に位置したため堆積物が多く遠浅の海だったため、大型の船舶を繋留できませんでした。このため、水深の確保されていた近傍の神戸が港として発展しました。東京も遠浅で港を整備することが容易ではなかったため、近傍の横浜が港として発展しました。神戸も横浜も外国人居留地が形成され、日本で最初の鉄道が開業するなどいくつかの共通点があります。その後、浚渫技術が進んだため、大阪や東京にも港を築くことができるようになりました。(小野田滋)

”JR大阪環状線・大正駅付近(大阪市西区/大正区/浪速区)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

大阪臨港線の開業を祝う蒸気機関車のゆるキャラが紹介されてますけど、似たような絵柄をどこかで見たような気がしますが……。

師匠

機関車トーマスじゃないか?

小鉄

トーマスだったらすぐにわかりますよ。

師匠

だったら「ちょろけん」かな?

小鉄

ちょろけん?

師匠

大阪で江戸時代に流行った大道芸だ。今でも大阪みやげのキャラクターとして使われているから、新大阪駅あたりのみやげ物屋で見かけたんじゃないか?

小鉄

どんな芸ですか?

師匠

大きな張り子の頭を被って、ささらを鳴らしながら祝言葉のお囃子を披露する芸だ。

小鉄

見たことないですね。

師匠

何人かでねり歩きながらご祝儀をもらう門付芸(かどつけげい)の一種だ。

小鉄

大阪らしくて面白そうですね。

師匠

ふざけることを大阪弁で「ちょける」と言うが、語原は諸説ある中で「ちょろけん」もそのひとつとされている。

小鉄

あっ。よく吉本の人がしゃべってますよ。

師匠

お前さんもちょけてばかりでなく、鉄の道を究めるように。

小鉄

許してやったらどうや。

師匠

それは亡くなった山田亮さんのギャグだな。茂造じいさんもよく使っているが。

小鉄

師匠も吉本に詳しいですね。ちょけてばかりなのは師匠の方ですよ。

ドボ鉄156神田川をくぐった地下鉄

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 木, 2025-05-08 22:09

 東京都三鷹市の井の頭池を水源とし、都心を横断して隅田川へとそそぐ神田川は、鉄道ともしばしば交差するが、初めてトンネルでくぐったのが、東京地下鉄道(現在の東京メトロ銀座線の一部)であった。1927(昭和2)年に上野~浅草間で開業した東京地下鉄道は、神田川をくぐってさらに日本橋、銀座、新橋方面をめざした。
 神田川との交差部では、地下鉄の直上に架かる万世橋(道路橋)の建設と併せてその直下に地下鉄のトンネルを構築した。このため、神田川の流路を鉄製の函樋(はこどい/はこひ)で一時的に変更し、その周囲を開削工法で掘削して矩形のトンネルを完成させたのち、その直上に現在の万世橋を施工した。
 神田川から、さらに須田町交差点に至る区間は、山岳工法による複線断面トンネルを掘削することとし、都市部における山岳工法トンネル適用のさきがけとなった。これは、周辺の区画整理事業が進んでいなかったため、密集した人家の直下に地下鉄を建設せざるを得なかったことに起因し、地下鉄の完成後に区画整理事業が行われて道路が整備された。トンネルは、山岳工法により建設された愛宕山隧道(現在の東京都港区にある道路トンネル)の先例を参考とし、9本の導坑を掘削するという特殊な工法を用いた。
 東京地下鉄道が発行した「浅草神田間延長開通紀念」の絵葉書には、開削工法で構築された区間と、山岳工法区間との断面変更箇所が収録され、新しい交通機関にふさわしい構造物が完成した。
 この区間を含む東京地下鉄道は、1931(昭和6)年11月21日に開業し、地下鉄は神田川をくぐってさらに南下して神田駅へと至った。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2013年9月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

参考写真のキャプションに「鉄構框構造」という言葉が出てきますが、何のことですか?

A

「鉄構框(てっこうかまち)」は、鉄骨(銀座線ではI型鋼を使用)でフレーム(枠=框)を組んでラーメン構造とした鉄骨ラーメンの一種です。開削工法のトンネルで用いられ、横断面方向に鉄骨ラーメンを等間隔で建込み、その間を鉄筋コンクリート壁で接続しながらトンネルの構築が完成します。しばしば、「鉄鋼框」と書かれますが、材料ではなく構造を意味する用語なので「鋼」ではなく「構」が正しい表現になります。駅のリニューアル工事で空調装置を設けたりして見えにくくなっていますが、神田駅では、ホームの鉄骨柱の一部を透明板によってショーケースのように見せているほか、ホームの壁面にも鉄骨によるフレームが露出していて、構造がよくわかります。(小野田滋)

”東京メトロ銀座線・末広町~神田間(東京都千代田区)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

秋葉原に幻の地下鉄の駅が眠ってるって聞いたことがありますが、都市伝説か何かですか?

師匠

都市伝説などではなく、ほんとうだ。

小鉄

どのあたりですか?

師匠

万世橋の交差点のあたりだ。

小鉄

いつまで使ってたんですか?

師匠

1930(昭和5)年1月1日から1931(昭和6)年11月20日までの間の2年弱だ。

小鉄

たったそれだけですか!

師匠

今も階段やプラットホームの一部が残って、業務用に使っている。

小鉄

駅があったら、秋葉原の最寄り駅で賑わったでしょうね。

師匠

その頃は、まだ電気街として発展していなかったから、本格的な駅を設けるという発想はなかった。

小鉄

誰も世界中から人が集まる街になるなんて、想像できなかったんでしょうね。

師匠

街はある意味で「生き物」だから、時代と共に大きく変化する。

小鉄

昔の秋葉原は、どんな様子だったんですか?

師匠

そうだ。ちょうど昔の秋葉原の絵葉書が見つかったから、来月のドボ鉄で紹介しようか。

小鉄

ぜひお願いします。

師匠

絵葉書には御茶ノ水と両国を結ぶ高架線が写っているから、1932(昭和7)年頃だな。

小鉄

ってことは、高架橋も写ってるんですね。

師匠

もちのロンだ。

小鉄

師匠。それって昭和のオヤジ言葉ですよ。

師匠

それを知ってるお前さんも同類だ。

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