本州四国連絡橋の建設は、1970(昭和45)年に本州四国連絡橋公団が設立されて本格化し、神戸・鳴門ルート、児島・坂出ルート、尾道・今治ルートの3ルートで瀬戸内海を渡ることとなった。このうち、児島・坂出ルートは、道路と鉄道の併用橋として建設され、宇高連絡船に代わって、宇野線の茶屋町から分岐して予讃線の宇多津へ至る本四備讃線の建設が開始された。
四国方は、予讃線と接続して高松方面と松山・高知方面に分岐するため、いわゆるデルタ線を構成することとなった。「宇多津地区で建設中の本四備讃線」と題した絵葉書は、1986(昭和61)年に国鉄建設局が発行した「土木学会表彰受賞記念絵葉書」の一枚で、当時の建設状況を示している。本四連絡橋はほぼ完成しているが、与島以南の北備讃瀬戸大橋と南備讃瀬戸大橋はまだ閉合しておらず、手前のデルタ線を構成する高架橋も大東川橋梁などいくつかの橋梁が未完成である。写真右側に伸びる高架橋が高松方面への連絡線、写真左側に伸びる高架橋が丸亀方面への連絡線で、手前の高架橋は予讃線の新線である。
変形量の大きい長大吊橋や斜張橋に列車を走らせることは未経験で、たわみによって生じる角折れや、温度変化による伸縮を考慮した「緩衝桁軌道伸縮装置」を開発することによってこれを克服した。本四備讃線の完成は、国鉄分割・民営化の約1年後となり、1988(昭和63)年4月10日に開業して、宇高連絡船は廃止された。香川県坂出市の瀬戸大橋記念公園には、瀬戸大橋記念館や本四連絡橋を一望できる高さ108mの瀬戸大橋タワーがあり、野外の展示広場には、瀬戸大橋のメインケーブル、架設工事に用いられた建設機械などが展示されている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年9月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
瀬戸大橋記念館にある銅像は誰ですか?
A
瀬戸内海に橋を架けることを最初に提唱した大久保諶之丞(おおくぼ・じんのじょう:1849~1891)の全身像と、本州四国連絡橋公団の坂出工事事務所初代所長だった杉田秀夫(すぎた・ひでお:1931~1993)の胸像です。大久保諶之丞は県会議員で、1889(明治22)年5月23日の讃岐鉄道開通式で、「塩飽諸島を橋台となし、山陽鉄道に架橋連結せしめなば、常に風波の憂ひなく、午後に浦戸の釣を垂れ、夕に敦賀の納涼を得ん。」と瀬戸内海に架橋する構想を提唱しました。この演説は、瀬戸内海に架橋することを公言した最初とされ、1883(明治16)年に完成したニューヨークのブルックリン橋に影響を受けたとする説もあります。杉田秀夫は土木技術者で、日本国有鉄道から日本鉄道建設公団を経て本州四国連絡橋公団へ移り、初代坂出工事事務所長としてBB7Aアンカレイジの建設などを指揮しました。潜水士の免許を取得して自ら海へ潜り、基礎岩盤を確認するなど、その行動力は多くの人々から敬慕されました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
師匠。よく考えたら、鉄道の吊橋ってあまり見ないですけれど、何か理由があるんですか?
師匠
時々、イラストなどで吊橋を渡る蒸気機関車が描かれたりしているが、現実にはあり得ない風景だ。
小鉄
吊橋と鉄道は相性が悪いってことですか?
師匠
その通り。吊橋は荷重を載せたときの変形量が大きいから、ミリ単位でレールを管理している鉄道を通過させることは難しい。
小鉄
でも本四連絡橋では実現したんですよね。
師匠
その工夫が緩衝桁軌道伸縮装置だ。
小鉄
写真だけではよくわかりませんけど。
師匠
吊橋は温度の伸縮や荷重によるたわみで大きく変形する。
小鉄
たしかに、吊橋を渡る時は、グラグラ揺れますよね。
師匠
特に吊橋の端部は角折れという変形や大きな伸縮が生じるから、その変形を分散したり伸縮を吸収して、列車が安全に通過できるように開発された特殊な桁が緩衝桁軌道伸縮装置だ。
小鉄
写真で紹介されている「BB7A躯体竣工記念碑」って、何の記念碑ですか?
師匠
南備讃瀬戸大橋の南側アンカレイジの記念碑だ。碑文によれば、当時の世界最大のコンクリート構造物で、その最終コンクリートを用いて記念碑を建てたそうだ。
小鉄
アンカレイジって何ですか?
師匠
吊橋のケーブルを固定するための巨大なブロックのことだ。
小鉄
このコンクリートの塊ですね。「BB7A」は何の意味ですか?
師匠
瀬戸大橋では、下津井瀬戸大橋を「SB」、櫃石島橋を「HB」、与島橋を「YB」とイニシャルに基づく略号で表し、北備讃瀬戸大橋は「NBB」、北備讃瀬戸大橋は「SBB」と称した。
小鉄
でも「BB」ですよ。
師匠
北備讃瀬戸大橋と南備讃瀬戸大橋は連続して架けられたこともあって、図にあるように下部構造は橋台と橋脚をまとめて、岡山方から1~7の番号を続けて付けて、橋の略号も「BB」のみとした。
小鉄
わかった!「A」はアンカレイジの略ですね。
師匠
よく気がついたな。瀬戸大橋タワーの展望室から、BB7Aアンカレイジがよく見えるぞ。
小鉄
BB7Aの記念碑はどこにあるんですか?
師匠
BB7Aアンカレイジの西側にある 沙弥ナカンダ浜という浜辺に、ひっそりと建っている。
小鉄
瀬戸大橋記念公園のあたりは、ドボ博的な見所が多くて、満腹ですね。
師匠
うどんと骨付き鶏だけじゃないぞ。
御茶ノ水駅と両国駅の間を高架線で結び、中央本線と総武本線の直通運転を行おうとする計画は、関東大震災後の震災復興計画の中で具体化され、東京市の区画整理事業とあわせて進められることとなった。高架橋本体の工事は1931(昭和6)年2月に失業救済事業として鉄道省によって開始され、総延長3.6kmを7工区に分割して行われた。
このうち、御茶ノ水~秋葉原間の万世橋工区は、延長わずか325mであったが、開脚式の鋼ラーメン橋脚を用いた神田川橋梁、ブレーストリブタイドアーチによる松住町架道橋、中央通りを跨ぐ御成街道架道橋など、特徴的な構造物がいくつか建設された。工事は鉄道省東京第二改良事務所の監督、大林組の施工により行われ、1932(昭和7)年5月に完成した。
「お茶の水両国間東洋一の大陸橋」と題した戦前の絵葉書には、御成街道架道橋を手前にして、高さ12.5mの旅篭町高架橋があたりを睥睨(へいげい)するかのごとく聳(そび)えている。旅篭町高架橋の後方には松住町架道橋が架かり、さらにその左側には駿河台のランドマークであったニコライ堂を遠望することができる。
戦災によって灰燼に帰した秋葉原であったが、戦後になって電器商が集まり、露店を広げるようになった。これらはほどなく、GHQの露店撤廃令によって高架下へ整理されたが、3階建のビルに相当する高架橋は、店舗として有効に活用された。今や AKIBAと呼ばれ、世界にその名を知られる秋葉原であるが、電気街へと発展するきっかけを作った高架橋は、時代の変化を見守りつつ今も健在である。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2008年2月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
秋葉原の高架橋はずいぶん高い位置にありますが、なぜこんなに高いんですか?
A
東京駅と上野駅を結ぶ高架線が1925(大正14)年に完成していたので、1932(昭和7)年に完成した御茶ノ水~両国間の高架線はさらにその上を跨ぐことになりました。また、御茶ノ水駅は、台地から平地へ至る台地の「際(きわ)」に位置したため、地形的にも高い位置から低地の両国へ向かって高架線を建設することになりました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
今月の絵葉書ですけど、ほんとに秋葉原ですか?
師匠
今から90年くらい前の絵葉書だ。この時代は高いビルがなかったから今と全く違う景色だった。
小鉄
遠くに聳えている、大きな建物はニコライ堂ですね?
師匠
そうだ。かつて東京のランドマークとして、どの方向からもよく見えた。
小鉄
今はビルが建っていて見えませんよね。
師匠
この絵葉書で今も変わらないのは、高架線とニコライ堂くらいだな。
小鉄
前回とりあげた地下鉄の万世橋仮駅は。どこにあったんですか?
師匠
ここには写っていないが、御成街道架道橋の少し南側のあたりだ。
小鉄
秋葉原なのに、ぜんぜん電気街じゃないですよ。
師匠
本文にもあるが、電気街として発展するのは、昭和時代の戦後になってからだ。
小鉄
昔からあると思ってました。
師匠
いくつかの商店は昭和戦前期に創業していたが、しばらくはラジオ部品を扱う店が多かった。
小鉄
部品を買って、自分でラジオを組み立てるってことですか?
師匠
5球スーパーとか高1ラジオとか……懐かしいな。
小鉄
スーパー?高校1年?
師匠
何を言っておる。真空管ラジオの種類のことだ。
小鉄
トランジスタより前の時代ですね。
師匠
電気製品が「家電」として大量生産されて普及するのは、昭和30年代になってからだ。
小鉄
「テレビ、冷蔵庫、洗濯機」ですね。
師匠
三種の神器を知ってるってことは、さては昭和の生まれだな。
大阪臨港線は、今宮から分岐して、弁天町~大正間の境川信号場を経て大阪港へと至る貨物専用線として、1928(昭和3)年に開業した。このうち今宮~大正間は1961(昭和36)年に大阪環状線の一部となったが、貨物専用線区間はJR貨物に継承されたのち、2004(平成16)年に貨物輸送が休止され、2006(平成18)年に廃止された。
大阪港は、淀川の河口部に位置したため堆積物が多く遠浅で、大型船舶を入港させるためには浚渫するなどして港を整備しなければならなかった。大阪市では、1897(明治30)年に第一次修築事業に着手し、1929(昭和4)年には天保山の大桟橋や大正内港を完成させ、さらに1928(昭和3)年には第二次修築事業に着手した。
この事業に併せて大阪港へ至る貨物専用鉄道として大阪臨港線が建設されることとなり、今宮~築港操車場に至る本線8.4kmと側線8.2kmは鉄道省が負担し、築港操車場~大阪港に至る本線2.7kmと側線5.8kmの建設費は大阪市が負担した。経由地は、木津川や尻無川の河川舟運に支障しないよう、大正付近を迂回して西へ延びるルートが選択された。
鉄道省大阪改良事務所(のちの国鉄大阪工事局)が発行した「大阪臨港線開通絵葉書」の1枚には、大正付近のラーメン高架橋と木津川に架かる複線ダブルワーレントラスの木津川橋梁の写真が紹介され、背景には沿線の象徴として大正橋(道路橋)と大阪瓦斯のガス工場が描かれた。
大阪環状線の建設にあたり、木津川橋梁はほぼ同一設計の岩崎運河橋梁ととともにそのままの姿で利用されたが、高架橋は一部を改築し、現在も大阪の鉄道輸送を支え続けている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年6月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
大阪港の整備が遅れたのは何か理由があるんですか?
A
本文にもありますが、淀川の河口部に位置したため堆積物が多く遠浅の海だったため、大型の船舶を繋留できませんでした。このため、水深の確保されていた近傍の神戸が港として発展しました。東京も遠浅で港を整備することが容易ではなかったため、近傍の横浜が港として発展しました。神戸も横浜も外国人居留地が形成され、日本で最初の鉄道が開業するなどいくつかの共通点があります。その後、浚渫技術が進んだため、大阪や東京にも港を築くことができるようになりました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
大阪臨港線の開業を祝う蒸気機関車のゆるキャラが紹介されてますけど、似たような絵柄をどこかで見たような気がしますが……。
師匠
機関車トーマスじゃないか?
小鉄
トーマスだったらすぐにわかりますよ。
師匠
だったら「ちょろけん」かな?
小鉄
ちょろけん?
師匠
大阪で江戸時代に流行った大道芸だ。今でも大阪みやげのキャラクターとして使われているから、新大阪駅あたりのみやげ物屋で見かけたんじゃないか?
小鉄
どんな芸ですか?
師匠
大きな張り子の頭を被って、ささらを鳴らしながら祝言葉のお囃子を披露する芸だ。
小鉄
見たことないですね。
師匠
何人かでねり歩きながらご祝儀をもらう門付芸(かどつけげい)の一種だ。
小鉄
大阪らしくて面白そうですね。
師匠
ふざけることを大阪弁で「ちょける」と言うが、語原は諸説ある中で「ちょろけん」もそのひとつとされている。
小鉄
あっ。よく吉本の人がしゃべってますよ。
師匠
お前さんもちょけてばかりでなく、鉄の道を究めるように。
小鉄
許してやったらどうや。
師匠
それは亡くなった山田亮さんのギャグだな。茂造じいさんもよく使っているが。
小鉄
師匠も吉本に詳しいですね。ちょけてばかりなのは師匠の方ですよ。
東京都三鷹市の井の頭池を水源とし、都心を横断して隅田川へとそそぐ神田川は、鉄道ともしばしば交差するが、初めてトンネルでくぐったのが、東京地下鉄道(現在の東京メトロ銀座線の一部)であった。1927(昭和2)年に上野~浅草間で開業した東京地下鉄道は、神田川をくぐってさらに日本橋、銀座、新橋方面をめざした。
神田川との交差部では、地下鉄の直上に架かる万世橋(道路橋)の建設と併せてその直下に地下鉄のトンネルを構築した。このため、神田川の流路を鉄製の函樋(はこどい/はこひ)で一時的に変更し、その周囲を開削工法で掘削して矩形のトンネルを完成させたのち、その直上に現在の万世橋を施工した。
神田川から、さらに須田町交差点に至る区間は、山岳工法による複線断面トンネルを掘削することとし、都市部における山岳工法トンネル適用のさきがけとなった。これは、周辺の区画整理事業が進んでいなかったため、密集した人家の直下に地下鉄を建設せざるを得なかったことに起因し、地下鉄の完成後に区画整理事業が行われて道路が整備された。トンネルは、山岳工法により建設された愛宕山隧道(現在の東京都港区にある道路トンネル)の先例を参考とし、9本の導坑を掘削するという特殊な工法を用いた。
東京地下鉄道が発行した「浅草神田間延長開通紀念」の絵葉書には、開削工法で構築された区間と、山岳工法区間との断面変更箇所が収録され、新しい交通機関にふさわしい構造物が完成した。
この区間を含む東京地下鉄道は、1931(昭和6)年11月21日に開業し、地下鉄は神田川をくぐってさらに南下して神田駅へと至った。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2013年9月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
参考写真のキャプションに「鉄構框構造」という言葉が出てきますが、何のことですか?
A
「鉄構框(てっこうかまち)」は、鉄骨(銀座線ではI型鋼を使用)でフレーム(枠=框)を組んでラーメン構造とした鉄骨ラーメンの一種です。開削工法のトンネルで用いられ、横断面方向に鉄骨ラーメンを等間隔で建込み、その間を鉄筋コンクリート壁で接続しながらトンネルの構築が完成します。しばしば、「鉄鋼框」と書かれますが、材料ではなく構造を意味する用語なので「鋼」ではなく「構」が正しい表現になります。駅のリニューアル工事で空調装置を設けたりして見えにくくなっていますが、神田駅では、ホームの鉄骨柱の一部を透明板によってショーケースのように見せているほか、ホームの壁面にも鉄骨によるフレームが露出していて、構造がよくわかります。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
秋葉原に幻の地下鉄の駅が眠ってるって聞いたことがありますが、都市伝説か何かですか?
師匠
都市伝説などではなく、ほんとうだ。
小鉄
どのあたりですか?
師匠
万世橋の交差点のあたりだ。
小鉄
いつまで使ってたんですか?
師匠
1930(昭和5)年1月1日から1931(昭和6)年11月20日までの間の2年弱だ。
小鉄
たったそれだけですか!
師匠
今も階段やプラットホームの一部が残って、業務用に使っている。
小鉄
駅があったら、秋葉原の最寄り駅で賑わったでしょうね。
師匠
その頃は、まだ電気街として発展していなかったから、本格的な駅を設けるという発想はなかった。
小鉄
誰も世界中から人が集まる街になるなんて、想像できなかったんでしょうね。
師匠
街はある意味で「生き物」だから、時代と共に大きく変化する。
小鉄
昔の秋葉原は、どんな様子だったんですか?
師匠
そうだ。ちょうど昔の秋葉原の絵葉書が見つかったから、来月のドボ鉄で紹介しようか。
小鉄
ぜひお願いします。
師匠
絵葉書には御茶ノ水と両国を結ぶ高架線が写っているから、1932(昭和7)年頃だな。
小鉄
ってことは、高架橋も写ってるんですね。
師匠
もちのロンだ。
小鉄
師匠。それって昭和のオヤジ言葉ですよ。
師匠
それを知ってるお前さんも同類だ。
鉄道車両を動かすための動力は、主として電気か内燃機関が用いられているが、珍しい動力として、今回紹介する「人力」がある。
人力を動力とする鉄道は、「人車鉄道」と総称され、特別な施設を必要としない簡易な輸送機関として全国各地で普及したが、栃木県下は特に多く、宇都宮軌道運輸(のち宇都宮石材軌道)、那須人車軌道、岩舟人車鉄道、鍋山人車鉄道、野州人車鉄道、乙女(おとめ)人車軌道、喜連川(きつれがわ)人車鉄道の各社が存在した。
1896(明治29)年に設立された宇都宮軌道運輸は、地元で産出する大谷石(おおやいし)を出荷することを主目的とし、軌間610mm(2フィート)を用いて翌年より西原町~荒針間の延長6.3kmで営業を開始した。石材の運搬には手押しのトロッコを用いたほか、旅客用として数人を乗せた客車を、1人または2人で手押しした。
1906(明治39)年には競合する野州人車鉄道と合併して宇都宮石材軌道と改称し、大谷石の採掘、運搬、販売を一貫して行なう地元企業として発展した。人車鉄道の軌間が一般の鉄道とは異なっていたため、鉄道院(国有鉄道)日光線の鶴田駅で院線との貨車の直通を行うこととし、鶴田~荒針間に軌間1,067mmの軽便線を敷設して、1915(大正4)年より連絡運輸を開始した。
「大谷行人車鉄道」と題した絵葉書には、軌間610mmの軌道を中心として、右側に車夫が押す客車が写り、左側には貨物用の台車と加工済みの大谷石が見える。人車鉄道は、ほどなく普及する自動車の登場で、大正時代~昭和時代戦前期には姿を消し、宇都宮石材軌道は1928(昭和3)年、軌道線の一部にガソリン動車を導入したのち、1931(昭和6)年には東武鉄道に買収された。東武鉄道では、軽便線を同社宇都宮線の西川田を起点とする大谷線として改良し、人車鉄道を前身とする路線は軌道線として継承されたが、1952(昭和27)年に軌道線は廃止され、軽便線も1964(昭和39)年に廃止された。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2023年12月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
人力だけで車両が動かせるんですか?
A
人力を用いた交通機関としては道路用の人力車が有名で、今でも観光用として観光地で利用されています。人力車も人車鉄道も、自動車が普及する以前の交通機関として重宝されました。どちらも最初のひと押しはある程度の力が必要ですが、あとは慣性の法則で転がるので大きな力は必要ありません。特に、鉄のレールと鉄の車輪を組み合わせた鉄道は、車輪とレールの間の転がり抵抗や摩擦係数が小さいため、軽い車両であれば人力だけでも転がすことができます。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
最近、宇都宮市には路面電車が開業したとかで、話題になってますけど。
師匠
2023(令和5)年8月26日に開業した宇都宮ライトレールのことだな。
小鉄
人車鉄道と同じルートですか?
師匠
宇都宮石材軌道の路線は、宇都宮市の西側だったが、宇都宮ライトレールは宇都宮駅東口と芳賀・高根沢工業団地の間の東側を結んでいる。
小鉄
つまり、東北新幹線をはさんで宇都宮石材軌道の反対側ってことですね。
師匠
宇都宮ライトレールの公式ポータルサイトによれば、将来計画として宇都宮駅西口方面へ延伸して、大谷街道を北西に進んで教育会館前へ至る約5kmのルートが公表されているぞ。
小鉄
人車鉄道と、ほぼ同じルートになるんですね。
師匠
教育会館前から大谷まではまだ4kmくらいの距離があるが、本社があった材木町あたりを通るはずだから、人車鉄道の復活といえないこともないな。
小鉄
歴史は繰り返すんですね。
師匠
今から楽しみだな。
日本で最初の電気鉄道は、1890(明治23)年に東京の上野公園で開催された第3回内国勧業博覧会で、2両のアメリカ製路面電車が公開されたことに始まる。営業用の電車は1895(明治28)年に開業した京都電気鉄道が最初で、京都駅付近の東洞院塩小路下ルと伏見の伏見下油掛間の延長6.4kmを結んだ。
「京都七條停車場」と題した絵葉書には、京都駅を背にして京都電気鉄道の電車が滞留しているが、当時の京都駅は現在よりもやや北の七条通りに面して建っていた。電車は車体長約8mの小型車両で、運転室は屋根があるのみでオープンデッキとなっていた。集電装置はポール式で、屋根上のトロリーポールによって架空線式で電気を供給していた。
京都電気鉄道は軌間1,067mmの狭軌を用いたが、1912(明治45)年に開業した京都市営電車は広軌(軌間1,435mm)を採用したため、京都の路面電車は狭軌線と広軌線が混在することとなった。京都電気鉄道は、1918(大正7)年に京都市に買収されて京都市電の路線となったが一部を除いて改軌は行われず、狭軌のままで存続した。このため元京都電気鉄道の電車の車体番号には狭軌(narrow gauge)を示す「N」の記号を付与し、「N電」の愛称で京都市民から親しまれた。
京都市電の狭軌線区間は1961(昭和36)年に廃止され、残る広軌線の区間も1978(昭和53)年に全廃されて京都市内から路面電車の姿が消えた。代替となる京都市営地下鉄が開業するのは、その3年後の1981(昭和56)年のことであった。
1961(昭和36)年に廃車となったN電のうち1両(2号電車)がゆかりの平安神宮に保存され、2020(令和2)年には国の重要文化財に指定された。同車は、平安神宮神苑内で保存されていたが、2025(令和7)年2月19日に応天門近くへ移設され、1年後の公開に向けて修復作業が進められている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年4月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
京都に最初の電気鉄道が開業したいきさつは何ですか?
A
明治維新以後の京都市は遷都によって都の地位を東京に奪われたため、その勢いを失いかけていましたが、1890(明治23)年に琵琶湖疏水が完成し、翌年に完成した蹴上の水力発電所によって電力供給事業を開始しました(「ドボ鉄」第115回参照)。アメリカの電気事業の実情を視察した地元財界の高木文平(1843~1910)は、水力発電を利用した公共事業として電気鉄道に着目し、帰国後の1892(明治25)年に京都市内に電気鉄道を敷設しようと考えました。こうして1894(明治27)年に京都電気鉄道が設立され、1895(明治28)年2月1日に日本で最初の営業用路面電車の路線として、官設鉄道京都駅(東洞院塩小路下ル)から伏見(伏見下油掛)に至る伏見線が開業しました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
師匠。平安神宮に、何で京都市電の電車が保存されているんですか?
師匠
1895(明治28)年に、平安神宮で第4回内国勧業博覧会が開催されたんだが、この時に2番目に開業した路線として京都停車場から平安神宮付近の岡崎へ至る線が開業した。
小鉄
「内国勧業博覧会」ってあまり聞き慣れないですけど、万博と同じですか?
師匠
万博は国際博覧会だが、内国勧業博覧会は明治政府が主催した日本国内の博覧会のことだ。国内の産業新興や輸出品の育成を目的としていた。だから特に「勧業」と称していた。
小鉄
万博の国内版ってことですね。
師匠
そういうことになるかな。一般の博覧会は、珍品や名品を展示することが目的だったが、勧業博覧会は産業の奨励が目的だった。
小鉄
平安神宮も何か関係あるんですか?
師匠
第4回内国勧業博覧会は平安遷都1100年を記念して、京都で開催されることになった。
小鉄
東京遷都が実現していなければ、「1100年の都」ってことですね。
師匠
平安神宮は、遷都1100年を記念して、平安遷都を行った桓武天皇を祀る神社として1895(明治28)年に創建された。
小鉄
「平安」だから、平安時代から続いている古い神社かと思っていました。
師匠
1906(明治39)年には、京都市の「京都市三大事業」が開始されたが、その起工式は平安神宮で開催された。
小鉄
「京都市三大事業」って何ですか?
師匠
「第二琵琶湖疏水の開削」「上水道の整備」「市電を含む道路の拡張・整備」の三事業のことだ。
小鉄
なるほど。そういう縁で平安神宮に市電が保存されることになったんですね。
師匠
平安神宮も京都の電車も、同じ年に誕生したことになるな。
小鉄
京都は古い伝統の街かと思っていましたが、新しい事業にも挑戦していたんですね。
師匠
東京遷都のショックが、都を再生させたことになるな。
小鉄
水力発電と電気鉄道は、その象徴ってことですね。
紀勢本線の松阪駅は、津~山田(現在の伊勢市)を結んだ私設鉄道の参宮鉄道によって1893(明治26)年に開業し、1907(明治40)年に国有化されて参宮線となった。タイトルに「三重県松阪 中央省線 並ニ名松線 右参急 左松電」と書かれた絵葉書は、昭和戦前期の松阪駅の構内を撮影した一枚で、「参急」は参宮急行電鉄、「松電」は松阪電気鉄道の略である。
国有化後の松阪駅には、1912(大正元)年に軌間762mmの松阪軽便鉄道が開業し、櫛田川上流の大石へ線路を伸ばした。同社は1927(昭和2)年に電化されて翌年には社名を松阪電気鉄道とし、戦後は三重交通大石線となったが、三重電気鉄道に分社化されたのち1964(昭和39)年に廃止された。
一方、1929(昭和4)年に鉄道省の名松線が松阪を起点として開業し、雲出川をさかのぼって名張をめざしたが、途中の伊勢奥津までを結んだにとどまった。参宮急行電鉄は、大阪と伊勢方面を直通する軌間1,435mmの電気鉄道として1930(昭和5)年に松阪駅の東側に駅を設け、現在の近鉄山田線となった。それぞれの松阪駅は隣接していたが、国鉄線、松阪電気鉄道、参宮急行電鉄では軌間が異なるため、列車の直通運転はできなかった。1959(昭和34)年には紀勢本線が全通したため、松阪を含む参宮線の亀山~多紀間は紀勢本線へ編入され、現在に至っている。
写真の左端には松阪電気鉄道の松阪駅があり、長大な跨線橋が右端に新設された参宮急行電鉄の松阪駅へと伸びている。構内の中央には蒸気機関車の時代を象徴する給水塔が建ち、8620形蒸気機関車が牽引する旅客列車が松阪駅を後にし、踏切では荷馬車が列車の通過を待っている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年3月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
最初に松阪駅を開業した参宮鉄道は、どんな会社ですか?
A
参宮鉄道は、伊勢神宮への参拝客を運ぶために設立された鉄道で、1893(明治26)年に津~宮川間が開業し、1897(明治30)年に宮川~山田(現在の伊勢市)間が延仲開業しました。鉄道国有法によって1907(明治40)年に国に買収されて参宮線となり、国有化後の1911(明治44)年に山田~鳥羽間が延長開業しました。本文にもあるように、1959(昭和34)年に紀勢本線が全通したため、亀山~多紀間は紀勢本線へ編入されて現在に至っています。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
この松阪駅前にある「驛鈴」(えきれい)のモニュメントって何ですか?
師匠
ああ、本居宣長だな。
小鉄
本居宣長って、江戸時代の人物ですよね。「驛」ってあるから松阪駅と関係あるのかと思いましたけど……。
師匠
「驛鈴」は律令制の時代に、地方へ出張する官吏が携行した鈴のことだ。
小鉄
なんで江戸時代の本居宣長と関係あるんですか?
師匠
本居宣長は、国学者として「古事記」を研究した人物で、松阪の出身だ。
小鉄
「驛鈴」とどこでつながるんですか?
師匠
12代浜田藩(現在の島根県)主の松平康定が、「古事記伝」を著した本居宣長が鈴の収集家と知って、「驛鈴」を贈ったといわれている。
小鉄
つまり殿様からの贈り物ってことですか。
師匠
そのエピソードにちなんで、松阪駅前に駅鈴のモニュメントが設置された。
小鉄
駅と関係があるわけではないんですね。
師匠
駅はその都市の玄関だから、その都市を象徴するモニュメントを設置する例が多い。
小鉄
松阪といえば松阪牛だと思ってました。
師匠
やっぱり食べる方か………。
1872(明治5)年に新橋~横浜間で日本最初の鉄道が開業したが、当時の横浜駅は現在の根岸線・桜木町駅のあたりにあった。この時点で線路をさらに西へ伸ばす計画はなかったが、乗降場は新橋駅のように完全な行止まり式の頭端ホームとせず、片側に寄せて通過線を確保することにより将来の延伸に備えた。
1887(明治20)年には現在の東海道本線の一部となる横浜~国府津間が開業したが、横浜駅から先は通過式ではなく、スイッチバックで程ヶ谷(現在の保土ヶ谷)方面へ至ることとした。このため、横浜駅で機関車を付替える必要が生じ、輸送上の隘路となった。
その後、日清戦争を契機として1894(明治27)年に神奈川~程ヶ谷間を短絡する軍用貨物線が建設され、1898(明治31)年には旅客列車も通過するようになった。さらに1915(大正4)年には、東海道本線を軍用貨物線のやや東側の高島町付近を経由するルートに新設して2代目の横浜駅を新築・移転し、初代の横浜駅は桜木町駅に改称された。
「横浜停車場」と題した絵葉書は、この際に完成した2代目の横浜駅を撮影したもので、前年に開業した東京駅よりも規模は小さかったが、中央にピナクル(小尖塔)を設けた煉瓦造のルネサンス風建築として完成し、駅前を高島~保土ケ谷間の貨物線が高架橋で通過した。
この改良工事によって、スイッチバック運転は解消されたが、8年後に発生した関東大震災で被災し、復旧ののち1928(昭和3)年には現在の地へ再移転した。このため、2代目の横浜駅はわずか13年の使用で姿を消したが、2006(平成18)年にマンションを建設した際に2代目駅本屋の基礎部分が発掘され、その一部が現地で保存されている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2024年2月号掲載)
Q&A
文中の専門用語などを解説します
Q
鉄道が開業した時の横浜停車場は、将来、線路が西へ伸びることを前提として建設してなかったんですか?
A
本文でも触れていますが、いちおう先に伸ばせるようになっていました。始発となる東京の新橋停車場は頭端式と呼ばれる行止まりのプラットホームでしたが、横浜停車場はホームを駅の中心軸からシフトして、いちばん南側の線路は将来先に伸ばせるように考慮していました。しかし、三浦半島の丘陵地を横断するためには難工事となることが予想され、結果的に旧東海道の程ヶ谷、戸塚を経て大船へ至るルートが選択されました。このため、東海道本線にスイッチバックが生じてしまいました。(小野田滋)
師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答
小鉄
2代目横浜駅の絵葉書ですが、駅前に橋のようなものが横断してますけど、何ですか?
師匠
ああ、あれは貨物線の高架橋だ。
小鉄
どこを結んでたんですか?
師匠
東海道本線の鶴見から分岐する東海道本線の貨物支線で、高島貨物駅から新港埠頭を経て横浜税関へ至る貨物線と、東海道線の程ヶ谷方面へ至る貨物線が分岐していた。
小鉄
貨物列車のための高架橋だったんですね。
師匠
二代目の横浜駅は、東京駅と同じ年に完成した。
小鉄
何となく東京駅と似てますが、辰野金吾の設計ですか?
師匠
辰野金吾ではなく、当時の鉄道院に在籍した久野節や長谷川馨、佐伯貫一が携わっていたようだ。
小鉄
そういえば、尖塔は東京駅には無いですね。
師匠
東京駅も、最初の辰野金吾案では中央に尖塔があったんだが、最終案では採用されなかった。
小鉄
でも横浜駅では尖塔にこだわったんですね。
師匠
特に長谷川馨は尖塔にこだわっていて、原宿駅はその代表作だ。
小鉄
ほかに東京駅と違う点は何かありますか?
師匠
2代目の横浜駅の改札口は2階にあった。
小鉄
あっ、ほんとだ。「階上平面図」に改札口が描いてありますよ。
師匠
それと東京駅と違って、東海道本線の列車線、貨物線、京浜電車線に囲まれた三角形の平面に建設された。
小鉄
たしかに、正面は東京駅と同じように横長に見えますけど、平面図で見るとずいぶん変わった形の建物だったんですね。
師匠
跨線橋の配置なども独特だ。
小鉄
駅は正面だけでは判断できないってことですね。
師匠
駅は、建築としての駅の建物だけに注目しがちだが、肝腎の機能は駅の構内を含めた全体のレイアウトにある。
小鉄
なるほど。
師匠
そこが駅の歴史を調べる時の、土木と建築の視点の違いだ。
小鉄
今回の横浜駅も、土木の目線で見ると突っ込みどころがいろいろありますね。
師匠
ある意味では東京駅よりも興味深いぞ。