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ドボ鉄171跳開橋の普及

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 日, 2025-12-07 22:23

 舟運と陸上交通の共存を図るために、可動橋が各地に登場した。鉄道橋では、船舶の航行が頻繁な運河や港湾地区で多用され、可動方式によって旋開式(旋回式とも)、跳開式、昇開式に区別された。「第四回当所設計及架設ニ係ル名古屋市西築港鉄道跳上橋全景」と題した絵葉書は、山本卯太郎の率いる山本工務所が宣伝用に作成した1枚で、跳開橋として設計された堀川口可動橋(名称は日本国有鉄道名古屋鉄道管理局施設部保線課調整の『線路一覧略図』(1967)に基づくが「1・2号地間運河可動橋」「名古屋港跳上橋」などとも称される)の全景がおさめられている。
 山本卯太郎(1891~1934)は、1914(大正3)年に名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)土木科を卒業してアメリカへ渡り、アメリカン・ブリッジ社で可動橋の設計や製作に携わった。帰国後に山本工務所を設立して可動橋に関する特許を取得し、大阪、名古屋、東京に営業所を構えてその普及に貢献したが、1934(昭和9)年に42歳の働き盛りで早逝した。
 堀川口可動橋は、愛知県名古屋港務所の事業による名古屋臨港線(のち日本国有鉄道名古屋港線・名古屋~堀川口間)の橋梁として1926(大正15)年10月に着工して、1927(昭和2)年6月に完成した。堀川口可動橋を含む名古屋港線の名古屋港~堀川口間は1980(昭和55)年に廃止されたが、その後も跳上げた状態で現地に保存され、わが国における現存最古の跳開橋として1999(平成11)年には「名古屋港跳上橋(旧1・2号地間運河可動橋)」として国の登録有形文化財に登録された。跳開桁の中央には、山本が手がけた他の跳開橋と同様に、「山本工務所」と書かれた大きな銘板が取り付けられ、その名を今に伝えている。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2015年1月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

参考写真で紹介されている「奥田助七郎胸像」と「人造石護岸」は堀川口可動橋と何か関係があるんですか?

A

直接関係はありませんが、名古屋港の整備に貢献した技術者と、名古屋港で使われた人造石護岸を野外展示していて、どちらも堀川口可動橋近くの「ガーデン埠頭交差点」付近にあります。奥田助七郎(1873~1954)は、京都帝国大学を卒業したのち愛知県土木技師として名古屋港の発展に貢献した技術者で、没後、1957(昭和32)年の名古屋港50周年事業で胸像を奉置しました。隣には、「この人を見よ」と書かれた副碑があります。人造石護岸は、1903(明治36)年の名古屋港旧2号地(現在のガーデン埠頭)南側護岸で用いられたものが改良工事の際に出土し、その一部をモニュメントとして保存したものです。人造石は、愛知県碧海郡出身の服部長七(1840~1919)が考案したコンクリートの代用材で、左官の「たたき」の技術を応用して石灰とマサ土(花崗岩が風化した土)に水を混ぜて造られる人口材料です。東海地方を中心として各地で用いられ、発明者の名前にちなんで「長七たたき」とも称されています。(小野田滋)

”堀川口可動橋(旧名古屋港線名古屋港~堀川口/名古屋市港区)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

今回も山本卯太郎の可動橋ですね。

師匠

前回も紹介したが、山本卯太郎は個人で事務所を構えて独立していたから、絵葉書を使ってあちこちに実績を宣伝していたようだ。

小鉄

それが絵葉書として残っているってことですね。

師匠

可動橋は文字だけでは説明が難しいが、写真で見るだけでわかり易い構造をしていたから、絵葉書で宣伝する効果は大きかったと思うぞ。

小鉄

たしかに、橋に詳しくない人でも、写真を見ればどんな姿なのかがよくわかりますね。

師匠

百聞は一見にしかずだ。

小鉄

跳開橋って、どこかでも文化財になってませんでしたか?

師匠

ドボ鉄第46回で紹介した三重県四日市市の末広橋梁だな。

小鉄

思い出しました。たしか末広橋梁も山本卯太郎の設計でしたよね。

師匠

鉄道の跳開橋はかつてあちこちにあったが、現存するのは末広橋梁と今回の名古屋港の2箇所だけになってしまった。

小鉄

でも末広橋梁は国の重要文化財で、名古屋港は国の登録有形文化財だから、卯太郎さんは良いものを遺してくれましたね。

師匠

同じ跳開橋だが、開閉する仕組みが異なっているから、技術的にも価値があるな。

小鉄

どこが違ってましたっけ?

師匠

末広橋梁はリンク式を用いていて、主塔があって吊橋のようにワイヤーとリンク機構で可動桁を持ち上げているから、外観だけで見分けることができるぞ。

小鉄

なるほど。

師匠

間違い探しの要領で写真を見比べると、違いがわかるようになる。

小鉄

「違いがわかるゴールドブレンド」ですね。

師匠

そのCMを覚えているってことは、さては昭和の生まれだな。

小鉄

ダバダ~、ダバダ~……♪

ドボ鉄170ドイツ製トラス橋と甲武電車の登場

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 日, 2025-12-07 22:22

 中央本線水道橋~飯田橋間に架かる小石川橋通架道橋は、江戸城外濠が神田川と日本橋川に分岐する場所の日本橋川に架設され、中央本線御茶ノ水~八王子間の前身である甲武鉄道によって1904(明治37)年に完成した。日本橋川は、江戸時代の二代将軍・秀忠の頃に駿河台を開削して神田川を設けたため、その掘削土砂よって埋め立てられていた。明治時代になって、日本橋方面への舟運を確保するため開削工事を行って日本橋川として復活し、甲武鉄道もここに橋梁を架けることとなった。
 小石川橋通架道橋は、開業時より複線として建設された。径間構成は、水道橋方から下路プレートガーダ×1連+上路ワーレントラス×1連+下路プレートガーダ×2連で、トラス橋の部分は同一設計のトラスを単線並列で架設した。これらはすべてドイツ製で、現地に架かるプレートガーダの主桁の側面(ウェブ)には、ドイツのデュイスブルクにあるハーコート社が1904(明治37)年に製造したことを示す銘板が取り付けられている。
 明治期に輸入されたドイツ製のトラス橋は、もっぱら九州鉄道(現在の鹿児島本線など)で用いられ、独特の弓形をしたボウストリングトラスで知られる。これに対して、小石川橋通架道橋は日本が輸入したドイツ製の橋梁としては唯一の上路ワーレントラス橋であった。
 「東京百景之内 飯田高架鉄道」と題した絵葉書には、日本橋川に架かる小石川橋通架道橋のトラス橋の上を甲武鉄道の電車が通過するが、蒸気機関車を用いていた甲武鉄道は、1904(明治37)年8月21日に中野~飯田町間を電化して電車を走らせた。電車は、すでに路面電車として市内交通で実用化されていたが、蒸気鉄道を電化して電車を走らせたのは甲武鉄道が始めての試みで、東京帝国大学工科大学電気工学科を1900(明治33)年7月に卒業した市来崎佐一郎(いちきざき・さいちろう)を電気技術者として採用し、同社の電化工事にあたらせた。小石川通架道橋を含む御茶ノ水~飯田町間は、同年12月31日に延長開業した。
 電車の編成は、前後の電動車の中間に付随車1両または2両(当初は従来使用していた客車を付随車に充当していた)を挟んで連結し、1箇所の運転台で制御できるよう総括制御方式を採用した。しかし、当時の写真等によればほとんど電動車のみの単車で運転していたようである。また、万世橋への延長線が開業した時点で大形のボギー車両を導入する計画であったが、鉄道国有化によって甲武鉄道の時代には実現しなかった。
 電動車は軸距10フィート(3.048m)のブリル21E型台車を用いた2軸の木造車で、最初に登場した16両にはスブレイグ式総括制御装置を用い、主電動機としてゼネラルエレクトリック社製のGE-53-A型(42馬力)を2台搭載した(諸元はのちの改造等により微妙に異なるが、ここでは市来崎佐一郞「甲武鐵道株式會社市內線電氣鐵道紀要」『工学会誌』No.273(1905)の製造時に近い数値に基づく)。また、真空ブレーキが主流であった時代に空気ブレーキを採用し、ユニオンスイッチ&シグナル社製の円板式自動信号機の採用とともに、高頻度で運転される都市鉄道にふさわしい先進的な運転保安設備を整えた。
 なお、1904(明治37)年に登場した甲武鉄道の電車のうち1両が松本電気鉄道(現在のアルピコ交通)を経て鉄道博物館(さいたま市)で保存され、松本電気鉄道ハニフ1形客車(旧甲武鉄道デ963形電車)として廃車時の姿で展示されている。(小野田滋)(書き下ろし)

※「市来崎」の読みは「いちきざき」とする用例が一般的であるが、坂元俊雄編『忍草』市来崎佐一郎君追懐録編纂事務所(1933)では「市来崎家の家系とその発祥地」という章の中で、鹿児島県出水市米ノ津の対岸に市来崎(いちこざき)という岬があることや、島津家の古文書の諸家系図文書には市来崎を「いちくさき」と明記していることなどを指摘した上で、市来の「来」にいったん「後」の字をあてて「市後崎(いちござき)」としたものの、再び市来崎に戻した際に「いちきざき」と発音するようになったのではないかと推定している。また、東京大学工学部で所蔵されている英文の卒業論文では「Ichikuzaki」と記しており、少なくとも青年時代は「いちくざき」を称していたと考えられる。日本の戸籍制度ではふりがなを要求しないため漢字を自由に読み下すことができ、一般的に用いられている読み方や、本人が自称する読み方が名前として慣用された。

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

市来崎佐一郎はどんな方ですか?

A

市来崎佐一郎は、1876(明治9)年8月13日に鹿児島市で生まれ、1890(明治23)年に東京へ出て、第一高等中学校を経て1897(明治30)年9月に東京帝国大学工科大学電気工学科に進学しました。同校を1900(明治33)年7月に卒業して甲武鉄道に入社し、同社の電化工事を担当しました。市来崎は、恩師の山川義太郎や玉木弁太郎などの支援を受けながら発電所や変電所、電車線、電車の設計にあたり、1904(明治37)年8月21日に甲武鉄道は中野~飯田町間で電車運転を開始しました。当時、南海鉄道でも蒸気列車の電化を計画しており、先例となった甲武鉄道を見学するために訪れた同社取締役の大塚惟明に請われ、1905(明治38)年11月に南海鉄道へ転職しました。南海鉄道では臨時建設部電気主任(のち電気課長を兼務)に就任して電化工事に従事し、1907(明治40)年8月21日には難波~浜寺公園間が直流600Vで電化開業し、1911(明治44)年11月21日には和歌山までの全線電化が完成して、旅客列車はすべて電車列車となりました。南海鉄道の電化では、最初からボギー式の「電1形」電車を投入し、1909(明治42)年に登場した「電2形」からは総括制御方式を採用して、「電列車」と称して編成を組んで運転されました。1913(大正2)年11月には海外の電気事業を視察するために洋行し、翌年5月に帰国しました。1916(大正5)年頃には、鉄道院次官の石丸重美から鉄道の電化工事を本格的に行うにあたって、電気の専門家として勅任官待遇で鉄道院技師に迎えたいとの話が持ちかけられましたが、熟考の末に自分は南海鉄道で一生働くつもりであるとしてこれを断ったとされます。南海鉄道にとどまった市来崎は、1922(大正11)年に取締役、1924(大正13)年に取締役兼技師長(技術部長)となったほか、電気学会関西支部長、中央電気倶楽部理事長など電気関係の諸団体の要職を歴任しました。1926(大正15)年7月に体調不良をおして堺発電所の起工式に出席しましたが、同年8月20日に逝去しました。甲武鉄道や南海鉄道で実現した蒸気鉄道の電化は、やがて全国へ波及して、都市鉄道の近代化に大きく貢献しました。(小野田滋)

”小石川橋通架道橋(中央本線水道橋~飯田橋/東京都千代田区)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

甲武鉄道の電車って、パッと見、路面電車とあまり変わらないように見えますけど、どこがスゴいんですか?

師匠

明治時代の鉄道の動力は蒸気機関車が基本だったが、甲武鉄道は都市鉄道として電車が普及するきっかけとなった私設鉄道だ。

小鉄

日本で初めて実用化された電気鉄道は、ドボ鉄第115回と第155回で紹介した、1895(明治28)年の京都電気鉄道が最初ですね。

師匠

京都電気鉄道は最初から路面電車として開業した例だが、東京のように馬車鉄道を電化して路面電車を走らせた例もある。

小鉄

東京馬車鉄道を電化した東京電車鉄道ですね。

師匠

しかし、蒸気機関車が走っていた路線を電化して電車を走らせたのは、甲武鉄道が最初の例になる。

小鉄

たしかに、そうですね。

師匠

今は全国で電車が走っているが、ほとんどの路線は蒸気機関車が走っていた路線をのちに電化して現在の姿になった。

小鉄

でも、この写真の甲武鉄道の電車は、1両だけで走ってるから、どう見ても路面電車みたいですよ。

師匠

甲武鉄道では3~4両編成の電車を考えていたが、当時は利用客も少なかったから1両だけで運転していたことが多かったようだ。

小鉄

それに、電車も短いから、やっぱり路面電車みたいですよ。

師匠

当時の路面電車のように2軸のみの短い電車だったが、このあとボギー式という台車を車体の前後に取り付けた大形車も登場した。

小鉄

今の電車に近い形ですね。

師匠

甲武鉄道から南海鉄道へ移籍した電気技術者の市来崎佐一郎は、南海鉄道の電化でボギー電車を実現し、さらに総括制御によって電車を編成単位で制御できる技術を確立した。それがこの「電2形」という電車だ。

小鉄

人類の進化を見ているみたいですね。

師匠

写真に写っている橋梁もドイツ製だが、トラス橋もこのあと国産化されるから車両も土木構造物もさらに進化することになる。

小鉄

そう考えると、この1枚の写真に技術の変化が記録されていることになりますね。

師匠

写真を単に「見る」のではなく、「読む」ことが大切だ。

小鉄

ボーっと見ているだけじゃダメなんですね。

師匠

チコちゃんに叱らるぞ。

ドボ鉄169特殊条件を克服した新幹線の駅

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 金, 2025-11-07 23:18

 山陽新幹線の新神戸駅の設置にあたっては、神戸の市街地を避けながらも、主要ターミナルに近いこと、駅前広場などを含む総合的な開発が可能であること、用地の取得が容易であることなどの観点から、生田川上流の布引付近に設けられることとなった。山陽新幹線は、六甲山地をトンネルによって東西に貫き、新神戸駅の東側には延長16,250mの六甲トンネル、西側には延長7,970mの神戸トンネルが掘削された。
 布引付近には、六甲山地を斜めに横断する布引断層が存在し、また、土砂が流入しやすい地形条件でもあった。また、駅構内のコンコースの空間を確保する必要があり、こうした諸条件を克服するために特殊な設計が行われることとなった。
 設計案では、生田川を支間48mの生田川橋梁で跨ぐために、鋼ワーレントラス案、異形トラス案(鋼ワーレントラスの斜材の間隔を広げた案)、鋼フィーレンデール案(「フィーレンディール」「フィレンディール」とも)、桁+鋼ラーメン案、鋼フィーレンデール+合成桁案の4案が比較された。検討の結果、コンコースの空間を確保できること、コンコースの柱をできるだけ少なくできること、列車通過に伴う本線の振動がコンコースやホームに伝わらないことなどから、本線部(山陽新幹線の上下線が通過する部分:生田川橋梁)を合成桁(支間47.5m、単線並列の斜橋)、ホーム部(プラットホームを支える部分)を鋼フィーレンデール桁とする案が採用された。ホームを支える鋼フィーレンデール桁は、下り線ホームを支間52.5m、上り線ホームを支間68.3mとし、いずれも直橋で上り線ホームの山側の主構のみは支間長が長くなるため鋼ワーレントラスを採用した。
 これによりコンコースの天井高は、本線部で約3.6m、ホーム部で約7.0mが確保された。また、第2橋台を構成する岡山方の西部高架橋は、複雑な地質や活断層の存在を考慮して設計された。具体的には、断層の動きによる相対変位量を構造物の耐用年数内に5cm生じると想定し、ヒンジや可動支承を用い、高架橋のブロック長さを短くするとともに、ブロック間の接続は変位にも対応しやすい単純桁を用いた。また、本線部は地盤の影響が上部のラーメン構造に及ばないように、基礎には剛性の高い中空式の大型のフーチングを用い、断層の変位に耐えられる構造とした。
 工事は日本国有鉄道大阪幹線工事局が監理し、本線用の合成桁は石川島播磨重工業、山側ホーム橋梁は川崎重工業、海側ホーム橋梁は横河橋梁製作所が製造した。施工は1968(昭和43)年11月に着工して1971(昭和46)年4月に本体工事が完成し、引き続き建築工事を行って1972(昭和47)年3月にすべての工事が完了した。新神戸駅を含む山陽新幹線の新大阪~岡山間は、「ひかりは西へ」というキャッチフレーズとともに、1972(昭和47)年3月15日に開業した。
 なお、新神戸駅は1995(平成7)年1月17日に発生した阪神・淡路大震災に遭遇したが、桁の変位や桁座の剥落、床タイルの破損、壁面のひび割れなどの被害が生じたものの全体としては軽微な影響範囲にとどまった。
(小野田滋)(書き下ろし)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

フィーレンデールはどんな構造ですか?

A

フィーレンデールは、斜材を用いず格子を連ねた梯子状の骨組みの構造物で、ベルギーの橋梁技術者であるアーサー・フィーレンデール(Arthur Vierendeel:1852~1940)が1896(明治29)年に発明して特許を取得し、1899(明治32)年にはアメリカでも特許を取得しました(U.S.Patent No.639320)。フィーレンデール橋は、一般的なトラス橋に比べて部材が厚肉で、鋼材重量が重くなるため不経済となりますが、部材に斜材を用いないため単純でシンプルな外観となり、周囲との景観の調和を図ることができるという利点があります。また、広い開口部を利用することによって大きな窓を設置し、橋上からの景観も確保できる形式として選択されることもあります。フィーレンデールトラスとも称されますが、一般的なトラスのように斜材を使用しないため、ラーメン構造の一種に分類する場合もあります。(小野田滋)

”山陽新幹線・新神戸駅(神戸市中央区)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

フィーレンデール橋ってあまり見かけませんが、いつ頃から採用されたんですか?

師匠

日本では、震災復興事業で、1927(昭和2)年に完成した道路橋の豊海橋(とよみばし)が最初の適用例だ。

小鉄

今でも残ってますか?

師匠

東京都中央区の日本橋川に架かっている。土木学会の選奨土木遺産にも選定されているぞ。

小鉄

鉄道橋で使われたことはありますか?

師匠

1934(昭和9)年に日本電力(現在の関西電力)専用鉄道の黒部川第二発電所連絡施設として完成した目黒橋(富山県宇奈月町)があるが、現在は道路橋として使われている。

小鉄

その後は、使われなかったんですか?

師匠

2008(平成20)年に完成した京王電鉄・桜上水駅の橋上駅化で用いられ、斜材が無いという特徴を活かして広い駅空間を実現した。

小鉄

新神戸駅と同じような理由ですね。あと、フィーレンデールの解説に「橋上からの景観も確保できる形式として選択」とありますが、そんな使い方をしている例もあるんですか?

師匠

1984(昭和59)年に供用を開始した浜松町駅跨線人道橋は、隣接する芝離宮が眺められるように四角い窓を設けることができるフィーレンデールを選択した。

小鉄

浜松町駅は都内だから、いつでも見に行けますね。

師匠

ところが、現在(2025年11月現在)はリニューアル工事中で、しばらく中へ入れない。

小鉄

残念ですね。

師匠

浜松町駅跨線人道橋は、昭和59年度に土木学会田中賞の作品部門を受賞していて、そのメダルと賞状のレプリカが駅の構内に飾られているぞ。

小鉄

それはぜひ見に行きたいですね。どのあたりですか?

師匠

南改札口を出て70mくらい先の左側の壁面にある。

小鉄

目立つ場所ではないんですね。

師匠

さりげなく、ひっそりとあるのが土木の奥ゆかしいところだ。

ドボ鉄168隅田川貨物駅と跳開式可動橋

ドボ鉄入門講座 新着情報 - 金, 2025-11-07 23:17

 日本鉄道では上野駅を救済するための貨物専用駅として1890(明治23)年に秋葉原駅を新設し、1896(明治29)年には隅田川駅を開設した。このうち、秋葉原駅は食料品や雑貨を主体としたが、隅田川駅は石炭、木材、砂利などのいわゆる「荒荷」を主体としたのが特徴で、特に常磐炭の集積地として機能した。秋葉原駅も隅田川駅も、河川舟運との連絡を重視し、秋葉原駅は神田川、隅田川駅は隅田川から運河を引込んで船溜を設けた。
 どちらの駅も、トラックが無かった時代は舟運によって都内の荷主に貨物を運んでいたが、その後のトラック輸送の発達や石炭・木材の取扱量が減少したことにより、水陸連絡設備はしだいに埋立てられた。隅田川駅では、1968(昭和43)年にコンテナ輸送に対応した貨物駅に大改良され、構内のレイアウトの変更や、出入口となる陸羽街道との平面交差の立体化などの工事が実施された。
 土木技術者の山本卯太郎(1891~1934)は、アメリカから帰国して可動橋の設計・製作を専門とする山本工務所を設立したが、最初に手がけた跳開橋が今回紹介する隅田川貨物駅の可動橋であった。この可動橋は、隅田川貨物駅から伸びる日本石油隅田川油槽所専用線に1926(大正15)年7月に架設され、可動桁の支間は50フィート(15.24m)、跳開角度は82度、設計荷重はE33という諸元であった。跳開方式は、回転軸を有するトラニオン形で、このスタイルは初期の山本工務所の跳開橋の基本となった。
 隅田川駅は、現在も貨物駅として使用され続けているが、可動橋を含めて水運関連の設備はほとんどが撤去された。隅田川右岸に残っていた汐入水門は、2006(平成18)年に瑞光橋公園として整備され、「汐入水門跡」として躯体の一部が保存された。(小野田滋)(「日本鉄道施設協会誌」2023年2月号掲載)

 

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Q&A

文中の専門用語などを解説します

Q

本文の最後に登場する汐入水門は、どのような目的で、いつ頃建設されたのですか?

A

隅田川駅の周辺は水位が高く、高潮や豪雨の際には水位が上昇してホームの上まで水に浸かるなどの被害が発生しました。このため、運河の入口に水門を設けて浸水を防ぐこととなりました。工事は国鉄新橋工事事務所が担当し、1951(昭和26)年11月に着工して、1953(昭和28)年6月11日に竣功しました。水門の幅は11mあり、閘門は電動機で昇降する鋼製のローラーゲート式でした。(小野田滋)

”隅田川駅構内・日本石油隅田川油槽所専用線跳開橋(東京都荒川区)”番外編

師匠とその弟子・小鉄が絵はがきをネタに繰り広げる珍問答

小鉄

また山本卯太郎の可動橋ですね。

師匠

ドボ鉄でも、末広橋梁(第46回)、古川橋梁(第144回)を紹介したから、3度目の登場になるかな。

小鉄

アメリカで可動橋の技術を学んだ人ですね。

師匠

当時の日本には可動橋のノウハウに乏しかったから、重宝された。

小鉄

個人で設計事務所を構えた人ですよね。

師匠

山本は、絵葉書をカタログ代わりに使ったり、あちこちの雑誌に広告を出して、積極的に実績を宣伝していた。

小鉄

たしかに、絵葉書を見ると、営業科目とか事務所の住所とか、普通の絵葉書では書かないようなことが細かく書いてありますね。

師匠

今のように、ネットやテレビが無くて、雑誌や新聞広告くらいしか広告を載せていなかったから、絵葉書は宣伝媒体としても重要な役割を果たしていた。

小鉄

末広橋梁にも付いていた、山本工務所の製造銘板も写ってますね。

師匠

製造銘板は、桁の端の部分に取り付ける例が多いが、山本工務所は真ん中に取り付けたのが特徴だ。

小鉄

銘板も大きくて目立ちますね。

師匠

個人で設計事務所を立ち上げた人だから、銘板も絵葉書も存在をPRするための重要な手段だったということになるかな。

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(c)Japan Society of Civil Engineers