『土木技術者の倫理』(2003年)P25および『技術は人なり-プロフェッショナルと技術者倫理-』(2005年)p.22に,青山士氏の発言として,以下のようなものが紹介されている。
(前略)事故の第一報を聞いた青山は吐き捨てるように言った。(原文改行)「手抜き工事をするからこんな無様な事故を起こすのだ。」(後略)
しかし,この下りは,事実と反するのではないかという議論が,これまでに何度か指摘されている.
参考資料
冊子『第9回トークサロン記録 大河津分水と青山士・宮本武之輔』より質疑の抜粋
質疑応答3 栢原氏(映画のこと、「砂利を食った」発言、「万象に……」を巡って)
司会 それでは、お時間があと10分ぐらいしかなくなりましたが、もうちょっとご発言あるかと思いますので、フロアのほうからお話しいただきたいと思います。いかがですか。
栢原 港湾協会の栢原といいます。運輸省の港湾局におりました。大河津分水、それから青山士さん、宮本武之輔さんに大変興味を持ち始めたきっかけは、私が第一港湾建設局に行く直前に先ほどお話のあったフィルムが倉庫から見つかって、前任者からこの処分はおまえに任せると言われました。
それで、仲間と随分相談しましたが、港湾局の名前で土木学会の図書館に寄付しようという声が圧倒的でした。しかし、河川行政を引き継がれたのは北陸地建だから、亡くなられた斉藤さんが局長でしたが斉藤さんに貴重なフィルムが見つかったので処分も含めてお返ししますということでお返ししました。それが大河津資料館に生きることになったというのをちょうど聞いて、大変うれしく思いました。
二つお伺いしたいのですが、一つは、先ほどもありましたけれども、青山士さんが手抜き工事だと言ったという点です。大変私は気になっていまして。高崎さんの本なんかを読むと、砂利を食ったからだと言ったと。砂利を食ったというのは、予算の横流しをしたという意味ですが、それを高崎さんは「手抜き工事」と解釈している。土木学会の倫理のテキストでも、手抜き工事と書いてしまっているんですけど、それは最近の、公共工事は手抜きをやるという風潮に流されてつい筆がすべったのではないかと私は思っています。
何を言いたいかというと、岡部さんが一体どういう思いでその後過ごしたかというのにも興味があって、随分調べたところ、やっぱり根入れのためにラルゼンの矢板を買いたかったと。だけど予算が制限されて、それで買えなかったんだと。だから、十分な根入れがとれなかったのが結局、洗掘を起こして被災をしたという趣旨のことをあるところに書いておられました。
この表にも出てきますけれども、その後宮本さんの下で働かれた後藤憲一さんの追悼録の中に少しそういうことを書いておられるわけです。そういうことを聞くと、どうもあれは手抜き工事と翻訳してしまったのが間違いで、予算が制約された、あるいは予算がどこかに行ってしまったということをおっしゃりたかったのではないかと私は思っていますけれども、どういうことでしょうか。
それから、もう一つは、これが議論を呼ぶかもしれませんが、「万象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ」ということと「人類ノ為メ国ノ為メ」という文章が、私はもともと二文、二つの文章であると。それを一文と解釈しているところにいろいろな問題があるのではないかと思います。その点についてはどういうふうに思っておられるのか。二つお聞かせいただければと。
五百川 おっしゃる砂利云々の問題ですが、やはり私はどういう形でああなったのかということを精査してみなければわかりませんけれども、少なくとも青山士が前後の言動の中で、しかも失敗に触れた箇所がこの別紙に数行で書いておられる(「語に曰く、失敗ということは、そのなしたる失敗を経験として使用し得ざりしことであると、我々は果して失敗者であるであろうか。」青山士「全技術者 苦闘の賜もの」1931より抜粋)。そういうものからみても決してそう考えていなかったということは、その軌跡をたどることで考えるわけです。
したがってあの場合……。実は青山士さんのところへお伺いするのは、幾つかの点でいわゆる青山家の家人から聞いたというところはどこまで本当なんだろうかということもあるんです。それは磐田の漢学的な精神的な風土、それこそ三河という地域のそういう風土とあわせて、そのことが実は私の次回の磐田探訪のねらいの一つなんです。
その岡部さんの工事について、この間、地元の伝承で一つだけおもしろい話を聞きました。それは、青山士と宮本武之輔。武之輔の場合は、別紙にもあるように地元の人から非常に尊敬されているんです。私はその根源としては、宮本の酒というものは非常に重要だったと思います。日本人のつき合いの中で酒というものの持つ意味は、宮本の時代にはなおさらでした。
しかも、彼の日記を見ると、地域の人に講演をした後のところに必ず書かれているのは、「酩酊」と。何も覚えない。とことんまで飲んでいるのを、不思議と地域の人と一緒に飲んでいる。そのことを日記に記しているんです。これは非常に大事なことだと思います。良寛は、「人は情けのしたに住む」と言っておりますね。鳥は木にとまり、鮎は瀬にすみ、人は情けのしたに住むと。
よく言われている越後の風土の中で、例えば選挙違反というような問題もいろいろありますが、根源は中央の方が言うような買収ではないんです。いつも事件に出てくるのは、本当に1人200円か300円の酒の肴とか一合瓶とか何かが出てくるんですが、そんなので買収なんてことはあり得ないですよ。要は問題は、その情というものの持ついろいろな複雑な風土というものがあるんです。
そういう中で、宮本さんが日記の中で徹底して酒を飲んだということと関連しまして、地域に今、青山士の「士」という名前を名乗る人がいるんです。今年で退職されますが、田辺士という操作長で堰の操作の指導者をやっているんです。この名前どうしたんですかとお聞きしたら、おやじが大河津分水で働いていて青山士の名前をつけたと。
それでその人は、父親がいつも言ったけど、非常に岡部さんを気の毒がっていたと。それはどういう言い方かというと、いまおっしゃったように、例の矢板が使えなかったんだと。それがすべてなんだとおやじがよく語っていたと言っています。これはやはり岡部さん自身が率直に書いておられますし、私は事実の整合性という意味でも岡部さんの自分が失敗したとすることに対する分析は今も意味を持っていると思います。そういうことが一つあります。
だから、おっしゃるとおり、これは青山の……。高橋裕さんなんかも青山が手抜き工事などと言うはずがないというようなことをちらっとおっしゃっていたような話も聞きますが、私もその点非常に同感です。そういうふうになったいきさつというものは、やはりちょっと正さなければおかしいなという思いがございます。
それから今の映画の件、本当にありがとうございます。実はこの間も港湾局に行きましたら、港湾局の方がそれを言っていました。私どものところにとにかくあったのでと。それは港湾が今は国土交通省だけれども、建設省と離れた時期があったけれども、私ども港湾関係はむしろ古くから土木事務所の一角として存在したということで、お話を聞いて非常にありがたい思いをしました。そんなことを感じますね。
栢原 碑文の問題はどういう……。
五百川 碑文の点については、おっしゃるとおりです。私は、人類のためということで、実は距離をあけて国のためと書いているのであって、一続きの意味としてとらえる必要もないし、それはそれで考えるべきではないでしょうか。特に私はエスペラント語ということについても、単にパナマ運河で云々ということよりも、彼の思想の根本にやはり技術の持つ重要性ということがある。例の土木学会でした特別講演。あそこに流れているのは、もう広く外国史についても触れていますが、要するに世界の歴史の中で、土木技術というよりは「文化技術」が果たしたそれこそが重要だと。
よく軍国主義時代の中の青山を問題にする人もありますが、私はそうではなくて、そういうことを一つの権力争奪戦、階級対立史観のある時代、あの思想的な方々の多くがほれ込んだそのマルクス主義史観、革命史観の中で、青山という人は一つの見識をそこに持っておられたんだと思います。そういう意味で、弾圧されてマルクス主義史観から転向するとかそんなような時代があった中で、青山士自身は確固たる歴史の中での技術というものをとらえていた。
最近ちょっとおもしろいので、皆さんどう思いますか。エジプト史の中でのピラミッド。あれがどうなんですか。王様の圧政の中でつくられたんじゃなくて、当時のエジプト国内の治水、そして失業救済、貧民救済の一助としてやられたと。その証拠にいろいろな科学的医学を施した人体の遺骨がどんどん出て、古代エジプト史観の転換というようなことが言われている。はっきり結論は出ていませんが、おもしろい見方だなあと思いました。
人をすべて何か使役と労役のそういう面だけで見るんじゃなくて、そういう新しい人間の歴史の見方をすると、もし通ずるものがあればおもしろい見解だなあと思ったんです。だからそういう意味で、人類のためというのは、それは明らかに広い国際的な視野を持ったものとして意識されたでしょうし、国のためというのはさらにその中で日本という国もあるし、あるいは青山がいつも教会で唱えたであろう神の御国ということも当然含まれていたであろう。
そういう点では、それは無理に一つのつながったものとして考える必要がない。しかし、そこに通底しているものは、結局人の福祉というこのことが、とにかく青山士の言動から消えていないということです。その福祉ということをその基本をつなぐ根本に理解すると非常にわかりやすいのではないか。
しかも、宮本武之輔さんをいつも車で送迎した方が1人いるんです。97歳で、地元のタクシー会社の会長をしています。それで、とにかく勤勉な方で、朝早く車に乗せて送って、帰りに迎えに行く。
そもそも地蔵堂タクシーが生まれたのは大河津分水のおかげなんです。おわかりのように、当時タクシーに乗れる人なんてそんなにいないんですよ。それが、新しい文化がみんなもたらされた。テニスをやる、お茶、生け花、そういうものを奥さん方がやるということで、いわゆる大河津分水工事というのは地域の一つの文化革命というものにつながっていくんです。今でも非常に文化的な風土が盛んなところです。
技師さんたちが持ってきた文化。その中でタクシーというのが始まるんです。たった1台。外国製のシボレーという。土地の石田さんという地主さんが買って、中村さんという今の会長に預けて、その中村さんのタクシーをよく利用したのが宮本さんです。
それから今86かな、徳永さんという人がいます。その人がかわいい子供のころに宮本さんに湯茶の接待役で呼ばれて、いつも頭をなでてくださったと。そういう人がわずかもう3~4人しかいません。あとトロッコを押したというおばあちゃんたちが3~4人おります。
しかし、あの人たちの働いたときの思い出を聞きますと、やらされたとか、搾られたとか、あるいはさっき言いましたタコ部屋みたいな、そんな話は出ません。石津さんという「土木うち」で育った人が小学時代に大河津分水工事へ修学旅行で行ったときにタコ部屋がなかったという感想をこの間話をされて、なるほどと思いました。
結局、あの補修の歌、それから第二次大河津分水での渡辺六郎のあの働いた人々への感動というものは、やっぱりそこに新たな土木作業をする、そういう延べ1000万人と言われる人々がいたということ。そこに従業員一同の碑(を建てた)。それは単に宮本、青山のそういう思想からではなくて、働いていた人たちの考え、思想というものがまた、あの従業員一同の碑になっている。そういうことも私は考えさせられました。
だから、そういう意味で、司会の方がさっきおっしゃった、宮本さんの文化創造ということが本当に大勢の人々から納得していただきたいなあという思いがございます。