琉球、中国など海外諸国との交易によって独自の発展を遂げた鹿児島。現在もどこか異国情緒の漂う、異彩に満ちた魅力的な都市である。
鹿児島湾越しに桜島と対峙する市域には「シラス」が堆積し台地が形成されているが、排水がよく地下水位の低いこの火山灰台地を適地として生産されるサツマイモも元は17世紀に琉球や中国から伝わった外来作物である。
このように、自然地理的条件と海外文化の伝来地という人文地理的条件とが共存する鹿児島の特殊性は、この地に整備された水道の特徴にも強く反映されている。
シラス台地は、いわゆる「天然の濾過(ろか)池」として雨水を地中で濾過しながら不透水層上に集め、勾配に沿って流下させ「湧水」という恩恵をもたらした。薩摩藩第5代藩主・島津継豊はこれにいち早く目をつけ、1723(享保8)年、市内冷水町の湧水を城内ならびに城下の一部に引水している。
この在来水道は、耐圧石管と石樋、そしてサイフォンの原理を応用した「高桝(たかます)」と呼ばれる小型の石造配水塔を用い、この時代にすでに圧力送水を実現している点でもきわめて興味深い。わが国にはまったく前例のないもので、近代水道の父であり鹿児島市水道の工事顧問となる中島鋭治(1858〜1925年)も前近代の設計技術者の技量を「驚嘆するに余あり」と絶賛している。
明治初期、これと似た「石管水道」が鹿児島県西部の港町「坊津(ぼうのつ)」にもあった。古くから海外貿易の要地として栄え、遣唐使船の発着地、唐僧鑑真の上陸地としても知られている坊津は、鎖国以降は薩摩藩の「密貿易」の基地でもあった。中国人居留地も県内各地に形成され、唐湊、唐仁原、唐浜など中国貿易にちなむ地名も数多く残っている。鹿児島の在来水道の背後にはこの種の海外技術の影が見え隠れする。
明治以降もこの在来水道が改良のうえ利用されていたが、明治末には悪疫が流行し火災も多発するようになった。1913(大正2)年に市議会にて臨時上水道調査費が可決され、前述の中島を顧問として1922年3月に七窪水源地、上之原配水池を主体とする創設水道が完成した。七窪水源地は七窪渓谷の湧水4個所と送水隧道内の湧水から取水し集水池にて合流させるもので、水は自然流下により上之原配水池を経て市域に配水されている。当時の湧水について1913年の地元新聞では「滾々(こんこん)として流れ出ずる清澄の水にして、試みに手に掬いて之を嚥下せば、両腋清風を生じ氷水以上の価値あるを覚へしめたる」と大々的に称えているほか、中島は水質に加え水量の豊富さを特筆している。水源に設置された集水桝と接合桝がいずれも石積の外観に仕上げられているところは、いかにも鹿児島らしい。これは後の1931(昭和6)年から始まる第1次拡張工事で整備された滝之神水源地にある各施設の外観にも踏襲されている。
一方、同年に竣工した上之原配水池は流動壁5列を備えたRC造で、側壁には珪藻土が混入されている。敷地内には、垂水(たるみず)村産の花崗岩を用い、竿頭に鹿の彫刻があしらわれた壮麗な水道記念碑も建立されている。この水道ルート上にある6個所の送水隧道のいくつかは、尾根を貫通する貴重な生活用道路として、現在に至るまで機能し続けている。
水道事業が新たな「水道道」なる道路を副次的に生成する事例は横浜や神戸、横須賀などにも見られるが、侵食谷という鹿児島特有の地形を貫通するアクセスが実現したことの意味はきわめて大きい。
鹿児島の水道には、所与の地質・地形的条件に潔く立ち向かい、これを巧妙に克服あるいは活用しながらも、先進技術を積極的に進取してきた薩摩人の革新性が強く刻まれている。薩摩隼人の気概と勇猛果敢な探究心は、ここにも確実に生き続けているのである。
諸元・形式:
形式 鉄筋コンクリート造(上之原配水池)
竣工 1922年
(出典:見どころ土木遺産 第61回 鹿児島七窪水源地,岡田 昌彰,土木学会誌94-8,2009,pp.34-35)
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453)
鹿児島県鹿児島市