天然の良港として知られる徳山港の沖に、「回天(かいてん)の島」と呼ばれる大津島(おおづしま)がある。南北に細長いこの島は、かつては二つの島であったと言われている。おそらく、二つの島をつなぐように発達した砂州がやがて陸地化し、一つの島となったのであろう。この島の一角、まさに二つの島をつなぐ場所に、第二次世界大戦末期の1944(昭和19)年9月、海軍省(当時)の大津島回天基地が開設された。
「回天」とは、〝天を回らし、戦局を逆転させる〞との願いを込めて開発された特殊兵器の呼称である。機密保持のため「丸六金物(まるろくかなもの)」と呼ばれたこの特殊兵器は、改造された魚雷に人が乗り込み敵艦に特攻する、いわば「人間魚雷」であった。大津島には、回天の搭乗訓練が行われた発射訓練基地が、全国で唯一、ほぼ当時の姿のまま残されている。
徳山港から旅客船に揺られること約20分、徳山湾に面する大津島の馬島(うましま)港に到着する。この一帯には、かつて魚雷調整工場や兵舎、工員宿舎など、大津島回天基地のさまざまな施設が設けられていた。現在でも、基地の門柱や変電所、危険物貯蔵庫や点火試験所、そして基地を取り巻く分厚いコンクリート塀など、一部の施設が残されている。
その一角に、島の反対側に建設された回天発射訓練基地へと続くトンネルが口を開けている。当時は、魚雷調整工場から回天をトロッコに載せ、トンネルを通って発射訓練基地まで運んでいた。トンネル内には、現在でもトロッコのレール跡が残されている。
暗いトンネルを抜けると、視界が急に開ける。のびやかに広がる周防灘に浮かぶ小島のように、無骨な鉄筋コンクリート造の回天発射訓練基地が目に飛び込んでくる。
回天発射訓練基地は、1939(昭和14)年に建設された海軍省の魚雷発射試験場を前身としている。戦局が厳しさを増す1944年8月、試作が続けられてきた回天が、海軍省の正式兵器として採用された。1944年9月1日、魚雷発射試験場や魚雷調整工場などの施設が整えられていた大津島に回天基地が開設され、4日後の9月5日より訓練が始められた。
大津島の回天発射訓練基地は、8個のコンクリートケーソンを基礎として、鉄筋コンクリート造2階建ての上屋とそれに続く作業場などからなる。上屋の1階には、2本の魚雷昇降口が設けられている。当時世界的に高性能を誇った九三式酸素魚雷が、天井クレーンによりこの魚雷昇降口から海面に下ろされ、発射試験が行われた。九三式酸素魚雷よりもひと回り大きい回天は、魚雷昇降口を使うことができない。そのため、新たに回天用のクレーンが設置され、搭乗訓練時には、回天はトロッコから直接クレーンで海上へ吊り降ろされた。これらのクレーンはすでに撤去され、現在では回天用クレーンの台座跡が残るだけとなっている。
基礎のケーソンは、当時の内務省大分築港事務所で製作されたものである。1938(昭和13)年10月23日から翌年10月24日まで、ほぼ1年がかりで、8個のケーソンが一つずつ、大分築港事務所から大津島まで曳航された。曳航に要した時間は、気象条件にも左右されたが、各回およそ30時間程度であった。なお、トンネル出口から発射訓練基地に至る通路の基礎にも5個のケーソンが用いられているが、これらは現地で製作されたものである。
1944年11月8日、最初の回天隊である菊水隊が、大津島の回天基地より出撃した。回天は、潜水艦の甲板に搭載され、敵地まで運ばれる。終戦までに、大津島の回天基地から延べ18隻の潜水艦で81基の回天が出撃した。回天の搭乗訓練を受けた搭乗員は、17歳から28歳まで、1375名に上る。訓練中の事故も含め、回天隊員や整備員ら145名の尊い命が失われた。没時の平均年齢は、21.1歳であった。
戦後間もなく大津島の軍事施設は解体されたが、回天発射訓練基地は解体を免れた。かつて、戦地に赴(おもむ)く若者たちの厳しい訓練の場であった回天発射訓練基地は、現在、回天の歴史を語り継ぎ、子どもたちへの平和教育を進める場として、地域の人びとの手によって大切に守られている。
諸元・形式:
形式 鉄筋コンクリート造2階建/
規模 発射訓練基地部ケーソン:重量700t/幅7.5m/長さ12.0m/高さ10.0m/喫水7.5m
通路部ケーソン:重量72t/幅4.0m/長さ5.0m/高さ5.2m/喫水4.5m
竣工 1944(昭和19)年(回天発射訓練基地)/1939(昭和14)年(魚雷発射試験場)
(出典:大津島(旧)回天発射訓練基地,阿部 貴弘,土木学会誌93-7,2008,pp.62-63)
山口県周南市大津島