1891(明治24)年9月、東北全線が全通したが、当初、国内鉄道の最北端にあたる当地方の冬季の列車運行は、連日の地吹雪のため困難を極めた。線路沿いに雪よけの板塀や雪覆いが設置されたが、強風で倒壊したり蒸気機関車の火煙で延焼したりして、用をなさなかった。
この線を運航する日本鉄道株式会社(日鉄・当時)の経営に参画していた渋沢栄一は、同郷の青年林学者本多静六の進言を受けて、決定的な地吹雪対策として沿線樹林帯の造成を決断する。1893(明治26)年には本多の指導により水沢~青森間の41ヵ所でいっせいに造林が実施され、最初の鉄道林が誕生した。野辺地駅構内に残る野辺地防雪原林はその一つである。
本多静六(1866~1952)は、現在の埼玉県久喜市菖蒲町の生まれ。苦学して東京山林学校(東大農学部の前身)を卒業後、ミュンヘン大学で国家経済学博士号を取得し、1900(明治33)年から1927(昭和2)年まで東京帝国大学の初代造林学教授をつとめた。わが国の林学の基礎を築き、日比谷公園や明治神宮の森など、全国数百の公園、庭園の設計、改造、提言にかかわり、「日本の公園の父」ともいわれる。86年の生涯において、学術書、啓蒙書大小370冊余りという膨大な書物を残した。
鉄道林に関しては、1906(明治39)年の日鉄国有化後も引き続き帝国鉄道庁嘱託となり、1942(昭和17)年にその職を辞すまで、実に48年間にわたって後進の指導に当たった。
地吹雪は、大量の雪が風によって水平方向に運ばれることで起こる。風が運搬できる雪粒子の量は、風速のおよそ3乗に比例し、飛ぶ雪粒の9割以上が雪面上20~30㎝の範囲を移動する。したがって、高さ3mほどの樹林でも、風を弱めて運ばれてきた雪粒子を林内や林の周囲に堆積させ、そのぶんだけ線路上への吹きだまりを軽減する効果は非常に大きい。事実、全通間もないころの東北本線乙供(おっとも)~小湊間には15ヵ所、延長約5㎞の雪覆いが設置されていたが、防雪林の生育にともなって次第に不要となり、1901(明治34)年度から1928(昭和3)年度までの期間にすべて撤去されている。
最初の吹雪防止林の成功は、それ単体でも特筆すべき業績であるが、さらに事業計画者としての本多静六の面目躍如なのは、その後全国の鉄道林発展の制度的基礎となった「鉄道院防雪林計画」である。このなかで本多らは単に防災機能上の観点だけでなく「優ニ独立シテ自ラ一個ノ経済ヲ維持シ或ヒハ将来一種ノ財源タル事」を考慮して防雪林の構成仕様を決めた。
実際、初期の林が成林に達した後の大正年間以降、昭和40年代の半ばを過ぎるころまで、鉄道林は防災設備としての費用対便益を考えるまでもなく、一個の林業として経営することが可能であった。すなわち、林の設置面積の増大と生長に伴って発生する材木は直営の製材所を設けて駅舎などの建築用材やマクラギに加工して利用するに足る量に達し、さらに余剰の丸太を売却して得られる収入は年々の鉄道林保守および更新経費をまかなって余りあった。
現在、野辺地駅構内の野辺地2号林の一角には、2つの碑が残されている。1つは、本多静六自身の揮毫(きごう)になる「防雪原林」の石碑で、1940(昭和15)年の紀元2600年記念事業として建てられたものだ。もう1つは、国鉄総裁十川信二揮毫の「野辺地防雪原林」の記念碑で、1960(昭和35)年にこの林が鉄道記念物に指定された際に建てられたものである。
1992(平成4)年には、JR東日本盛岡支社、野辺地町共催の防雪原林設置100周年を祝う式典が、林内に新たに設置された小公園で行われた。静六の生まれ故郷、埼玉県菖蒲町(当時)からも町長など関係者が訪れ、これが縁で2つの町は友好都市となった。なお、2010(平成22)年12月の東北新幹線新青森開業による東北本線の移管にともない、野辺地防雪原林は青い森鉄道株式会社に譲渡され、現在は同社によって維持管理が行われている。
諸元・形式:
形式 林種 鉄道林(吹雪防止林)
主な造林樹種 スギ
規模 防護延長400m/奥行き50m
設置 1893年
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453)
青森県上北郡野辺地町(野辺地駅構内ほか)