和歌山県と兵庫県淡路島の間の紀淡海峡に浮かぶ島々(沖ノ島・地ノ島・神島・虎島)は友ケ島と総称され,その中で一番大きく,海峡中央に近い沖ノ島は,フレンドリーアイランド友ケ島として,現在では自然と史跡の観光地となっている。この沖ノ島に陸軍が建設した友ケ島砲台群がある。沖ノ島までは,和歌山市加太から友ケ島汽船が運航され,約20分で運んでくれる。加太の乗船場までは,和歌山で南海電鉄加太線に乗り,終点加太で降り,徒歩約15分である。
明治初年から,陸軍は国土防衛のため,東京湾をはじめ全国主要な地に砲台を建設することを計画し,まず1880(明治13)年に東京湾の観音崎砲台工事に着手した。つづいて1887年に,対馬・下関の砲台工事が開始され,1889年に大阪湾入口の紀淡海峡地区に砲台建設が開始された。敵艦船が紀淡海峡から大阪湾に侵入するのを阻止するため,淡路島の由良地区に11か所,友ケ島地区に6か所,加太地区に8か所の砲台が建設され,これらを由良要塞と称した。このように日清戦争前に砲台が建設されたのは,東京湾・対馬・下関・由良の4要塞であり,それだけ当時において紀淡海峡が重視されていたといえる。
日清戦争後には,鳴門・芸予・広島湾・佐世保・長崎・舞鶴・函館要塞が建設され,日露戦争までに完成した。
友ケ島には,6か所に砲台が築かれ,それぞれ備砲が据えられた。明治期に建造された砲台は,砲座(砲を据えた台座)が露天で,砲座の前方は石・煉瓦・コンクリートなどの胸墻(きょうしょう)を設け,砲座と砲座の間に同材料の横墻(おうしょう)を設けて,火砲および兵員を敵の砲火から掩護するように造られている。横墻の下には,通常砲側弾薬庫(砲側庫)を設ける。砲側庫の天井は半円形のアーチとし,煉瓦・コンクリートまれに切石を用い,脚壁は通常煉瓦を用いる。また砲台には,観測所・弾薬庫・掩蔽部(地下兵舎)などが造られる。さらに隣接諸砲台で共通利用する照明所(探照灯設置所)と発電所(超小型の火力発電)が造られる。砲座には,火砲1門を据えたものと,2門据えたものがある。口径27糎加農(カノン)砲・24糎加農砲は1門砲座で,その他の28糎榴弾砲,15糎以下の加農砲,臼砲などは2門砲座とするのが基準であり,友ケ島砲台群の各砲台砲座はこの基準で建造され,第1・第2砲台は1門ごとの砲座で,その他の砲台は2門砲座である。
友ケ島砲台群のうち,第2砲台は,終戦時米軍による爆破で砲台右翼の第1・第2砲座は完全に破壊され,左翼の第3・第4砲座も半壊状態である。その他の各砲台は,ほとんど破壊されずに昔の姿を残している。全国の各地の要塞砲台のなかでも,これほどまとまってよく原形を残しているところはない。特に第3砲台と第4砲台は,28糎榴弾砲砲台の摺り鉢状砲座や地下砲側庫および掩蔽部などの地下構造物がその特色ある原形を留めていて,砲台の構造・機能や当時の土木技術を理解するのに役立つものである。
これら砲台の胸墻・横墻および地下構造物ならびに野奈浦に残る発電所・兵舎などのほとんどが煉瓦造りで,その積み方は,いわゆるイギリス積みである。陸軍は,明治20年代以降,砲台の煉瓦構造物をイギリス積みに統一していたからである。
また戦争遺跡として全国的にも珍しいものとして,第1砲台の左右両翼にある有蓋観測所および海軍の防備衛所(海底に聴音機を設置して潜水艦を探知する所)が残っている。
これらの砲台群は,土木遺産としてまた戦争遺跡として,末永く保存されるべきであろう。
諸元・形式:
友ヶ島第1砲台:起工1889(明治22)年9月/竣工1890(明治23)年11月(平射砲:27糎加農砲×4)
友ヶ島第2砲台:起工1894(明治27)年8月/竣工1898(明治31)年4月(平射砲:27糎加農砲×4)
友ヶ島第3砲台:起工1890(明治23)年10月/竣工1892(明治25)年5月(曲射砲:28糎榴弾砲×8)
友ヶ島第4砲台:起工1890(明治23)年11月/竣工1892(明治25)年5月(平射砲:12糎加農砲×2,曲射砲:28糎榴弾砲×6)
友ヶ島第5砲台:起工1900(明治33)年1月/竣工1905(明治38)年3月(平射砲:12糎加農砲×6)
虎島砲台:起工1895(明治28)年10月/竣工1897(明治30)年2月(平射砲:9糎加農砲×4)
(出典:由良要塞 友ケ島砲台群(土木紀行),原 剛,土木学会誌89-7,2004-7,pp.54-55)
和歌山県和歌山市