宗谷海峡を隔ててサハリンに対峙する重要港湾・稚内港。そこには通称「北防波堤ドーム」と呼ばれるユニークな防波施設がある。これは稚内特有の強烈な風と高波を防ぐために考案された1936(昭和11)年創建の鉄筋コンクリート構造物であり,隣接して整備された樺太航路用の岸壁とともに,戦前はきわめて重要な役割を果たしてきた。戦後は利尻・礼文に向かうフェリーと,1995(平成7)年に復活を遂げた日ロ定期フェリーが発着する最北の玄関口として機能してきた。戦前は稚内桟橋駅が併設され,ドーム内の回廊は宗谷本線から樺太航路に乗り継ぐ乗客の通路にもなっていた。今は駅の役目は終えたが,稚内の歴史,風土を雄弁に語る第一級の観光施設である。
世に出ている資料のほとんどには,当時稚内築港事務所の26歳の技手,土谷実(1904~1997)が設計したと紹介されている。しかし,そんな若い技術者がどうやってこの仕事を成し得たのだろうか。また,なぜこのような造形になったのだろうか。
土谷は北大の1期生であり,病気のため半年遅れて1928(昭和3)年10月に稚内に着任し,防波堤のケーソンの製作を担当していた。ひと月後,平尾俊雄と運命的な出会いをする。平尾は1916(大正5)年に東京帝国大学を卒業し,廣井勇ゆかりの小樽築港事務所で伊藤長右衛門の薫陶を受け,その後網走と稚内の築港事務所長を兼務することになった技術者である。
稚内港北防波堤の設計にあたり,平尾は土谷に防波堤の胸壁を越える波の観測と海中に打設した木杭の腐食調査を命じた。木杭は虫に食われていた。また,稚内特有の強烈な風にともなう高波は高さ24尺(約7m27cm)の壁を簡単に乗り越えた。平尾はその調査結果を見て,防波堤に天蓋を設けることとコンクリート杭を使うことを決断した。そして1931(昭和6)年1月,土谷にこの防波堤の設計を命じた。そのとき,平尾はフリーハンドで絵を描き,天蓋をドーム状に示した。全体のスケールは越波の観察から平尾が判断したのである。
土谷は途方に暮れてしまった。なにしろ庇(ひさし)の付いた防波堤など,日本の誰も造った経験がなく,相談する相手もいない。しかし,二つの幸運があった。ひとつは卒業論文でコンクリートアーチ橋を手掛け,アーチ橋の設計図書やドイツ語の参考文献をひもといた経験があったこと,もうひとつは大学時代の建築の講義(当時北大では道庁建築課長の福岡五一が土木の学生に建築学を教えていた)で強く印象に残ったギリシャ・ローマ建築の講義資料を持っていたことである。彼は開き直って設計に没頭した。古代ローマの影響が感じ取れるドームの外観はこのような事情で誕生したのだが,アーチの梁が徐々に壁面に埋もれていく納まりや,砕いた波を遮断するために設けられた最上部のしぶき止めのデザインからは,彼のただならぬ力量が感じられる。「意匠に関しては怖いもの知らずだったのが幸いした。後で型枠に泣かされたが。もし,自分がいっぱしの港湾屋に成長していたならば,こんな大変な意匠にすることはなかっただろう」。後年,土谷はそう語っている。
設計者は二人存在した。つまり,基本構想とその技術的なバックボーンは平尾によって固められ,詳細設計を土谷が担当したのである。平尾は土谷のユニークな造形に何ら注文をつけず,これを実現すべく内務省を説得して歩いた。その際,責任者として設計に深く関わっていたにもかかわらず,彼は決して自分の設計とは言わなかった。土谷は晩年になって自分の名ばかりが出ることを気にしていて,「平尾さんと私の合作というべきなのだ。平尾さんがいなかったら,あそこまで思い切ったことはできなかった」と述べている。
面白いことに,当時の土谷は庇の付いた防波堤が世にも珍しいものだとは知らなかったという。また,平尾は少しも褒めなかったので,自分の設計がどのくらい評価されているかもわからなかったらしい。土谷にとって12年先輩の平尾は大変こわい存在だった。しかし,平尾はその後本務が函館に移ったときに土谷を連れて行ったり,海軍の依頼で海南島の築港工事を指揮する際には土谷を引き抜いて補佐役に据えている。平尾は土谷を高く評価していたし,土谷もまた新工法に先頭切って挑戦する平尾を心から尊敬していた。
このドームは,長く師弟関係を続けることになる二人が知恵を結集して造った記念碑的な作品でもある。ゆえに,土谷が望むように「二人の合作」と評したい。
ところで,ドームは最初から名所だったわけではない。土谷によれば,1964(昭和39)年に毎日新聞がドームと土谷を大きく紹介し,これが契機となって観光ガイドブックや雑誌にたびたび登場するようになったらしい。その後,1976(昭和51)年に最大の転機が訪れた。ドーム内は石炭置場に使われていたが,塩害でぼろぼろに劣化し,取り壊されることになったのである。しかし,すでにこの建造物は稚内市のシンボルとして定着していたため,市民の熱心な働きかけにより,原型に忠実に復元されることになった。復元工事は1980(昭和55)年に完成した。
このように,地域の経済活動に貢献し続ける意匠に優れたインフラは,地域アイデンティティに少しずつ影響を与え,文化形成にひと役買うようになる。ドームはそのような水準に到達していたからこそ,こうして更新され,継承されたのである。機能を満足するだけでなく,地域文化の表現者としての幸せな土木施設の姿がそこにある。
さて,このような地域貢献を果たす公共施設をどうすれば提供できるのだろうか。あくまでも経済性を優先して性能を満たすだけの施設を提供するのでは,この水準のものはなかなか誕生しないだろう。あの土谷も,技術者として経験を積んだあとにあのような造形を行うことは二度となかった。ドームを実現させたのは,経験豊かな平尾の慧眼と指導力,行動力なのである。
諸元・形式:
形式 鉄筋コンクリートドーム型防波堤
規模 高さ11.4m/幅15.2m/延長427m
竣工 1936年(1980年復元)
(出典:稚内港北防波堤物語 平尾 俊雄・土谷 実の合作(土木紀行),畑山 義人,土木学会誌89-2,2004-2,pp.70-71)
(出典:著者名:土木学会/編集 書籍名:日本の土木遺産 近代化を支えた技術を見に行く 頁:206 年:2012 分類記号:D01.02*土 開架 登録番号:58453)
北海道稚内市宝来