熊本から列車で一時間ほど揺られると,三角半島の突端,三角駅へ到着する.駅前の現代的なフェリーターミナルを横目に,さらに山を越えて西へ進むとそこが三角西港である.現在では道も走りやすく整備されているとはいえ,便利な場所ではない.鉄道や車を使うなら「辿り着く」という言葉がふさわしい.
同じ思いを,瀬戸内海路の鞆(広島県)や玄界灘に面した鐘崎(福岡県)を訪れたときに抱いたことがある.陸路で往くのには難儀する場所だ.だが港に立って海に対すれば,途端にその辺鄙な場所は,目の前に広がる海域を掌中に収める要衝へと変貌する.地図を見れば三角の地は,熊本市と陸路で直結しつつ,西九州の沿海の海路・物流を掌握して,中継地としての機能を発揮できる絶好の戦略的な立地であることが理解できよう.もちろん,明治期の近代化の険しい足取りにあえて興味を向けなければ,私たちもまた単純に,三角西港の穏やかなレトロ気分を満喫することが許されるのだが.
1876(明治9)年の神風連の乱,続いて翌年の西南の役,と重なる戦乱で荒廃した熊本県は,経済建て直しのため殖産興業政策を進め,これに対して明治政府は,1880(明治13)年に内務省嘱託の技師であるローエンホルスト・ムルドルを調査のため派遣した.熊本県は,九州西部での運輸・流通拠点の確立を目指し,1876(明治9)年11月より県の権令に就任していた富岡敬明が,ムルドルに同行して港湾建設の適地を探し回った.当初は坪井川河口での百貫石築港計画が構想されたが,ムルドルは砂の堆積による水深の浅さや河川水害による被害を危惧し,難色を示したといわれる.最終的には,水深を深くとることができると同時に山腹や島に囲まれて風雨や波浪を防げる三角が選ばれた.
恐らくは,三角に先立って実施された築港事業の反省もその伏線にあろう.いわゆる「明治三大築港」とよばれる港のうち,1880(明治13)年にいったん完成した福井県の三国港は,土砂の堆積に悩まされたうえ,1881(明治14)年に激しい波浪で岸壁を大破する.1882(明治15)年に完成した宮城県の野蒜港は,三角港の着工後間もない時期,1884(明治17)年9月の台風で破壊されてしまう.強固な防波突堤を造る技術や資金が不足した時代に,ファン・ドールン,エッセル,デ・レーケといった同じオランダ人技術者が関わった仕事の末を聞きながら,ムルドルは三角港の立地選定に対する自信を深めていったのではないだろうか.自然に対する最前線に築かれる土木施設空間の立地と,その空間構成は,その設計時の建設技術や交通・流通技術から決定される面が強い.現代の私たちがその場所で目にする風景の姿は,それを造った時代の「自然と対峙する技術」がもつまなざしそのものであるといってよい.
三角港は,業務的な港湾機能とともに,坂道や階段でつながる背後の山腹斜面地までを一体的な都市空間として有しており,一段高い山の中腹に長崎税関三角支署,宇土郡役場,裁判所といった,流通・行政の中核機関が配置された.さらに平地部分については,岸壁から垂直に2本の排水路を陸に貫入させ,山の辺を巡るように町の背後を周回・連結させている.岸壁と水路という二つの直交しあう骨格は,それに沿って展開するさまざまな建築の佇まいを映し出す.単なる岸壁の建設ではなく,広がりと奥行きをもって帯状に展開する都市空間を体現しているのは,オランダ人技術者の面目躍如であろう.
築港事業の進捗は早く,1883(明治16)年に熊本県が三角港の築港と熊本市からの連絡道路(現在の国道57号線)建設を決議したのを受け,国も同年10月には建設を認可した.翌年5月に着工した三角港は3年後の1887(明治20)年8月に完成した.港湾工事を請け負ったのは,長崎市の大浦天主堂の施工者でもあった天草の大工棟梁の豪商,小山秀である.
1889(明治22)年に三角港は特別輸出港として認定を受け,石炭等の輸出も可能になり,続いて翌年7月には㈱九州鉄道(宇土-三角間)の敷設工事が始まる.九州鉄道は,門司港と三角港とを両端にもち直結する幹線を構想したようであるが,三角港に隣接した鉄道駅の設置が地形上困難であったため,終点の三角駅は山を隔てた土地に置かれてしまう.1899(明治32)年の暮れの鉄道開通を境に,明治後期の流通技術と乖離した三角港は,急速にその戦略的な役割を失ってゆく.有明海に面した三井三池港が1908(明治41)年に造られ,三角駅に隣接して三角東港が修築された結果,昭和初期には,三角港からは港湾流通機能がほとんど転出し,戦後から高度成長期を経て,地方の一漁村としての様相を呈した.
現在の三角西港は,1985(昭和60)年に歴史文化遺産を活用した港湾環境整備事業の指定を受けた後,1987(昭和62)年の築港100周年を期に再整備されたものである.ほぼ原形で残る都市の骨格要素に加え,倉庫,官公庁建築,店舗,旅館等も,文化財指定や考証復元などの手法で地区内に姿をとどめ,観光・教育資源としての位置づけがされてきた.同時に,1992(平成4)年にはくまもとアートポリス’92,選定既存建造物に選ばれるなど,順調に知名度を高めている.平成12年度の観光客数も年間28万人強とされ,増加する傾向にある.岸壁の背後に残存していた旧い倉庫が,今では洒落たレストランとして改装され,静かなBGMと波の音の中で湾の景色を眺めることもできる.しかし今なお,残された明治期の空間資産を活用した生活の場としての三角西港の行方は定かではないように思う.老夫婦や家族連れが三々五々訪れ,散歩し語らう情景が日常的に見られるようになり,愉しむ側の意識が遺された空間資産の魅力にようやく追いついたばかりである.一世紀前にこの場所に託された人々と技術者が描いた夢への思索を怠ることなく,引き継がれた資産がゆっくりと地域の手で育まれることを,願わずにいられない.
諸元・形式:
構造形式 石造(安山岩)切石積み/埠頭岸壁の延長 約730m
設計者:ローエンホルスト・ムルドル(Rowenhorst MULDER)(1848-1901)
竣工:1887(明治2)年竣工
(出典:三角西港 今も生きる夢の足跡(土木紀行), 仲間 浩一,土木学会誌87-9,2002-9,pp.36-37)
宇城市三角町三角浦